上:或る雨の降り始め
「ねえ、桐谷。横座っていい? 」
そういうと返事を待たずに彼女は横のシートに腰掛けた。雨の湿気に香るバスは不愉快な機械と皮の匂いで充満していた。このバスが石路から白田町まで運ぶその20分間、その間この席に座るのが、彼女と僕の毎朝の日課のようなものだった。
とりとめもない話は続く。僕は聞いているのか聞いていないのかわからないような返事を繰り返し、拒絶の意思を表すのも毎朝の日課のようなものであった。最近オープンしたファッションビルの話、誰と彼が好き合っているとか、その関係が終わっただとかそういう話、そして自分の家族の話。身振りを交えて面白おかしく話すその話術には感心させられるが、それ以上の何も無い。
博学な彼女はこの話題でも僕の興味を引き出せなかったのかとわざとらしく頭を抱えたり、薄い笑みを浮かべたりもする。こちらの様子を伺いながらしきりに反応を待つ姿が何故か飼い犬を思い起こさせ笑いそうになったが、僕からは何もしない。
結局彼女はまた僕からは何の気のある反応を引き出せないままこの時間が終わりになった。また会うのは昼食の時間か、運がよければ放課後か、運が悪ければ明日のまたこの時間に石路から白田町までの間の、右後ろの奥の皮のシートとなるのだろう。
彼女は気落ちしない。平然とした表情は整った顔立ちとも相まって、むしろ凛としたかのような印象を感じる。
敷居茜は評判が良くない。曰く、また違う男に手を出した。少し可愛いさを鼻にかけ、彼女持ちの男を寝取る。男に媚びる様な態度が気に入らない。という話を僕はまったく知らない女子から、彼女に対して直接的か間接的に被害にあったという話を手を引かれ聞かされた。その事に関してはまったくの事実であるという事も知ってるし、だからといって態度を変えるような事もしない。
僕に対してしきりにとる行為も、そして僕が彼女をあしらうそれも彼女を快く思ってない人間からは哂う話のネタになっているのを耳にしたことがある。
実の所僕は彼女の事を理解出来ているし、彼女に対しては共感、いや親愛以上の気持ちを抱いていると言っても過言では無いが、それをおくびにも出してはいけないという事も重々に承知している。そうやって今日も冷たくあしらい、そして明日も同じような態度をとり続けるだろう。
曇り空の下、ビニールの傘を開いて顔を上げた。目にかかるぐらい伸びた前髪が視界に入って、その後高校の正門まで伸びる一本の鉛色の坂道が見えた。この通路ではもう彼女とは繋がらない、そういう約束をしてある。
携帯を取り出してマナーモードにし、白いイヤホンをした。
最近流行っている男性ボーカルの歌声に混じった雨粒の跳ねる音を、静かに聞いていた。おはようの挨拶もない、平凡な朝の時間の終わりだった。
「はじめに一人が恋焦がれるの。それがもう一人なのか、それとも恋に恋するその感情なのかはわからないけれど、最後にはその感情は本物になる。きっかけなんてどうでもよくて、そしてそれが大切だと思う。二人の間には試練が起こるの。その試練は超えられないほどでも無い壁で、二人は力をあわせて乗り越える。もしくは二人には都合の良い奇跡が起こって乗り越える。そしてお互いの気持ちに素直になった時、祝福の中で二人は結ばれて物語が終わる。幸せの中ずっと暮らしました、なんて言葉と共に」
昼と夜の中間にある宙ぶらりんの時間、夕日に照らされた本棚と横たわる静謐さの中で丸机を囲むように二人は座っていた。片方は僕で、もう片方は茜。片方の僕は興味のないような顔をして横を見て、そんな僕の顔を作ったような笑みを浮かべながら彼女は眺めていた。
見た目に反して博学な彼女は色々な話題を振ってくる。物語の話、時間と共に朽ち果てた都市の名前、そして恋の話。生返事をし、時折聞き返すような態度を返し、そして彼女は満足しているようであった。窓枠から入ってくる夕日が学生服をオレンジに染めていた。
彼女はしきりに物語の終わりについて話した。二人が幸せになって終わる物語の結末について僕に話して聞かせた。
