下:終わりと始まりと彼女の悲鳴
暗幕は閉じられたまま、それに平行して歩いた。しけった空気に混じった塩素と埃の匂いがノスタルジーをくすぐり、非常灯がポツポツと薄緑に照らす世界は少し幻想的な空気がした。
鼻歌ももう何週かして、暗い廊下を歩き回るのもそろそろ飽きた頃に玄関に向かうと一人の少女がいた。
立ち尽くした少女の右手には傘、左手には黒皮の鞄。花束でも持って入れば洒落ていたのになと考えたが、益体も無いので頭を振って忘れた。
すらっと伸びた背筋にツンと真っ直ぐ通った鼻筋。例の女たちに散々悪態を付かれたその原因に今日また会うとは思わなかった。
彼女はただ外を見ていた。もう暗くて外なんてまったく見えないのに、ただ闇を見つめていた。その表情は泣きそうなのを堪えているのか、それとも何時もの様に毅然としているのか僕からはわからないけれど、ここで声を掛けなければいけない気がした。
「良い天気だね」
驚いて振り向く彼女を見るのは初めてで、それだけで気分が良かった。何だか僕の存在によって救われたような顔をしてこちらを見る彼女を、そしてそのような状況にいつもいる事を強いられてきたその環境を想像した。
「初めて、君から話かけてくれたね」
「こんな良い天気の日なら当然さ。愉快も愉快。今なら玉乗りだってしてやってもいいぐらいだね」
「そんなに喋るんだ。知らなかった」
「僕はよく喋るんだよ。君以外の人間にね」
そう言っておどける様に肩を竦めると、彼女は花のように微笑んで、そしてその笑顔は今まで見た中で一番綺麗だと思った。
その笑顔に影が差しているように見えるのは暗いからか、それとも実際に鬱屈とした気分を抱えているのかは知らないし、興味も無かった。
雨が降る。もうすっかり暗くて外の様子なんててんでわからないのに、雨音と風の音だけが強く鳴り響いていてた。
「苛め? 靴でも無いの?」
「気にしてるんだからさ、もうちょっと婉曲的にいってくれないかな」
「あのさ、君のせいで散々迷惑してるんだよね。今日だって君が奪った男のせいで呼び出されたし。しかもこれが始めてじゃないって前にも言ったよね。全部君が悪いんだし、それぐらい言っても許されるんじゃないかな?」
「ごめんね」
そう言うと彼女は顔を伏せて黙り込んだ。陰影が辛うじて見える靴箱のロッカーから革靴を取り出して履き替えた。
「待って」
床にソールをトントンと叩き付けて履き具合を確認して、時間を確認した。七時も半ばを少し過ぎたあたりで、バスの終電まではそれほど時間も無い。早足でいけば間に合わなくも無いという頃合であった。
「待って」
鞄から折り畳みの傘を取り出して広げ、校門に向かって歩き出した。真夏の生温い風と冷たくない雨粒は、これからの帰路に不快な気持ちを残しそうだと思った。携帯電話に表示される天気予報を見ると、この雨は明日には止むらしい。それ以降は雨の気配なんて無い天気がやってくるそうだ。
「待って!」
振り返ると彼女は泣いていた。両の膝を無機質な床に付け、泣き崩れるように嗚咽を繰り返していた。ただ僕に向ける眼差しは、世界の終わりのような顔をしていた。
「靴が無くて帰れないの。だからもう少し一緒にいて」
吐き出すような言葉は雨音に隠れて所々音にはなっていなかったけれど、本心だということはわかった。
合鍵を作っておいてよかった。と図書館のドアをスライドしながら思った。ここは校舎の奥まった所にあり、人が中々寄り付かないので、こういう人に見られたくない集まりをするのに適している。
細長い部屋の壁に這うように置かれた本棚が特徴的な図書館の、その一番奥の電気だけつけて、貸し出しカウンターの椅子の一つに腰掛けた。椅子はもう立て付けが悪いのか、背もたれに力を入れるとギシギシと軋むような音を出した。
遮光カーテンによって仕切られた窓からは時折風の音がするぐらいで、まるで舞台袖のようで、外からは隔離されているような気分になった。バス以外で僕と敷居が会話する場所がこの図書館だった。
「ありがとう。私こういう事あるとお母さんに電話してるんだけど、今日は繋がらなくて」
そう言いながらも彼女はそわそわしているみたいだった。夜の学校に二人っきり、そして好きであると認識している相手と一緒にいるというシチュエーションに痺れているみたいで微笑ましくなった。
でもその相手というのは偶々僕だったけれども、一ヶ月前には空君で、二ヶ月前には誰だったかも知らないし、別に知りたくも無い。
「桐谷。ねえなんで私を避けるの?」
「お前が嫌いだから」
嘘をついた。
