表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノア  作者: 吟瀬夏樹
1/9

序章 箱庭の罪人




冷たい、綺麗に磨かれただけの床。


繋ぎ目の見当たらない、息苦しさを加速させる無機質な壁。


暗い色の湿ったカーテン。



それに手を伸ばしたとき、ノアはその向こうに窓がないことに気付いた。



あると思っていた窓。



それは彼の中にだけ存在した、虚ろな鏡像−−−この牢獄からの出口。



それは永遠に失われた。


「・・・・・・・」



ノアは沈黙した。


喉の奥が痛いほど渇いて、叫ぶこともできない。



軽い痛みは、ノアが苦しむのを面白かるように強さを増した。


限界に近付いた器官が、かすれた音を漏らす。



それは死にかけた小鳥の囀りにも似た、耳を塞ぎたくなる雑音。



喉だけではない。


ここ数日、ノアの身体は致命的な不調を訴えていた。


ときおり発作のように襲う苦痛を、彼は何もできずただ耐えた。



「ぁあ、ああぁぁあああっ!」


致命的な痛み。

五感を奪うほどの恐怖。


壁に預けていた身体が滑り落ち、真冬のように冷たい床石が頬を打った。


その衝撃に幼い身体は跳ね、もう一度打ち付けて次は頭部を痛めた。


髪の間から額に赤い筋が伝い、それは幾つもに広がって床に跡をつくった。



横に倒れて息苦しいのに、立ち上がる力も彼には残っていなかった。



窓の外に広がっている世界。

ノアはそれを思った。


混濁した意識の深淵に、僅かに残された記憶を。





今彼がいるのは、大陸の辺境に位置する小さな農村だった。


珍しい泉があり、その周りの森にはたくさんの獣がいた。


毛皮に適した野兎や、流行りの装飾に使われる羽の鳥も泉の周辺に巣をつくった。


寂れた通りも、それを目当てにやって来た旅人で賑わった時期があったらしい。



しかし、それはノアが生まれるずいぶんと前の話だった。

そんな記憶を、彼は持っていなかった。




彼にとってこの街は、永遠に春の来ない牢獄のようなものだった。



窓のない悪趣味な部屋は、何処までも冷たく真っ白で、そして悲しいくらいに冷たかった。



それはきっと、まだ見たことのない『雪』というものに似ているのだろう。



そんな事をノアは思った。


幼い頃に読んだ本には、それは冷たく、花びらのように白く美しいとあった。


触れてしまえば熔ける。

消えてなくなる、儚い花。



まるで、自分の命のようだ。

それは春を待たずに逝ってしまう・・・・・・。



そんな事を思いながら、彼は静かに目を閉じた。


このまま『雪』のように消えてしまうのか、それとも春までこの命を繋げておくことができるのか。


ノアには解らなかったが、そのどちらでもいいと思った。


こんなに苦しい思いをするくらいなら、と彼は何回目かの咳と一緒に血を吐いた。


閉じた瞳から流れる雫と混じって、それは怠惰に床へ零れる。




『消えてしまう。』



不意に、声が聞こえた。

幻聴だと思った。


それがあまりに優しかったから。




『何が?』



問うと、声は穏やかに答えた。



『君が・・・・・・・』



会話できるなんて、便利な幻聴だと、彼は思った。



同時に、先程の疑問の答えを知った。



とても、とても静かに。それは夜の海のように、優しく彼に語りかけた。




そう−−−こんな場所で、自分は果てるのだ。



たったひとりで。

ここで・・・・・・。



『君は死ぬべきではない』



『君の・・・・心は、死んではいけない』




何故かは解らないが、声は必死にそれだけを繰り返した。



死ぬな、と。


何度も繰り返しノアに語り、それ以外は何も言わない。



壊れた器械人形のように、馬鹿々々しいほどそれだけを訴える。



それがあまりに滑稽で、ノアは笑った。


頬を僅かに動かす程度の笑みだったが、彼は苦し紛れに微笑んだ。



『君は、誰・・・・・・?』


声は驚いたように息をのみ、戸惑うようにして途切れた。




もう一度繰り返したとき、声はゆっくりと囁いた。

『私は、ジルトラーゼ』



よく解らないが、彼はそのとき幸せだった。


何故だか解らないが、彼は生きたいと願った。


『君の、守護者・・・・・』


続いた言葉に、ノアは頷いた。

喉はまだ痛んだが、もう気にならなかった。


淡々と告げられた言葉は、どこか懐かしさに似たものを感じさせた。


『ジル・・・・。僕は、ノア』


呟き、 横たえた身体を起こして、壁に支えられて座る。



そして彼は、虚空へと手をのばした。




『・・・・・・ノ、ア?』



そこに現れた守護者は泣いていた。


表情もなく、ただ涙を流していた。



それはジルトラーゼにとって、二度目の邂逅となった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