「誰もがみんな焦がれる物語。主役の一人に選ばれれば物語は必ず幸せな結末へと導かれて終わるの。でも私はそうはなれない、主役というのは純潔で、そして素直で、周りの人間をひきつけて止まない存在だから。私も、私を哂う人間も主役にはなれない」
だとしたら貴方?と彼女は尋ねてきて、僕は違うよ。と答えた。
「貴方だとして、いや貴方が主役じゃなくてよかった。私は貴方が好きだけど、みんな主役を好きになるの。高潔な態度やあるいは優しさ、強さ、偶然に支えられた何か。様々な要因でみんな主役を好きになって、でも主役の二人が結ばれる。そこに周囲の人間の介在は許されない。笑顔で祝福して、不可侵のハッピーエンドを冷ややかな視線と笑顔で拍手しなきゃならない。その気持ちが貴方にもわかる?」
「僕はそんなもの持っていないし、そもそも君以外の人間に興味を持たれた事は無いね」
「でもそんなのは関係ない。貴方がもしそういう存在なのだとしたら、そのページが捲られ始めたらもう手遅れになる。貴方は誰かといて、私は取り巻きの一人として、または数ページで見送るだけの存在になる。それが嫌なの」
「面白い話だけど、聊か荒唐無稽だ」
そう言うと彼女は黙った。普段の取り繕う態度すら忘れるその様子に、やはり彼女の本質はここにあるのだろうと思った。
恐らく彼女の部屋には沢山本があって、その全ての物語は途中で開かれたまま終わってしまっているのだろう。毒の林檎を食べ、硝子の棺に眠る美しい姫君には王子様は現れないし、灰被りの少女は一夜の思い出を胸に秘めたまま一生の宝物にするのだろう。
だけど奇跡は起こる。主役には全ての奇跡が起こり続けて、幸せな結末へと至る。だからこそ、その切望を僕は美しいと思った。結局の所彼女は脇役で、それ以外になりえない事をこれ以上ないってぐらいわかり切っているのだろう。
―――――倒錯したヒロイズム。
幸せになりたいという意識の変容したそれが、彼女を構成している全てだと、僕は知っていて胸焦がれた。
思えばこれが僕の初恋だった。
ビニール傘に纏わりつく水滴を飛ばした後に、数人の見知った顔に挨拶をしながら靴箱に手をやると、そこには手紙があった。21世紀にもなってこんな古風な事をするのはもはや悪戯ぐらいでしか見かけないなんて思いながら封を切ると、そこには女の子の書いたかのような少し丸くて丁寧な字で
『敷居茜について話があります。放課後に3-1まで着て下さい』
とあった。名前はどこにも書かれていなかったけれども、こういう事は頻繁にあるので慣れっこだったが、それにしてもよくやるなと感心した。彼女を嫌う女子は多いし、彼氏や憧れている人を寝取られたなんて話をもよく聞く。今回もまたその一人なのだろうと思った。
窓際の席からはよく外の風景が見える。硝子に当たって落ちていく雨粒と、濡れるだけで一変する外の景色は嫌いでは無かった。日が昇っているのに薄暗い教室の中授業を受けるのも億劫だったので、ひたすら外を見ながら考え事をしていた。
どうして敷居茜は幸せになりたいのか。
人は皆幸せになりたいと願う物だと聞いたことがある。人生の目標はその一点について成し遂げるべきだと主張する人間もいる。だが僕には幸せがどういうものだかわからなかった。楽しいことも、熱中出来ることもあるけれど、幸せが何なのかはまったくわからなかった。
彼女ももしかしたらそうなのかもしれない。幸せな人を、幸せになりたい人のありようを奪っても、彼女は幸せにはなれなかった。恐らく僕もまた彼女の中では通過点の一人に過ぎず、幸せにする事が出来ないと思う。だけどその終わりを引き伸ばすことは出来る。期待を積み上げ、彼女の持っていない物を持っている振りをして横を向く。それが僕に出来る精一杯の事だと考えた。
雨音が強くなり雷鳴が響いた。最初は眩い光を発して世界を白いペンキでぶちまけたかのように真っ白に染め、次に世界が震える音が響いた。一瞬の耳鳴りの後にザァっと更に強く雨が降り注いで、白色電球がピカピカと数度瞬いた。クラスが騒然とする中、窓の外を見て考え事を続けた。