序章 箱庭の罪人
冷たい、綺麗に磨かれただけの床。
繋ぎ目の見当たらない、息苦しさを加速させる無機質な壁。
暗い色の湿ったカーテン。
それに手を伸ばしたとき、ノアはその向こうに窓がないことに気付いた。
あると思っていた窓。
それは彼の中にだけ存在した、虚ろな鏡像−−−この牢獄からの出口。
それは永遠に失われた。
「・・・・・・・」
ノアは沈黙した。
喉の奥が痛いほど渇いて、叫ぶこともできない。
軽い痛みは、ノアが苦しむのを面白かるように強さを増した。
限界に近付いた器官が、かすれた音を漏らす。
それは死にかけた小鳥の囀りにも似た、耳を塞ぎたくなる雑音。
喉だけではない。
ここ数日、ノアの身体は致命的な不調を訴えていた。
ときおり発作のように襲う苦痛を、彼は何もできずただ耐えた。
「ぁあ、ああぁぁあああっ!」
致命的な痛み。
五感を奪うほどの恐怖。
壁に預けていた身体が滑り落ち、真冬のように冷たい床石が頬を打った。
その衝撃に幼い身体は跳ね、もう一度打ち付けて次は頭部を痛めた。
髪の間から額に赤い筋が伝い、それは幾つもに広がって床に跡をつくった。
横に倒れて息苦しいのに、立ち上がる力も彼には残っていなかった。
窓の外に広がっている世界。
ノアはそれを思った。
混濁した意識の深淵に、僅かに残された記憶を。
今彼がいるのは、大陸の辺境に位置する小さな農村だった。
珍しい泉があり、その周りの森にはたくさんの獣がいた。
毛皮に適した野兎や、流行りの装飾に使われる羽の鳥も泉の周辺に巣をつくった。
寂れた通りも、それを目当てにやって来た旅人で賑わった時期があったらしい。
しかし、それはノアが生まれるずいぶんと前の話だった。
そんな記憶を、彼は持っていなかった。
彼にとってこの街は、永遠に春の来ない牢獄のようなものだった。
窓のない悪趣味な部屋は、何処までも冷たく真っ白で、そして悲しいくらいに冷たかった。
それはきっと、まだ見たことのない『雪』というものに似ているのだろう。
そんな事をノアは思った。
幼い頃に読んだ本には、それは冷たく、花びらのように白く美しいとあった。
触れてしまえば熔ける。
消えてなくなる、儚い花。
まるで、自分の命のようだ。
それは春を待たずに逝ってしまう・・・・・・。
そんな事を思いながら、彼は静かに目を閉じた。
このまま『雪』のように消えてしまうのか、それとも春までこの命を繋げておくことができるのか。
ノアには解らなかったが、そのどちらでもいいと思った。
こんなに苦しい思いをするくらいなら、と彼は何回目かの咳と一緒に血を吐いた。
閉じた瞳から流れる雫と混じって、それは怠惰に床へ零れる。
『消えてしまう。』
不意に、声が聞こえた。
幻聴だと思った。
それがあまりに優しかったから。
『何が?』
問うと、声は穏やかに答えた。
『君が・・・・・・・』
会話できるなんて、便利な幻聴だと、彼は思った。
同時に、先程の疑問の答えを知った。
とても、とても静かに。それは夜の海のように、優しく彼に語りかけた。
そう−−−こんな場所で、自分は果てるのだ。
たったひとりで。
ここで・・・・・・。
『君は死ぬべきではない』
『君の・・・・心は、死んではいけない』
何故かは解らないが、声は必死にそれだけを繰り返した。
死ぬな、と。
何度も繰り返しノアに語り、それ以外は何も言わない。
壊れた器械人形のように、馬鹿々々しいほどそれだけを訴える。
それがあまりに滑稽で、ノアは笑った。
頬を僅かに動かす程度の笑みだったが、彼は苦し紛れに微笑んだ。
『君は、誰・・・・・・?』
声は驚いたように息をのみ、戸惑うようにして途切れた。
もう一度繰り返したとき、声はゆっくりと囁いた。
『私は、ジルトラーゼ』
よく解らないが、彼はそのとき幸せだった。
何故だか解らないが、彼は生きたいと願った。
『君の、守護者・・・・・』
続いた言葉に、ノアは頷いた。
喉はまだ痛んだが、もう気にならなかった。
淡々と告げられた言葉は、どこか懐かしさに似たものを感じさせた。
『ジル・・・・。僕は、ノア』
呟き、 横たえた身体を起こして、壁に支えられて座る。
そして彼は、虚空へと手をのばした。
『・・・・・・ノ、ア?』
そこに現れた守護者は泣いていた。
表情もなく、ただ涙を流していた。
それはジルトラーゼにとって、二度目の邂逅となった。