20 スラッシュ
「ところで、このコーヒー豆って朱羽さんが買ったんですか? 俺、春までここのカフェで働いていたんですよ」
それを彼女に尋ねるのは気まずかったが、心に閊えたモヤモヤは晴らしておきたかった。
「前に居たカフェって、あそこだったの! そっか……えっと。その豆ね」
朱羽は急に大人しくなって、毛先をそっとバスタオルで挟みながら恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「ちょっと飲んでみたかったの。マサさんがコーヒー好きだっていうから。あの店を選んだのは、人気だってネットに書いてあったからよ?」
「やっぱり!」と喜んではみたものの、本人の口から言われると心が疼く。
コーヒーメーカーも殆ど使っている形跡はなかった。
人を好きになるって凄いことだなと思いながら、まだ会ったことのない『マサさん』に嫉妬してしまう。
「それにコーヒーが飲めないって言うと、京子が「子供だ」って揶揄うのよ。けどやっぱりまだ苦いなって思って。結局その豆も少ししか飲まないでそのままになっちゃった」
ツンと唇を尖らせて、朱羽は龍之介が用意したティカップを手に取ると、沸き立つカモミールの匂いにホッと表情を緩めた。
龍之介は朱羽の向かいに座って、熱いカモミールをすすった。少し冷えていた体には嬉しい温度だ。
「朱羽さんって、京子さんと仲いいですよね」
「え? そう見えた? 昼間のアレで?」
怪訝な顔をする朱羽に、龍之介は「違うんですか?」と眉を上げる。
「私は京子に会うと、いつも喧嘩してる気がするけど」
「仲の良い友達って感じでしたよ?」
「そう――けど、私はずっと京子にコンプレックス引きずっているのよ。マサさんのこともあるけど、あそこに戻れないのは彼女に負い目を感じてるのもあるわ」
「すみません、変なことばっかり聞いちゃって」
「いいのよ。龍之介は話し易いから」
それはどういう意味なのだろうか。素直に嬉しいと喜べばいいのに、ただの雇われ者だからだろうと勘ぐってしまうのは、龍之介の悪い癖だ。
「一緒に訓練してても、いつもあの子ができて、私が劣等生だった。あの人に褒めてもらいたくて頑張ったけど、結局京子には勝てなかったの」
「だから、朱羽さんはここに?」
「うん」と朱羽は哀しそうに笑う。そして右の人差し指をピンと伸ばすと、テーブルの上で斜めに指を滑らせた。
「スラッシュ。どっちにする? っていう意味よ。マサさんに言われたの。十年この事務所で仕事して、あそこへ戻れないようなら他の道を勧めるって。私はここへ逃げて、意地っぱりになってるのよね」
今日、十年更新のIDを書き換える為、彼女はアルガスへ足を運んだ。彼女の選ぶ道は、キーダーか『/』トールか。
「朱羽さんは戻りたいんですか? アルガスに」
「どうかな。今までここは私一人の場所で、誰かが入って来るなんて考えたこともなかったけど、龍之介が来てちょっと楽しいって思ったの。だから、もう少しこのまま居れたらって我儘になっちゃう」
「朱羽さん! 俺ならいくらでも居ます!」
嬉しくてたまらなかった。冷静でなどいられなくなって、持ち上げたティポットをひっくり返しそうになる始末だ。
「落ち着いてよ、龍之介。何か湿っぽくなっちゃったね。ご飯食べに行こっか」
朱羽の着替えを待って外に出ると、あれだけ降っていた雨が止んでいた。
朱羽が常連だという近所の古い食堂まで百メートル。普段なら短いと思うその距離を、龍之介は彼女の隣をゆったりと歩いた。
少しだけ恋人気分を装って背伸びしてみるけれど、ふと彼女の横腹にある傷を思い出した途端、笑顔の裏の現実を垣間見てしまった気がして、急に不安が舞い降りてきた。