『母さんの年金で暮らせばいいだろう』と言った息子へ――通帳と合鍵を返してもらい、私は六畳一間へ引っ越した
『母さんの年金で暮らせばいいだろう』と言った息子へ――通帳と合鍵を返してもらい、私は六畳一間へ引っ越した
「母さんの年金が出たらさ、そのまま全部、この家の生活費に入れればいいだろ。浮いた分で車も買い替えられるし」
日曜の昼下がり、長男の洋介はホットプレートの焼きそばを自分の皿へ山盛りに移しながら、天気の話でもするように言った。六十四歳の典子は、来月で定食屋のパートを週五日から週二日に減らし、年金を受け取り始める予定だった。洋介の隣では、嫁の真由美が、典子が朝から漬けておいた胡瓜を噛みながらスマートフォンを眺めている。
「そうですよ、お義母さん。定年後は、専業主婦として家のことを全部やってくださればいいんです。家賃もかからないし、孤独死の心配もありませんよ」
ホットプレートには、短く切れた麺とキャベツの芯だけが残っていた。典子は菜箸を持ったまま、洋介の皿に載った豚肉を見た。今日は三百グラム買ったはずなのに、自分の取り皿には一切れも入っていなかった。
「私の年金を全部入れたら、私の医療費や服代はどうするの」
「この家に住んでるんだから、必要なものは家計から出せばいいだろ」
「その家計を管理するのは誰?」
「真由美に決まってるじゃん。母さん、数字に弱いし」
洋介は口の端に青海苔をつけたまま笑った。真由美も画面から顔を上げず、「今だって通帳は私たちが預かっていますものね」と付け加えた。典子が胆石の手術で入院した二年前、支払いを代行するという理由で洋介に渡した給与口座の通帳は、その後も返されていなかった。
「洋介、マヨネーズ取って」
「母さん、真由美がマヨネーズだって」
典子は菜箸を置き、冷蔵庫からマヨネーズを出した。蓋の周囲についた油を布巾で拭き、洋介の前へ置く。夫が亡くなってから五年間、何度同じように二人の前へ必要なものを差し出してきただろう。
この家は、亡き夫と三十年かけて守ってきたものだった。住宅ローンは完済し、相続登記も済ませ、現在の所有者は典子一人である。三年前、洋介夫婦が「半年だけ住ませてほしい」と転がり込んできたとき、典子は二階の二部屋を空け、新しいカーテンまで買って迎えた。
二人は生活費として月に五万円を入れると約束した。最初の三か月だけ五万円が振り込まれ、その後は二万円になり、やがて一円も入らなくなった。食費、電気代、水道代、固定資産税、日用品代は、すべて典子のパート代から出ていた。
典子は毎朝五時半に起き、三回、洗濯機を回した。二人分の弁当を詰め、夕飯の下ごしらえをしてから、駅前の定食屋で七時間立ち働いた。揚げ油の匂いを髪に染み込ませて帰宅すると、流しには朝の皿が残り、リビングには脱いだ靴下と菓子の袋が散らばっていた。
それでも、家族を支えているのだと思っていた。いつか洋介が、「母さんも座って食べなよ」と言ってくれる日を待っていた。だが、洋介が待っていたのは母親の年金だった。
「通帳を返して」
典子が手を差し出すと、洋介は焼きそばを頬張ったまま眉をひそめた。
「急に何だよ」
「私の通帳でしょう。返してちょうだい」
「なくしたら困るから、俺が持っていてやるよ。年金の手続きにも必要だろ」
「だから必要なの。明日の朝までに返して」
洋介は返事をせず、空になった皿を典子の前へ押し出した。
「それより、おかわりないの?」
典子は皿を受け取らなかった。流しへ運ぶ代わりに、自分の取り皿へ残ったキャベツの芯を一つ載せた。冷たくなったそれを噛むと、芯から薄い水が染み出した。
翌朝、通帳は返ってこなかった。典子はいつもどおり二人の弁当を作り、玄関で靴を履いた。卵焼きも鶏の照り焼きも、自分のためには一度も詰めたことがないと気づいたが、その日はまだ何も言わなかった。
定食屋の昼営業が終わると、典子は賄いの鯵フライを半分だけ食べ、店主に翌週の休みを一日もらった。それから銀行へ行き、窓口で事情を説明した。本人確認を終えると、古い通帳の利用を止め、新しい通帳を発行し、暗証番号を変更できた。
