第一章 始まりの運河?
楽園には何があるの?
※※※
何もない部屋だった。
部屋の中央に簡易寝台が置かれていたが、シーツも何もなく下の木材が見えていた。
壁はぐるりと本棚に覆われ、どれも寝台から手を伸ばせば届く位置にある。
硬い感触を背中に感じながら、シルビアは膝を抱いて身体を丸めた。
安い金属製の背もたれは氷のように冷たかった。
爪が食い込んで痛いほど、シルビアは自身の肩を抱いた。
ひとりになると襲ってくる恐怖や、悪趣味な夢と絶望。
そのせいで鼓動は高鳴り、嫌な咳をした。
発作だった。
そんな日は、寝台の上で読書をした。
眠れるまで本を読んだ。
けれど、何度見ても本棚は空っぽだった。
まだ読んでいない本も、読み掛けの本も、すべて近くの学校に寄付されてしまった。
最後までエリックは頼んでくれた。
セイルは本をとりにきた業者の背中を蹴ってくれた。
それでも、彼女が一生を賭けて築き上げた本棚は奪われた。
そのまま心まで無くなるのかと思った。
感じたのは絶望ではなく、悲しい落胆だった。
膝に顔を埋めると、涙がゆっくりと頬を伝う。
鍵の壊れた窓から月が見えた。
いびつな満月だった。
月光か彼女を照らして、部屋に長い影を作る。
凍えるほどに孤独だった。
彼女はひとりだった。
他人はシルビアを罵る言葉と、頬を打つ大きな掌しか持たない。
そう思っていた。
彼女の母もそのひとりだった。
始まりの運河。
口の中だけで繰り返すと、曖昧な味が舌をなでた。
何処までも優しく、暖かい不思議な言葉だった。
祖母はこの街を誇りにしていた。
最初は、その優しさに戸惑うばかりだった。
今でも、朝の挨拶すら普通に出来ないけど。
街の人は、そんなシルビアにも優しかった−−−だから、どう接すればいいか解らなかった。
それでも、彼女もすこしずつこの街を受け入れていった。
笑いかたを思い出した。
「死にたくない」
いつの間にか口癖になったその言葉を、シルビアは呟いた。
※※※
雨は好きだった。
まるで涙するように静かに、頭上に響く雨の音。
あの真っ白なだけの部屋で、聞こえたのはそれだけ。
気が狂いそうなくらい真っ白なあの場所で、ひとり。
雨音だけが聞こえる。
あの時は、こうして外の世界で生きていけるなんて思ってもいなかった。
時間と完全に切り離された場所で、カーテンと壁の向こうを夢見ていた。
それが彼にとっての世界であり、現実だった。
「ノア様」
控えめな声に振り向くと、部屋の入口にエリックが立っていた。
「今、お医者様がお帰りになりました・・・・・・」
「そうですか」
「薬も、もう殆ど効いていません。昨日から咳がとまらないんです」
「・・・・・・シルビアは、なんと言っているんです?」
ノアが言うと、エリックは何かを堪えるように奥歯を噛み、今にも泣きだしそうに顔を歪めた。
唇が震えている。
「し、・・・・・シルビアは、私には何も話してくれません」
言葉の途中で、喉の奥が鳴った。
渇いた器官を出入りする風が、ひゅうひゅうと。
「何も・・・ですか?」
無神経だと思いつつ、ノアは聞いた。
彼女は頷き、それっきり顔を上げなかった。
前髪に隠れた瞳から、きらきらと雫が落とされる。
それが涙だと気付くまで、とても長い時間がかかった。
「ノア様・・・・・」
いつの間にか握りしめていた拳が、震えていた。
それでも彼女の声は澄んでいた。
「・・・・・はい」
「神様は、本当にいますか?」
ノアは答えなかった。
代わりに、何時も小脇に抱えている聖典を壁に向かって投げ付ける。
大きな音がした。
表紙の装飾が弾けとんで、頁がばらばらになった。
天井まで舞い上がった紙が、床に落ちる。
それと同時に、彼は呟いた。
「いませんよ」
※※※
「神様?」
シルビアが呼ぶ。
答えはなかった。