第一章 始まりの運河?
きっと、手を伸ばせば届いた。
※※※
空は蒼かったが、果てしないようには思えなかった。
人に寿命があり、世界が移ろうように、空にもまた終わりがあるのだろう。
そんな事を思いながら、ノアは見上げていた視線を読み掛けだった本に戻した。
木造の列車は、意外なほどしっかりとした造りで、最初に彼が抱いた不安をすぐに解消してくれた。
車体の揺れも少なく、読書の妨げになるほどのものではない。
終盤に差し掛かった物語りと同様に、そこそこ長かった列車の旅も終わりに近付いている。
座り慣れた椅子の上にある荷物を片手でまとめながら、ノアは上着のポケットにある切符を取り出した。
速度をゆっくりと緩める列車は、小刻みに揺れながら汽笛を鳴らす。
それに驚いて、屋根にとまっていた数羽の鳥が羽ばたいた。
窓から見える景色は穏やかに通り過ぎ、うっすらと夕暮れに染まっている。
彼が目指しているのは、ウェルモーリス。
それは始まりの運河。
「切符を見せてもらえすか?」
そう言って顔を覗きこんできた車掌に切符を手渡し、ノアは少ない荷物を鞄に詰めて立ち上がった。
※※※
列車を下りると、
先程まで晴れ渡っていた空は暗い雲に覆われていた。
通り過ぎた長い車体と、遠ざかっていく汽笛を見送って、鞄を肩にかけ直す。
細い通路を出ると、違うホームから歩いてきた数人の乗客が、改札口に列んで駅員に切符を渡していた。
料金の高さに文句を言う年配の女を、夫らしい男が諌めている。
足元の猫が困ったように彼らを見上げていた。
ノアはそこを足早に横切ると、暇そうにしていた若い駅員に切符を手渡した。
古びた割には客の多い売店で飲み物を買い、駅の外にでると、空は今にも泣きだしそうなほど雲っていた。
傘を買うべきかと迷っていると、小さな古いタイプのバスがやってきた。
後ろに列んでいた婦人が急かすので乗ると、それは先程の文句を言っていた女だった。
「汽車も高いけど、バスはそれより高いわ・・・・・」
話し掛けられたのかとも思ったが、単なる一人言らしい。
硝子も何もない窓から顔をだして、雨雲を睨めつけながらぶつぶつと何か言っていた。
後から乗りこんできた、やはり夫らしい男は、こちらに気付くと苦笑して、また妻を諌めた。
何か言おうかとも思ったが、何を言えばいいか解らずにノアは黙ってしまった。
男は相変わらず笑いながら、妻の文句が自分へのものに変わったのに気付くと、それを曖昧なものに変えた。
二つ先のバス停で彼らは下りた。
男の方はノアか、あるいは他の乗客に会釈していた。
※※※
目的地は教会だった。
丘の下にあるバス停は終点よりふたつ前だったが、彼以外に客の姿はなかった。
運転手はノアの顔を見ようともしなかった。
駅からの料金を尋ねると、事務的な声で通常より高い金額を告げてきた。
言われた額の硬貨を料金箱に投げ入る。
階段を飛び越えて下りると、水溜まりの水がはねて薄いコートに染みができた。
雨はいつの間にか降り出し、そしていつの間にか止んでいた。
隙間から覗く太陽が、暗い雲をきらきらと輝かせている。
それは虹が空に染み込んだようにも見えた。
「貴方が、新しい神官様ぁ?」
声に振り向くと、すこし離れた場所にひとりの少女がいた。
丘の上につづく坂の途中で、少女はノアに呼び掛けながら手を振る。
「はじめまして」
言いながら坂を駆け降りてきて、剥き出しになった大きな石に躓いた。
そのまま崩れかかる、少女の華奢な肩を受け止めてやりながら、ノアは嘆息した。
「はじめまして、シスター・・・・・?」
「エリック・・・・・。エリック・アストラ」
少女−−−エリックは、すこしだけ恥ずかしそうに笑った。
「エリック?」
怪訝に思い聞き返すと、エリックは言い慣れたような様子でつづけた。
そして頷く。
「はい!・・・・・・でも、シスターエリックはやめてね」
近付き過ぎた互いの身体に気付くと、エリックは慌てて自身を引き離した。
「ありがとう、神官様」
頬を染めながら俯く姿には、少女らしい愛らしさに満ちていた。
「いいえ・・・・」
その少女を見つめながら、ノアも弱く微笑んだ。
蝋人形のような白い肌を、温い風が凪いでいく。
頬に散らばる真っ直ぐな黒髪が、淡く、陽に透けて光っていた。
「僕は、神官じゃありません」
そして思い出したように上着から眼鏡を取り出し、鞄からはみ出している紙切れを覗き込んだ。
「大教会から来ました。神官代理、ノア・ウルイ・アルフォードです」
書面を目で追いながら言うノアを、エリックは不思議そうに見つめ、首を傾げた。
(自分の名前なのに、覚えてないのかな・・・・・・・?)
その視線に気付かずに、ノアは顔を上げて歩きだした。
大切にしているそぶりはないが、恐らくは重要と思われる書類。
それに重ねた地図を片手に、ひとりで先へ行ってしまうノアを追い掛けて、彼女は急な坂を駆け上がった。
マイペースな神官代理は、他人に合わせるということを知らないらしい。
歩調を緩めることはせずに、ノアはすたすたと半分ほど坂を登ってしまっていた。
「神官様−−−」
慌ただしく走り、追い付いて隣を歩くエリックを一瞥して、ノアは意味もなく嘆息した。「神官、代理です・・・・・」
訂正しながらも、この少女には無意味なのだろうなとノアは思った。
根拠はないが、何となくそんな気がした。