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《令和元年 六月十日 午後九時三十分》
岐阜市内を一台の覆面パトカーが白いセダンを追っている。覆面パトカーに乗っているのは交通課の職員の巡査部長 田畑 浩平と、刑事課の巡査長 前坂 里見。
『止まってください! 前の白いセダン、止まってください!』
パトカーに備え付けられた拡声器で呼びかける前坂。だが運転している田畑から、前坂は怒鳴りつけられる。
「馬鹿野郎! 止まってくださいって言って止まる奴いねえんだよ! 貸せ!」
田畑は前坂からマイクを奪い取ると、そのままハンドルを握りながら白のセダンへと呼びかける。
『おい止まれ! 事故るぞゴラァ! 止まれっつってんだろうが! おいコラ!』
思わず里美は「えぇぇぇぇ」と引いてしまう。
里見にとって交通課とは、美味しいおでんを奢ってくれる優しい先輩がいる部署だった。しかし今運転している田畑は、組織犯罪担当と言われても違和感が無い。里美は勝手に田畑の背中には彫り物があるのでは……と妄想してしまうが、再び田畑は里美へとマイクを放り渡してくる。
「頼むぞ、応援なんだからよ」
「は、はい、すんません……」
里見は本来刑事課の職員。しかし今は急な人事異動の関係で交通課へと応援にきていた。普段里美はスーツ姿だが、今は田畑とお揃いの作業服にジャンパーという出で立ち。婦人警官がミニスカを履いて職務に当たっていた時代は本当にあったのだろうかと、里美は地味な今の姿に疑問を持ちつつ、再びマイクを持ち前方を走るセダンへと呼びかける。
『止まれ! 事故っても知らないぞ! さっさと止まれ!』
「いや、事故ったら嫌でも俺達処理するけどな」
運転席でツッコミを入れる田畑を睨みつけつつ、妙にイラっとした里美は思い切りマイクに向かって叫ぶ。
『お前マジでふざけてんの?! 私だって好きでこんな事してるわけじゃ無えんだよ! っていうか街中で暴走してんじゃねえぞカス野郎! さっさと止まれゴラァ!』
田畑は前坂の言葉が自分に向けられているのでは……と思い背筋が少し凍るが、セダンの前方へと先回りしたパトカーが割り込む。そのまま道を塞ぐように数台で固めると、セダンはやむを得ず停車。しかし運転席から一人の男が飛び出し、そのまま走って逃げようとする。
「押さえろ!」
里見はパトカーから飛び出し、男を追う。男は街中を歩く一般市民を突き飛ばしながら、岐阜駅南口前のスクランブル交差点まで来ると、ナイフを取り出し近くに居た女性を捕まえ喉へと突き付けた。そしてそれを里美を含めた数人の警察官へと見せつける。
「来るんじゃねえよ! どうせ俺は殺されるんだ! このまま逃がしてくれよ!」
「馬鹿野郎! さっさとナイフ捨てろ! お前自分が何してんのか分かってんのか!」
里見と共に走ってきた田畑は男へと呼びかける。男は見るからに尋常でない様子で、何かを警戒するように周りを見渡しながら女性の喉元へとナイフを突きつけている。
「ナイフ捨てろ! その子傷つけたらお前、本当に取返し付かない事になるぞ!」
「取返しなんて期待してねえよ! 俺は殺されるんだよ! だからその前に逃げようとしたのに……なんで追いかけてくるんだよ!」
元々、里美と田畑が男を追いかけた理由は路上駐車していた男へと注意した事が発端だ。里美の警察手帳を見るなり男は車を急発進させ、岐阜市の街中を暴走しだした。
里見はとりあえず落ち着かせようと、男との会話を試みる。
「ねえ! 貴方、何処の高校出身? 私は大垣工業なんだけど……」
突然そんな事を言い出す里美に、男も警察官も目を丸くするが、田畑だけは冷静に男の視線から外れ大きく回り込むように移動する。既に携帯を構えた野次馬が集まってきており、田畑はその影に隠れながら男の背後へと回り込む。
「お、俺は……中卒だよ……」
「へえ、運転上手かったねぇ。あのセダンもBMWだったし……もしかして車好き? 私もトヨタ86乗ってて……私の知り合いにもさ、中卒でトヨタのディーラーに働いてるオッサンが居るんだけど……凄い車好きなのよ。もう会ったらエンジンとかの話されて……正直、私はそこまで車好きってわけでも無いんだけど、弟がどうしてもって言うから買っただけで……」
「な、何の話してんだよ! いいからお前等、さっさとどっか行けよ!」
「分かった! 分かったから! 私達は消えるから……」
そのまま里美と警察官は後方へと下がる。すると男は女性を突き飛ばし再び逃げ出そうとするが、背後に回り込んだ田畑が男を捕まえ、そのままナイフを奪い取る。
「押さえろ!」
田畑の号令で警察官達は男へと一斉に飛び掛かった。里美は突き飛ばされた女性を抱えて離れ、怪我の有無を確認する。どうやら膝を少し擦りむいているようだ。
「痛え! 放せ! 放せぇ!」
「寝かせ! 寝かせ! 輪っぱ!」
怒号が飛び交う中、男は道路交通法違反、および婦女暴行諸々の容疑で現行犯逮捕された。
※
男に人質とされた女性を病院へとパトカーで送った里美。病院の待合室のベンチへと座り込むと、そのまま大きく溜息を吐きながら項垂れた。
「きっつぅ……交通課きっつぅ……デスクワークの方がまだいいわ……」
「そういうなよ」
その時、里美の頬へと冷たい缶コーヒーを当てつつ、田畑が里美の隣へと座った。里美は礼を言いつつ缶コーヒーを開けると、そのまま一気飲み。
「前坂、お前冷静だったな。他の奴等はボーっと突っ立ってただけだったが……」
「いえ……別に……」
疲れ果てた里美を見て、田畑を鼻で笑いつつ自身もコーヒを飲み始める。そのまま足を組みながら天井を見上げ、ベンチへと背を預けながら
「親父さんの墓参り行ってるか?」
そんな事を言い出した。里美は顔を上げ、ゆっくり田畑を見ながら中身の無くなった缶コーヒーへと口を付け飲むフリを。特に意味の無い行動だが、里美は父親の話題が出ると怪訝な顔をする。
里見の父親も警察官だった。家庭を顧みない父親に不満を持った里美の母は離婚届を突き出したが、その数年後、父親は過労で倒れ帰らぬ人となった。里美は父を恨んでいる。里美の母は離婚した事を後悔し、自分を責め続けた。そんな母を見ていた里美は、父を恨まざるを得なかった。
「父の事……知ってるんですか」
「よく怒鳴られたよ。ちょうど、お前に今日怒鳴ったみたいにな」
そのまま里美は無言で缶コーヒをゴミ箱へと捨てに行き、再び田畑の隣へと戻ってくる。
田畑は里美のその反応に溜息を吐きながら、缶コーヒーを飲み切る。
「墓参り、今度俺も連れてってくれ。言いたい事が山ほどあるからな」
「……わかりました」
そのまま田畑はベンチから立ち上がり、里美を肩へと手を置きながら
「おつかれさん。今日はもう上がっていいぞ。あの女の子は俺が送っていくから」
「……いいんですか? セクハラで訴えられても知りませんよ」
田畑は里美の肩に置いた手を急いで戻しつつ、結局一緒に女性を家へと送り届ける事に。
時刻は午後十一時を回っていた。