第一章 始まりの運河?
汚いものが全部悪いなんて、きっとただのエゴだ。
※※※
「ジル」
ノアが呼ぶと、彼の守護者は風の狭間から姿を現した。
「なんだ?」
腕を組み、古風な神依の帯にふれながら、ジルトラーゼは嘆息する。
それを無感動に見つめていたノアは、小さく呟いた。
「彼女を、助けたい」
すると、ジルは虚を突かれたような表情をして、まじまじと彼を見つめた。
「何故?」
呟きには、すこしの期待のようなものが混ざっている。
「彼女を助けたいんだ」
「だから、何故だ?」
穏やかな表情のまま、ノアは無言で首を振った。
「解らない。自分でも解らないけど、彼女を助けたいんだ」
「・・・・・・・・?」
「彼女は、このまま死んでいい人間なんかじゃない・・・・・・」
思いのほか強い口調で、ノアは言う。
その意味の解らないジルは、表情のないノアと辺りの風景を見比べ、また嘆息した。
二人の間に影を作る大きな木の葉が、風に揺れて音をたてる。
自分の主より、その木の方がよほど解りやすいと彼女は思った。
「あの日、私も同じことを思った・・・・・」
懐かしむような口調で、ジルは呟いた。
「私も、君に生きてほしいと」
言って、彼を一瞥する。
ノアは目を閉じていた。
夕日が眩しかったせいかもしれない。
「うん。でも、たぶんちょっと違うよ」
「?」
「僕は囚人だからね。基本的に悪者なんだ・・・・・」
唇の端をゆがめて、ノアは大袈裟に肩をすくませた。
笑ったようには見えなかったが、笑おうとしたのだろうと彼女は思った。
「僕は、汚い人間だからね」
彼の言葉に、ジルは意外そうに首を傾げた。
「・・・・・・汚いのは、悪いのか?」
「え?」
「どんな理由であっても、君はあの娘を助けたいと思うんだろ?」
「・・・・・・・」
「理由なんて、別に良いじゃないか。・・・・助けたいんだろ?」
ノアは珍しく驚いた顔でジルを見つめ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「うん」
「なら、理由も打算も後でいい」
ジルは不敵に笑ってみせた。
ノアとは対象的に澄んだ色の瞳が、悪戯でも思い付いたように光っていた。
「あの娘を助けたいなら、助けよう」
事もなげに彼女は言う。
その顔をノアは見つめた。
「たとええ気まぐれでも、命を救うなんて、それだけで十分素晴らしいことさ」
長い間、心を陰らせていた何かが、ゆっくりと熔けだすみたいだった。
ジルの声には、優しさも特別な感情もない。
そのことが救いだった。
「ありがとう」
※※※
ジルトラーゼの能力は、他からの対象への干渉を防ぐことだ。
守護者として最も大切なのはそこであり、それの他に秀でた能力はない。
「私にできることは、シルビアを病の干渉から遠ざけることだけだ」
紅茶のカップを持ち、脚を組みながら、妙に優雅な体制で彼女が言う。
「私の力で治癒させることはできない・・・残念ながらね」
「じゃあ、どうすれば・・・・・」
悲嘆するノアに向けて、ジルは淡々と言ってのけた。
「イカサマしよう」
「はぁ?」
「ルールなんて、今更守る必要はないさ。君のように、彼女にも守護を与えればいい・・・・・」
言うと同時、カップの中身を喉に流し込む。
白い喉が上下した。
「守護?」
「そう。私の力で、シルビアを一生病の干渉から守るのは難しい」
「ああ。まず無理だね」
同意を求められたようだったので、ノアは軽く肩をすくめた。
「なら、一生彼女だけを守れる者がいれば問題はない」
中身の少なくなったカップを目の前に掲げながら、ジルが言う。
「それには必要だろ?」
「シルビアだけの、守護者?」
「そう・・・」
ジルが頷く。
「でも、それは・・・・・」
「君が決めるといい」
やはり淡々と、彼女は言った。
「私には、命より尊いモノも比べられるモノもあるとは思えないが・・・・」
「・・・・・・・」
「君たちにはあるんだろう?」
「・・・・・僕には解らない」
守護を与えると言うこと。
平等なる神を裏切り、守護を受けると言うこと。
「彼女も、罪人に落とされるのかな?」
自分のように・・・・・・。
「その可能性は高い」
「それでも、彼女は生きたいと願うんだろうね・・・・・」
部屋に窓はないが、密談するには都合がいい。
どんな冒涜の声も、空には届かない。
「君が決めることだ」
ジルは繰り返す。
「君にしかできないことだからだ。今は彼女にも、選ぶ権利なんてない・・・・」
囁くように、彼女は続ける。
「シルビアは、僕を恨むだろうか」
その声が、まるで神に救いを求める子供のようで。
無性に笑えた。
「恨まれても、仕方ないだろ?」
呆れたようなジルの言葉に、ノアはまた肩をすくめる。
「僕は恨まれてばかりだな」
※※※
生まれてきたのを後悔する鳥などいない。