家族カードも停止した。給与や年金の振込先は、洋介たちが知らない新しい口座へ変更した。携帯電話料金や自分の保険料だけを新口座へ移し、家族全員分として引き落とされていた動画配信サービスと宅配食材は解約した。
銀行を出たとき、典子は小さく息を吐いた。通帳一冊を作り直しただけなのに、肩に食い込んでいた買い物袋を地面へ下ろしたような気がした。鞄の中では、真新しい通帳が薄い紙の音を立てていた。
次に、過去三年分の取引履歴を取り寄せた。電気代、水道代、固定資産税、食料品、洋介に頼まれて立て替えた自動車保険料まで、日付と金額が一行ずつ並んでいる。洋介夫婦から入った生活費は、三年間で二十七万円しかなかった。
典子は、その足で司法書士事務所を訪れた。家が自分の単独名義であることを確認してもらい、紹介された弁護士にも相談した。家族だからといって、成人した息子夫婦を無期限に無償で住まわせる義務はないと説明された。
「すぐに鍵を替えて追い出すことはできますか」
「それは避けましょう。まず、無償で住まわせている状態を終了すると書面で通知し、相当な退去期間を設けます。応じなければ、明渡しを求める手続きを取ります」
典子は膝の上で指を組み直した。怒鳴り声を上げなくても、紙と日付と署名が自分を守ってくれる。そう分かると、息を吸ったときに胸の奥まで空気が入った。
「三か月後までに退去してもらいたいです。それと、私の通帳と家の合鍵も返してほしいんです」
「その二点も通知書に明記しましょう」
家へ帰ると、真由美が台所で冷蔵庫を開けたまま立っていた。冷気が足元へ白く流れ、中には前日の焼きそばに使った半玉のキャベツと、賞味期限の近い牛乳が残っている。典子が買い物をしなかったのは、三年ぶりのことだった。
「お義母さん、今日、買い物は?」
「行っていないわ」
「夕飯は何ですか」
「私は定食屋で賄いを食べてきたの。あなたたちの分は、お好きなものをどうぞ」
真由美は冷蔵庫の扉を閉め、露骨に唇を尖らせた。だが、典子はエプロンを着けなかった。自分の部屋へ入り、湯を沸かし、小さな急須でほうじ茶を淹れた。
夕方、洋介が古い通帳を手に怒鳴り込んできた。仕事帰りにコンビニのATMへ寄り、金を引き出せなかったらしい。通帳を典子の座卓へ叩きつけると、夫の遺影がわずかに揺れた。
「何を勝手に止めてるんだよ。ガソリン代を下ろそうとしたら使えなかったぞ」
「それは私の口座よ」
「家族の金だろ!」
「あなたが働いて受け取った給料は、私の金なの?」
「それとこれとは話が違うだろ!」
典子は座布団から立ち、古い通帳を拾った。表紙には、洋介がつけたらしい油染みが残っていた。布巾で拭こうとして、もうその必要もないと思い直した。
「返してくれてありがとう。新しい通帳は、私が管理します」
「母さん一人で何ができるんだよ。年金の書類だって分からないだろ」
「銀行も年金事務所も、分からないことは教えてくれたわ。あなたに聞く必要はなかった」
翌週、弁護士名で退去通知が届いた。洋介夫婦は、封筒を開けた途端に顔色を変えた。三か月後をもって無償使用を終了すること、期限までに退去すること、家の合鍵をすべて返還することが記されていた。
「冗談だろ。実の息子を追い出す親がどこにいるんだよ」
「実の母親の年金を車に替えようとする息子なら、ここにいるわね」
「俺たちはどこへ行けばいいんだ」
「二人とも働いているのでしょう。不動産屋へ行って、自分たちの収入で借りられる部屋を探しなさい」
真由美は、テーブルの上の通知書を爪で弾いた。ネイルの先端が紙に当たり、乾いた音がした。買い替えるつもりだった車のカタログが、通知書の下で半分に折れている。
「お義母さんこそ、この広い家で一人暮らしなんて無理ですよ。固定資産税も修繕費もかかるんですよ」
「だから売ることにしたの」
二人の顔から、同時に表情が消えた。この家はいずれ自分たちのものになると、話し合いもせずに決めていたのだろう。典子は査定書を取り出し、通知書の横へ置いた。
駅から徒歩十二分、南向きの土地付き戸建てだったため、築年数の割には悪くない査定額が出ていた。屋根と給湯器の修繕費を考えれば、今売却し、管理しやすい賃貸住宅へ移るほうが典子には合っていた。売却代金は老後資金として、洋介たちが触れられない口座へ入れる。
