第一章 始まりの運河?
自由に羽ばたいて、何処へ行きたかったのだろう?
※※※
彼女がその教会に来たのは、七年前の寒い雪の日だった。
シルビアが七歳のとき、それまで育ててくれた祖母が死んだ。
祖母知り合いだったその頃の神官が、身寄りのない彼女を引き取った。
それから、また七年。
この教会から出ることもなく、彼女は淡々と生きてきた。
言葉にすればその程度でしかない。
うすっぺらな人生、と彼女は笑った。
祖母は優しい人だった。
最後まで、彼女の命が長くないことを隠し通した。
そのことに、今はすこしだけ感謝している。
死ぬのは怖い。
大好きな本が読めなくなる。
まだまだ読みたい本がたくさんある。
自分がもうすぐ死んでしまうのだと知ったとき、シルビアは思っていた以上に絶望した。
死ぬと言うことの意味を考えるようになって、彼女はこれまでより更にたくさんの本を読むようになった。
何の為に、自分は生まれてきたのだろう。
何をするために生まれ、死んで逝くのだろう。
答えは出なかった。
だから本を読んだ。
こんなにも小さな自分に、出来ることを知りたかった。
問いの答えだけを捜し続けて、本を読み続けた。
−−−何の為に?
※※※
ノアが顔を洗いにいくと、洗面所にはエリックとシルビアがいた。
無言で歯を磨くエリックと、ただ鏡の向こうを見つめているシルビア。
「シルビア」
呟いたのはエリックだった。
「何?」
振り向いたシルビアに弱く微笑みかけて、エリックは続けた。
「身体、大丈夫?」
「・・・・・・」
「無理は、しないでね」
それだけ言って、エリックは何処かへ行ってしまった。
ノアの姿には気付いたようだったが、何も言わなかった。
閉め忘れた蛇口から、冷たい水が勢いよく流れる。
それを止めながら、シルビアはゆっくりと振り向いた。
「私、もうすぐ死ぬの」
「・・・・・・・・はい」
「死にたく、ない・・・・・」
泣くこともせずに、彼女は淡々と言った。
感情のない無機質な瞳が、ノアの暗い瞳と重なる。
「でも、死んでしまうわ」
交差する瞳の色は、ふたりともよく似ていた。
何か言おうとノアが口を開いたとき、彼女は俯いていた。
長い前髪の奥の瞳が、穏やかに細められる。
「私が消えてしまうのが怖い。死ぬのより、ずっと」
「・・・・・・・?」
「私はどうしたら・・・・・・・」
声には、やはり感情はなかった。
どこまでも穏やかな、抑揚のない声。
それが告げる。
「どうすれば、消えないでいられるかしら?」
歌を歌うのが好き−−−。
踊るのも、走るのも。
鳥も蝶も花も。
空も。
海も。
太陽と月と星。
空に輝くすべてが好き。
その何よりも本が好き。
貴方が愛しい。
「消えるまえに、貴方と会えて良かった・・・・・・」
少女は唐突に言った。
「貴方は、私と同じ存在」
貴方を好きなのに、憎らしくてたまらない。
その存在が許せない。
「私たちは、同族なのね」
少女の細い指が、ノアの頬に触れた。
「僕に触るな」
ノアの声を無視して、指は顎を撫ぜ首すじに絡む。
「僕は死にませんよ。きっと、貴方は死ぬけど・・・・・・」
彼の言葉に、シルビアは溜め息を漏らした。
「貴方、意外に冷たいわ。だからとてもつまらない」
少女は、驚いたように目を見開いた。
笑ってしまうほどわざとらしい仕草で。
「私も、まだ死なない」
「・・・・・・・」
「本は好きよ、ね?」
ノアは答えなかった。
答える必要もなかった。
同族だから。
同じ存在だから。
「貴方のこと、好きよ」
最後にそれだけ言って、シルビアは静かに去っていった。
足音もないのに、長いスカートが床にすれる音だけは聞こえた。
嘆息して、ノアは顔を洗う為に水を出した。
窓から見える太陽は、いつの間にか高い位置で彼を見下げていた。