1 桜の散る夜、最悪の出会い。
その日、空から隕石が落ちてきて、一人のキーダーが類まれな力で東京を救った。
彼が世に刻んだ功績は国中を沸かせるものだったけれど、それは今から三十年以上も前の話だ。その後生まれた平凡な高校生の龍之介には、ただの歴史でしかなかった。
彼女に出会うまでは――。
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「近年稀に見る積雪だ」と連日のように騒がれていた冬も終わり、ようやく桜も咲いたというのに、夜はまだ大分寒い。開けた途端に入り込んだ冷たい風に扉を一度閉めて、相葉龍之介は腕に抱えたダッフルコートを羽織った。
「龍之介君のお陰でアイツも無事に合格できたし、本当にありがとう」
閉店準備に入った店長から厚みのある茶封筒を受け取って、龍之介は「ありがとうございました」と頭を下げた。
それまで手伝いをしていた彼の妹が高校受験という事で、年末から代打で入った短期バイトの最終日。「いつでも遊びにおいで」なんて社交辞令のようなものかもしれないけれど、コーヒーを飲めるようになったのはこの店のお陰だから、財布に余裕があれば今度は客として来たいと思う。
そんな事を考えながら、龍之介は礼を繰り返して寒空の下に自転車を走らせた。
白い息を吐きながらいつものルートを外れて川沿いへと向かうのは、今日来た客が「桜が満開で綺麗だった」と教えてくれたからだ。
そこが花見スポットだという事は知っているし毎年一度は見に来ていたはずなのに、今年はバイトが忙しかったせいで咲いている事さえ気付かなかった。
夜九時半を過ぎても通りには人が多く、川沿いへ抜ける道へ出ると更にその数は増した。
道に並ぶ飲食店が店先を開放して、大人たちは宴会真っ盛りの様子だ。その間を埋めるように祭の屋台が出ていて、人の列は途切れることなく続いている。
龍之介は自転車を降りると、ハンドルを両手で押しながら家の方向へと土手を歩いた。見上げた頭上には六角形のぼんぼりが等間隔に並んでいて、散り始めの桜を朱色の灯りで彩っている。
「うわぁ。すっげぇ綺麗!」
周りの喧騒も一瞬耳から遠退いて、自分が風景に溶け込む感覚にホッと笑みがこぼれる。
風が吹くごとに舞う花吹雪を満喫しながら、龍之介はぼんぼりの途切れた路地の入口で足を止めた。
煌々と光る自動販売機の横に自転車を放し、背負ったリュックから貰ったばかりの茶封筒を取り出す。何せ財布には十円玉と一円玉の小銭しか入っていない。
花見ついでにコーラでも飲もうと千円札を引き抜こうとした時だ。
ザッと強い風が吹いて、軽い封筒がフワリと龍之介の手を離れた。
「ちょ、待ってっ! 俺の給料!」
衝動的に手を伸ばすと、幸か不幸か茶封筒は吸い込まれるように向かいから来た見知らぬ男の胸にぶつかった。失速して地面に落ちた封筒を、「なんだぁ?」と気の抜けた声で男が拾い上げる。
派手な柄シャツにテカテカのスカジャンを羽織った茶髪の男だ。彼は躊躇いもなく中身を確認すると、途端に太い眉を上げて嬉々とした表情を滲ませる。
「うっひょお、金じゃねぇか。ひぃふぅ、七万もあるぜぇ!」
風に舞う花びらに混じって、龍之介の頭に絶望感がドンと落ちてきた。
男は封筒に突っ込んだ指を抜いて、ニヤついた顔を龍之介に向ける。
一番拾ってほしくないタイプの相手だ。
「あ、あの。それ俺のです。バイト代なんです。返してもらえませんか?」
低姿勢で返却を求めると、男は眉間に皺を寄せて龍之介を睨みつけた。
「返せだぁ? 随分なこと言ってくれるじゃねぇか。拾ったのは俺だろう? まず礼を言うのが筋じゃねぇのか?」
「すみません……拾っていただいてありがうございました」
凄む男に怯んで龍之介は頭を下げた。最初に礼を言うべきだという事は分かっているつもりなのに、絵に描いたようなチンピラに気圧されて、頭が真っ白になってしまう。
そして予想通りの展開というべきか、男は「謝らなくていいぜ」と一蹴した。
「だってお前、俺がコレを「はいどうぞ」と返すようには見えねぇだろ?」
龍之介が怯えながら顔を上げると、男の舐めつけるような視線と目が合った。
「い、いえ……」
唐突な質問は、どう答えるのが正解だったのだろう。「はい」と言ったら殺される気がしたが、「いいえ」と言ったところでたいして反応は変わらない。男は「嘘つくなよ」と笑って、龍之介との間隔を大きな一歩で詰めた。
ここは桜の人気スポット。端とはいえ周りにはたくさん人がいるのに、誰も関わろうとはしてこない。みんな視線を合わせまいとそっぽを向いて足早に通り過ぎていくばかりだ。
けれど龍之介が「助けてくれ」と力なく絶望に暮れたところで、
「どうしたの?」
男の背後から女の声が掛けられたのだ。
良かったと安堵した龍之介が、それをとんでもない思い違いだと理解したのは、三秒後。
「お前か。どこ行ってたんだよ」
例え男の知り合いだったとしても、それが一瞬救いの女神に見えたのは、彼女の横顔が男とは真逆で大人しいタイプだったからだ。けれど、自動販売機の光に当てられた彼女の右頬が露わになって、龍之介は委縮してしまう。
いかにも柄の悪いその男より、黙った彼女の顔を見ただけでガタガタと足が震えだす。
黒色の濃い肩までのストレートヘアに潜むように、右頬から首に掛けて刺青があった。タトゥとか可愛いものではなく、彼女に絡みつくように彫られた昇り竜だ。
「あの……あっ、なっ……」
恐怖に支配された思考が言葉さえも奪っていく。
「この兄ちゃんが落とした金を、俺が拾ってやったのさ」
「へぇ」とアーモンド形の目を細めて女は龍之介に顔を向けるが、特に興味も示さなかった。
絶体絶命――龍之介の脳裏にそんな四文字が駆け抜けていく。男はそんな態度を「はん」と鼻で笑い、怯える龍之介に「じゃあな」と手を上げた。