「私は貴方の事が好きだし、ちゃんとしているじゃない。私は貴方といて貴方との経験を積み上げた。まるで祝福の中にいるかのような幾つもの体験を、劇的な出会いも、そして悲劇的な渦中にも二人だけで居続けた。なのにどうして振り向かないの?」
「そういう所が嫌いなんだよ」
嘘をついた。自分しか見てないところが好きだった。
「私達は昔出会ってる。そして約束をした事も覚えてないの? 私は貴方を見続けた。空だってただの気の迷い。あれだけ言い寄られて、間宮に迫られて困っているという事を口実にして私に擦り寄ってきたの。だけど私寂しかった! 貴方を見ていながらも断りきれずに付き合ってしまった事を怒ってるんだよね?ほら! これで誤解が解けた!」
「全部嘘だって事も、ちゃんと知ってる」
彼女の声が図書館に木霊した。目を赤く晴らし、制服を振り乱しながらも必死に僕に向かって叫び続けた。
「ふざけないで、私を何だと思ってるの! 何で私を信じないの? 蟠りと鬱蒼で胸がはちきれてしまいそう! ああ、わかった。貴方も裏切られたと感じたのね。私が空に下劣な行為を行われて、それでも信じようと思ったときの私の気持ちと一緒なのね!」
「違うよ」
「違わない。違わないよ。私桐谷の事誰よりも理解しているから。誰よりも私を愛しているという事を知っているから。何でそんな冷たくするの? 普通ここは抱きしめる所でしょ?」
「もういいよ」
そう言って立ち上がる僕の腕を震える手で掴んだ。潤んだ瞳で見上げる彼女を振り払い歩き出した。
「靴、無いんだけど」
「適当にそこら辺の奴の上靴を履いて帰れよ」
そう返事すると、彼女は浮かない顔をしながら僕の後ろをついて来た。遮光カーテンの脇から外を見たらいつの間にか雨は止んでいた。
帰り道はとりとめも無い話をした。
バスの道程を歩けば大体一時間ほどになるので、その間に悪態を付いて無言というのは流石に堪えたからだ。水溜りがまだらのように出来たアスファルトの上を軽快に跳ねながら、僕は彼女の方を窺っていた。
しきりに明るい話をしながらも表情には影が射し、西村という靴箱から勝手に持ってきた上靴はさっきから頻繁に水溜りに浸かっていた。
彼女はきっとここで全てを終わらせるのだろう。
この恋は実らなかった。彼女の考える全てのルートで、好感度を上げる為に講じた全ての手段も、イベントのたびに起こる感情の起伏も、そして二人が立ち向かう試練に起こる奇跡も、何もかもが僕と彼女の間に起こらなかった。聡い彼女はもうこの舞台を降りる事を選択したはずだ。
生温い風が頬を撫でる。雨音と交代にやって来た虫の鳴き声が二人の間に流れ、街頭によってオレンジに照らされた道路に所々反射して、僕と彼女の終わりつつある関係を考えたら幻想的に見えない事も無かった。
「前に僕に話してくれたよね? 物語の主役は純潔で、カッコよくて、それでいて心惹かれるって」
「うん」
「でもさ、どうしようもない物語だってあるよね。ただ泣き腫らして親を見送るだけの子供に、悲しみに暮れるだけの老婆。みんなちゃんとした物語の主人公さ。この世界には君が夢見ている物よりも沢山の物語がある」
勿論その結末が幸せな物に限らない話もね。と小さく付け加えた
「わかっているよ。でも、でも夢を見る事ぐらいは、適わなくなって、何時までだって見続けるよ」
「ふうん」
強い意志と感情に裏打ちされたその言葉に、僕はなんて言っていいのかわからなくなった。
夜道に足音が響く。ひとつは僕でひとつは彼女。やがてそれは僕一人の足音になった。
「ねえ桐谷」
足を止めて振り向くと、彼女は覚悟を決めたかのように腕と背筋を伸ばしていた。この物語はきっと些事なのだろう。恋の多い女のちょっとした間違い。
きっと僕は最低で、下種な人物としてまた語られるのだろう。可哀想な彼女の物語を引き立てる為だけの登場人物として彼女の口から引き合いに出されるんだろうと思うと、愉快でしょうがなかった。
「私は貴方が好きなの。だから付き合って欲しい。勝手な願いだって事はわかってる。だから返事は要らない」
「いいよ」
「え?」
そういって僕は振り向いて笑いかけた。愉快さで高揚した気分と、歪んだ唇の端。まるで自分を自分で無くしてしまうような感覚を覚えた。
そして彼女の端正な顔に翳る脅える様な瞳の色が、何よりも綺麗だと思った。
紫陽花に落ちた水滴が仄かに薫る、ある雨の止んだ日の幕引きだった。
一旦この話は終わりですが、後日談なんかを自由に書けるように長編に変えてみました。
さて、彼女はいったいどうして何者でもない彼を好きになったのでしょうか?少し考えてみると面白いかもしれません。