彼女
出会い
小鳥がさえずり、川のせせらぎが耳につく、鬱蒼とした森の中に心地良い時が流れています。
春の陽気さはまだ遠く、ほのかに積もる雪が太陽に照らされて、栄養いっぱいの養分として川に流れ込んでいます。
天を仰げば視界いっぱいの青空が広がり、清々しい気分になるような空が覆っていました。
が、清らかな場所とはかけ離れた無骨な建物が重々しく佇み、ミライはその内部にある一室に体を預けるようにして瞳を閉じていました。
真っ白いシーツであったことは確かですが、今は煤けてしまっていて、独創的な模様のようなものが描かれているベットに寝転がっています。
お世辞にも綺麗だとは口が裂けても言えないでしょう。
黒みがかった木製の床に、ひび割れて長い間手入れもされずに利用されていることを物語っている壁。
その隅に設置された寝床に、男性の背の高さよりも少々高い位置にある鉄格子から漏れ入る外の光が唯一の高原でした。
夜になってしまえば手元の作業など望めたものではないことがすぐにわかるほど、朝であっても少々の薄暗さが精神的な不安を誘います。
五メートル四方もない小さな部屋で、痩せ細り骨と皮に心なしか肉がついたような、病人の弱々しさを感じさせる男こそがミライでした。
他人の手を借りなければ、基本的な動きや、生命に関わる行動ですらまともに行うことは、まず難しいでしょう。
ただ単に体調が優れないのではなく、まるで時間という概念からかけ離れた不可解な雰囲気が取り巻いていました。
こんな変わりゆく世界とは隔離された錆臭い空間でも、隙間から侵入する空気によって熱せられたり、冷やされたりは慣れたものです。
慣れといっても完全なものでもありません。
屋内の環境が外気に引っ張られるごとに煩わしく感じていましたが、真夏だろうと真冬だろうと気にならなくなったのは、つい最近のことでした。
良く言えば自然と共にある生活を、悪く言えば体調の悪化を促してしまう部屋だったのです。
今年の冬は長期的なものとなったため始まりも早く終わりも遅く、農民たちの暮らしに支障をきたし始める頃合いで、まだ残る肌寒さが否めません。
そのため風をしのぎ、ある程度の保温性は確保されている厚い毛布を肩のあたりまで深くかけていました。
そこらの民家に大切に仕舞われている布よりもよっぽど立派なものです。
ただ単調なサイクルの中でミライは生かされていました。
死んだように眠るミライはこんな牢獄のような建物内部にいくつもある部屋の一室に閉じ込められるようにして、生活という言葉には到底及ばない状況下で生きていました。
例え、本人の意思に背いたとしてもです。
昔に一度だけ、覚悟も何も守るべきものが手のひらから滑り落ちてしまい、守るべきものなど何一つ存在しない状況が全て嫌になり区切りをつけてしまおうと自殺に走ったことがありました。
全てを失った自分に生きる価値を見出すことができるのだろうか。いや、わざわざ生き延びる価値はないだろう。
一人だけの議論の末、全会一致という結果の下、諦めるという決断を下しました。
その時の顔は、苦渋に塗れたものでも悲痛な表情でもありません。
興味などさらさらない、すでに失ったと言わんばかりの、この世への心思いが皆無な亡霊の姿です。
顔に張り付いていたのはただ無感情に第三者の視点から傍観している、自己の無関心が表れたものでした。
ゴミはゴミ箱へ捨てるのは当たり前なことですが、人の命すら、自分の命ですら投げやりに片付けてしまおうとするミライを警戒する者など無に等しいのです。
敢えているというのであれば、一日に一度、太陽が昇りる前の時間帯に現れる世話係でしょう。
畑仕事など若者に任せてから随分経つ腰の曲がった老婆が、一人でまともに生活をこなすこと自体不可能に近いと判断された者達の集まるこの建築物に訪れるのでした。
しかしその世話係も数年前から継続している職務なので今さら断る訳にもいかず、仕方なく世話をしてやっているといった様子でした。
ただ未だにその職務を全うしていることにも理由がありました。
雇い主が国の大本というだけあって金払いがそこらの商人たちより非常に良いのでした。
今日もいつものことながら素材の悪さが際立つ、下手なパン屋が焼いたようなパンのようなものと最低限の水。
この時代にパンのような小麦粉を用いられたものなど、働きもしないのに与えられるのはおかしなことでした。
国を統べる者の誰かから何かしらの必要性を見出されたのでしょう。そんな有難い見解すら、今のミライには関心の外でしたが。
それから乱切りにされた野菜の味が染み出したスープ。いわゆる湯で野菜を茹でただけの味気ないスープ。生で食べた方がよっぽどましなものを、使い古されて傷があちこちについたトレーで運ばれてくるはずでした。
ところが隙間風ばかりの静けさが続きました。
ミライは目をぱちりと開きます。
開いているのですが、やる気のない目とはまた違った生気が失われた光の通わない目でした。
ふと扉に視線を向けました。
「……遅いな」
淡々と呟くような声が、ぽつりと小さな一室に流れました。
腰の調子とは全くの逆の比較的軽い足取りで現れる老婆は、太陽が少しばかり沈み始めた頃になっても影すら見せません。
いつ何時だろうと名前の知らない世話係は金という対価のために、一度たりとも仕事を投げたことはありませんでした。
ある意味責任を持って善悪の問題ではなく自分のために他人のためになることをする、正直で欲に忠実な人間でした。
ミライは世話係が毎日のようにひっそりと見せる、退出時の顔をはっきりと覚えていました。
にやりと悪知恵を働かせたような小動物よりもねちっこい、粘り気のある笑いを見せるのです。
廊下が軋む音がしました。
徐々にミライのいる部屋へと近づいてきます。
ミライはうっすらと目を細めて、微かに口を顰めました。
残念さと疑惑の二つの意味で。
ギシ、ギシと壁越しに耳に届く音はいつものゆったりとした音ではなく、規則的な歩調でした。
甲冑を身につけ歩行する際に響く金属特有の音のようなものが耳に届きました。
足音の主はミライに用があるようで、丁度ドアのあたりでピタリと音が止みます。
誰だ?
