第一章 始まりの運河?
言葉は、伝える為にあるはずなのに・・・・・。
※※※
その日の朝食は林檎だった。
皮も剥かれていない真っ赤な林檎が三つ、皿の上ににのせられている。
他の三人の前にも同じように林檎の皿があった。
シルビアの林檎は、スープとも言えるくらいにすられて液状になっていたが、量的には同じだった。
無言でスプーンを口に運びながら、シルビアは食堂の大きな時計を見つめている。
エリックは複雑な表情で、シルビアとノアを見比べ、何時もと変わらない様子で食事する二人に溜息をついて林檎をたべはじめた。
その日の食事当番だったセイルだけが、楽しそうに林檎を頬張っている。
「セイル・・・・・」
シルビアが呟き、斜めに座っていたセイルが振り向く。
「皮まですらないで」
薄い皿の上で、赤い部分を分けて寄せながらシルビア。
「皮にも栄養はたくさんあるんだよ?」
「嘘でしょ?」
「・・・・・うん。でも、適当に言ってるだけだから本当かもしれないよ」
真面目な顔でセイルが言うが、シルビアは無視した。
空の皿を彼の前に押して、無表情に見つめる。
「もう要らない」
そう呟き、シルビアは自室へと戻っていった。
セイルだけは楽しそうに、エリックは苦々しい思いで残りの林檎を口の中へほうり込んだ。
その様子を気にも留めていないノアは、無言でみずみずしい果肉を咀嚼していた。
味はほとんどしなかったが、とびきり美味くもまずくもなかった。
※※※
シルビアの身体は、目に見えて病んでいった。
弱音を吐くこともせずに、彼女は強く病と戦っていた。
彼女は強かった。
それでも、視力が衰えだしたのと同時に、彼女は心を病んでいった。
「私・・・・の、目」
彼女が泣いたのは、後にも先にもそのときだけだった。
あの無表情なシルビアが、鳴咽も堪えずに何時までも泣いた。
「見えない・・・・・・見えない!」
悲しくて泣いたのではない。
苦しくて泣いたのでもない。
ただ、今は泣くこと以外何もできそうにないから。
きっと一生分の涙だった。
彼女の持っているなかでもっとも古い本。
タイトルがわからないほど傷んで色褪せた本。
「大丈夫!」
狂ったように笑いながら、それでも泣いて。
読めないはずの文字を必死で思い出して。
「読めるわ。私はまだ読める!」
身体に障るからとエリックが止めても、起き上がって、何時もの木の下で。
何時もの無表情で。
真っ白なドレスが血に染まっても、彼女は。
「私は、本を読める」
そう言ってきかなかった。
※※※
視界が完全に閉ざされると、シルビアは、また冷静さとすこしの笑顔を取り戻した。
前よりもさらにほっそりとして、骨と皮膚だけになった手足が痛々しく。
感情のない厭味や皮肉が、何処までも遠くて。
エリックは笑わなくなった。
セイルは、サボらずに料理を作るようになった。
彼女を取り巻く人々も、すこしずつ変わっていった。
その中でノアだけが、マイペースに淡々と自分の仕事だけをこなしていた。
彼女は、それに救われていたのかもしれない。
自分の同類が不変でいる限り、自分も変わらずにいられると。
「神官様−−−」
「神官代理です」
うんざりしながら、ノアが訂正する。
「私が死んだら」
シルビアは、相変わらずノアの話をきかなかった。
そんなことを言えるほど一緒だった訳ではないけど。
相変わらずだな、とノアは思った。
「死んだら、骨を」
「骨?」
繰り返すと、彼女は弱く微笑んだ。
「・・・・・・やっぱりいいわ。今更、どうしようもないもの」
何もかも、無くなってしまえばいいのに。
骨すらも。
シルビアは、そんなことを考えていた。
「だって、私には・・・・もう見えないもの」
声は小さくなって、やがて途切れた。
ノアは最後まで聞き取ることが出来なかった。
「シルビア・・・・・」
意味もなく、名を呼んでいた。
「死ぬのは、嫌よ」
こちらを見もせずに、彼女は言う。
「死にたくない。・・・・・大切なモノは、本だけじゃなかった」
長い髪を風が揺らした。
丘の上からは、街の様子がよく見えた。
美しい運河。
古風な、小さな橋。
坂の下で遊ぶ子供や、その様子を見守る母の姿。
そんなものを眺めて、シルビアは大きく息を吸い込んだ。
溜め息にならないよう、注意して吐き出しながら。
太陽の光りに、輝いた水面に視線を映す。
「丘の下には、小さなパン屋さんがあるの」
そう言って、指先で示しながら。
「その前の道路を進むと、十字路があって。ずっと進んでいくと、大通りに出るの」
彼女の示す場所は、話とすこしだけずれている。
彼女の指のすこし斜め上。
それが本当の街の様子。
薄っぺらい真実のセカイ。
「この街の人は私に優しかった。馬鹿みたいに優しかった」
伸ばしていた指先を戻す。
力の抜けた腕が、だらんと脇に垂れ下がる。
「その理由がわからなかった。エリックは、それが当たり前だって答えた」
街の喧騒が、一瞬だけ聞こえた−−−。
耳障りと言うには、あまりに優しい雑音。
目を閉じて、二人はそれを感じた。
シルビアは、目を閉じる必要もなかったけれど。
もう、二度と見えないモノなのだろうけど。
「貴方より、私はこの街に詳しいんでしょうね。こんなでも、ずいぶん長く住んでいるから・・・・」
「当たり前じゃないですか・・・・・・貴女の街なんだから」
「・・・・・そうかしら?」
「そうですよ」
慰めるように呟きながらも、ノアの声に抑揚はなかった。
(自分の感情が動かない)
まるで、壊れた時計みたいに。
何も思えない。
「・・・・・神官様の心がそんななのは、きっと生きている証なんでしょうね」
そんなノアを見つめ、彼女は伏せていた目を開いた。
重い瞼を押し上げてみても、映るものは何もなかった。
「心残りが、またひとつ増えた」
シルビアは瞬いて、空を見上げた。
微かな光りなら、まだ感じることができる。
「貴方は何を思い、何に殺されるのかしら?」
光りは痛いほど強く、シルビアは目を細めた。
翳した掌で和らげても、圧倒的な光りが指の隙間から射した。
「生きていたら、見られたかもしれないのに。すごく残念・・・・・」
そこまで言って、堪えきれずに彼女は笑い出した。
「貴方や、エリックとセイル。みんなが私のもとへ来る頃には−−−」
「・・・・・・・」
「この街も、私の街じゃなくなっていて」
そこまで言って、彼女は唐突に、大きく目を見開いた。
「−−−私が死んだら、みんなにありがとうって言っておいて。ね?」
瞳に、暗い影を落とす。
「冗談よ。こんな風なのは、きっと私らしくない・・・おかしい」
「・・・・でしょうね」
同意するノアに、彼女は憧憬にも似た眼差しを向けた。
彼女が微笑むことはもうなかった。
「本を読みたい」
「まだ足りませんか?」
「全然足りない。もっと読んでおけば良かったって思う・・・・・」
そう言って立ち去ろうとする彼女よりはやく、ノアは教会へと踵を返した。
シルビアは微笑もうとしたが、ノアが振り返ったのでやめた。
何か言いかけた唇が、途方に暮れたように閉じられるのを見て。
何故か、とても穏やかな気持ちになった。
※※※
永遠の在りかをしってる。
もうずいぶん、遠くに来てしまったけど・・・・・