第一章 始まりの運河?
明日が来る。
それがどれだけ素晴らしいことか解りますか?
※※※
少年が少女に出会ったのは、七年前の大掃除の日だった。
長身のすらりとした体躯に、腰まである黒髪。
作業衣がまったく似合わない、何処までも遠くを見据える瞳。
『恋』が落ちるものだと知った。
一瞬だった。
それまでの自分が死に絶え、また新しく生まれた。
彼女を好きな自分。
神様に感謝をした。
褒めてやりたいくらいだった。
彼女という人間を生み出してくれたことに。
そして自分という人間に出会わせてくれたことに。
「シルビア」
声をかける。
どうしたの、と振り返る少女。
とても好きだ。
「知ってるかい?街の図書館が新しくなったんだ。」
いいえ。
何時も少年を否定する、その薄い唇が好きだった。
「街の図書館には、もうずっと行っていないわ」
「じゃあ、今から僕といかないか?」
「珍しいのね、セイル。本は嫌いなんじゃなかったの?」
「でも図書館は好きさ。あれは静かでいいね・・・・」
話の最中に漏れる、彼女の控え目な笑い声。
俯くと、頬にさらさらと流れる髪。
「セイルは、図書館に何をしにいくの?」
「最近、寝不足で困ってるんだ・・・・・」
くすくすと、可笑しそうに目を閉じて笑う。
少女が笑ってくれるなら、少年はなんにでもなれる気がした。
「じゃあ、セイル。連れていって」
連れていきたい−−−。
誰の手も届かない場所へ。
誰にも邪魔されない、奪われない場所へ。
そんなものは何処にもないのに。
「連れていって」
「一緒にいこう」
「きっとよ」
「勿論」
「ありがとう」
『僕』には何もできないけど。
『君』は笑った。
※※※
医者には安静にしていろと言われていたが、シルビアはすこしはしゃいだ。
人込みを避けて水際を歩いて、久しぶりに魚や水花を眺めたりした。
街はやはりすこり変わっていた。
これからもっと変わって、知らない街になるのかと思うと、悲しかった。
セイルは、そんなシルビアを笑顔にするためなら何でもした。
祭の時にしか売られない氷菓子を、どこからか買ってきて彼女を喜ばせた。
買い物にも行った。
お互いにあまり得意ではなく、欲しいものもあまりなかったけど。
何故だかとても楽しかった。
図書館までにあるすべての店にいった。
着いたのは昼過ぎだった。
「本棚がいっぱい」
彼女はそう言って、入口に一番近い本棚に駆け寄った。
古い背表紙に指をかけ、半分ほど抜いて微笑む。
セイルはさして興味もなかったが、シルビアが嬉しそうなのでつられて笑った。
三階まである城みたいな建物の中に、一生を費やしても読破できないほどの本が詰まっている。
「何から読めばいいかしら?」
「好きなのを読めばいいさ」
「どうしようセイル。決められない」
そう言って、シルビアは一日中広い図書館を歩き回った。
読みたい本ばかりで決められないと、古い絵本を抱きしめながら言った。
「本は逃げないよ。好きなのから順番にどうぞ」
「でも、これを読んでいるあいだに、誰かに借りられてしまうかも」
本は何時までも決まらなかった。
閉館になっても、シルビアは嬉しそうに悩んでいた。
図書館を出ると、既に辺りは薄暗かった。
冷たい風がほてった頬を撫でつけ、何処かへと吹いた。
黄昏れの空を雲が流れ、うっすらと星も見えた。
「楽しかった」
シルビアが言う。
「一冊も読んでないじゃないか?」
「でも、楽しかったわ。すごく・・・・・」
何も借りれなかったが、シルビアは満足したようだった。
「それは良かった」
セイルが肩をすくめる。
シルビアが笑った。
「ありがとう」
強い風が、彼女の長い髪を舞い上がらせた。
「今まで、ありがとう」
「シルビア?」
セイルが眉をひそめた。
複雑な感情で見開かれる瞳に、大きく彼女が映っていた。
「最後に、これだけは自分で言いたかった」
彼女は笑っていた。
今日は笑ってばかりだった。
何時も無駄に無表情なのに、今日だけはずっと笑顔だった。
ああ、そうか、と彼は気付く。
僕が、そう望んだから。
自分が笑顔でいてほしいと願ったから、彼女は笑っていたのだ。
「好きだ」
引き攣った声が出た。
自分らしくない。
余裕のない声だった。
「君が好きだ」
もっと気のきいた台詞を考えていたのに、それ以外の言葉は出てこなかった。
ありがとう。
今日何時目かの言葉を、彼女の唇が紡いだ。
※※※
思い出を作りたかった?
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