ミライは数ヶ月、数年ぶりの不安心に襲われると、力無い瞳とは背反する睨みつけるような鋭い目で探りました。
扉越しにいるその何か。
はっきりと常人ではないことが理解できてしまう何かを。
ごくたまに足を運んでくる人間にこれほどまでの警戒心を抱かされた事例は皆無でした。
このようなことは明らかに異常なことだったのです。
ですがミライは大きく目を見開き周囲に鈍った感覚を張り巡らせるだけでした。
手を伸ばせば届く距離にある装飾一つない革に包まれた長剣を身に寄せるなどの足掻きは見せません。
あるのは意識だけです。
一種の潔さすらそこにはありました。
一息の間がおかれると、とうとうドアノブが部屋の中にいるミライに構わず回されました。
慎重な手つきから来訪者もかなりの緊張をしていることが見受けられます。
現れたのは意外な人物でした。
ミライはその人を見た瞬間、あんぐりと口を開きますがばつが悪そうにすぐさま唇を引き締めます。
きぃ、と噛み合わせの悪い蝶番が軋む音を立てながらドアが開かれると、そこに立っていたのは見覚えがある風格を纏うお堅い格好をした女性でした。
彼女は瞳と同じ色を持つ、ボタンで留める形式をとるジャケットのようなものに上半身を包み、下半身はこけた白色をしたズボンを着用していました。
平静に彼女を見つめられるのであれば、やっと一人の女性になれたような少しばかり幼さの残る顔が目につくでしょう。
そして足元には先程の異様な、特定の場所では嫌になる程耳にする音の正体が判明します。
どんな矢でも弾いてしまうような輝きを持つ銀色の金属板を曲げて作られたような、鉄靴と脛当を装着していたのです。
記憶が正しい限り初対面のはずでしたが、この女性個人のことではなくその女性が座する地位を考慮した考えばかりが溢れました。
これは……。
この美貌を孕んだ容姿に該当する人物は一人しか心当たりがありませでした。
この薄暗さの中でも淡く仄かに存在感を放つ、雪のような真っ白な肌。
流れ続ける川の底、闇を含んだ髪があるがままに腰のあたりまで伸びきっていました。
そしてこの時代の人間に限らず、ある程度価値観の共有を成せる時代の人々を無差別に百人選び出したとして、その内の過半数以上が優れた容姿に振り向くでしょう。
気の強そうな少しつり上がった目が、扉を開け目があった途端から尚もミライをじっくりと観察し続けていました。
「……」
「……」
ずっと見つめていると飲み込まれてしまうのではないかという錯覚に陥るような藍色の瞳が二、三回ほど瞬きを刻みます。
深海の闇を凝縮してはめ込んだようなそれは、光の加減によって不思議な色の変わり方をしました。
彼女は一歩踏み出すと鉄格子から差す光が顔を照らし輪郭をはっきりさせると同時に、彼女の瞳はより一層深みを増します。
体感的には長く、実際にはそれほど長いというわけではない、数秒の対面の間が過ぎ去りました。
枯れ木のような毎日を過ごしていたミライにとって、彼女は鋸を携えて森を脅かそうとする木こりでしょう。
じっと見つめられている間、コップいっぱいに溜まるほどの汗を流すほどミライは気が気でなりませんでした。
目の前の彼女はミライの様子に反比例する、至って冷静な態度でこの部屋を静寂の支配から断ち切りました。
ふむ、と目を閉じて頷きます。
何かを理解し、納得した表情で問いかけました。
「 失礼は承知して申します。あなたはの名前は、ミライ……ミライ・ガイデンですよね?」
容姿とは背反した芯の通った声でした。
いえ。見た目通り、のほほんとした他国の王女達とはかけ離れた、秘められた力を感じるものでした。
彼女は言い直す時、一瞬でしたが肌と相対的なはっきりとした色を持つ唇にぐっと力が入りました。
ミライもその問いかけに対して立ち上がりはしなくとも、背を正し無礼のないように慎重に答えました。
「はい、そうです。俺がミライ・ガイデンです。どうしてこのような場所に姫と肩書きを持つ、貴方が……」
ミライの生気の無さはとうに吹き飛んでいました。
この国を世襲制によって王族が統治する現国王の一人娘。
セラスフィール・ゼルニムの名を持つ、この国唯一の王女殿下その人でした。
そして別れ……ない!