「親父の家を勝手に売るのかよ」
「お父さんから私が相続した、私の家よ。登記簿にもそう書いてあるわ」
「俺にだって相続する権利があるだろ!」
「私が生きているうちは、あなたの相続財産ではありません」
三か月の間に、家の空気は変わった。典子は洋介夫婦の洗濯をせず、食事も作らず、二人が使った食器にも触れなかった。自分の茶碗と小皿だけを洗い、布巾で水気を拭いて、自室の棚へしまった。
最初の一週間、流しには皿が山のように積まれた。二週目には真由美が紙皿を買い、洋介がコンビニ弁当の容器をゴミ箱からあふれさせた。三週目、二人は一度だけカレーを作ったが、鍋底を焦がし、その鍋を誰が洗うかで深夜まで言い争っていた。
典子は耳栓をして眠った。朝は自分のためだけに味噌汁を作り、豆腐を三切れ入れた。焼いた鮭のいちばん厚い部分を自分の皿へ載せても、もう誰にも取られなかった。
退去期限の十日前になり、洋介夫婦はようやく隣の市の賃貸マンションを契約した。二人の収入を合わせれば、十分に借りられる部屋だった。ただし、家賃、駐車場代、光熱費を払うと、新車のローンを組む余裕はなかった。
引越し当日、洋介は不機嫌な顔で、玄関の鍵を一本だけ差し出した。典子は受け取らず、封筒に記載された本数を指で示した。この家の合鍵は、洋介用と真由美用、それに非常用として渡した一本の、合計三本だった。
「あと二本あるでしょう」
「一本くらい、別にいいだろ。何かあったときに必要だ」
「必要ありません。三本とも返してください」
「母親に何かあったら、息子が駆けつけるもんだろ」
「私が胆石で入院したとき、あなたは一度も来なかったわ。通帳だけは取りに来たけれど」
洋介は口を開きかけ、それから黙った。真由美が自分のバッグから一本、洋介が車のキーケースからもう一本を外した。三本の鍵が、典子の手のひらで重なって鳴った。
「これで満足かよ」
「ええ。通帳も合鍵も、全部返してもらいました」
「俺たちが困っても、知らないからな」
「三年間、私が困っていることを、あなたは一度も知ろうとしなかったでしょう。これからは、お互いに自分の暮らしを自分で守りましょう」
トラックが出ていくと、玄関が静かになった。典子はすぐに鍵の交換を頼み、家の売却契約を進めた。空になった二階には、壁紙の剥がれと、真由美が家具を引きずってつけた床の傷だけが残った。
売却代金から仲介手数料や諸費用を差し引いても、典子一人が老後を送るには心強い金額が残った。典子はその大半を定期預金に分け、生活口座には必要な分だけを移した。洋介には、銀行名も口座番号も知らせなかった。
新居に選んだのは、駅から十五分ほど歩いた場所にある、築三十年のアパートだった。六畳一間に小さな台所とユニットバスが付き、窓の外には大家が手入れする金木犀が見えた。礼金はなく、家賃は年金と週二日のパート代で無理なく払える。
引越し荷物は段ボール六箱と、小さな箪笥、布団、使い慣れた手鍋だけだった。母の形見の小皿、夫の位牌、家族のアルバムも持ってきた。大型テレビもドラム式洗濯機も売却し、必要なものだけを新しく買い直した。
荷解きを終え、典子は畳の上へ腰を下ろした。窓から午後の日差しが入り、畳の縁を明るく照らしている。洗濯物の山も、「飯はまだか」という声もなく、冷蔵庫には自分で買った麦茶と豆腐が一丁入っているだけだった。
携帯電話が震えた。洋介から、「引越し代が予想より高かった。十万円だけ貸してくれ」というメッセージが届いていた。典子は画面をしばらく見てから、短く返信した。
〈貸しません。二人で家計を相談してください〉
すぐに着信が始まったが、典子は音を消した。洋介夫婦が家賃や食費を負担するのは、罰ではない。三十歳を過ぎた大人が、自分の収入で自分の生活を営むという、それだけのことだった。
夕方、典子は財布を持って商店街へ出た。これまでは洋介が肉を好むから、真由美が揚げ物しか食べないからと、自分の食べたいものを後回しにしてきた。スーパーの特売品を見ても、二人分の弁当へ入れる量を計算する必要はなかった。
年季の入った定食屋の前で、典子は足を止めた。紺色の暖簾には白く「お食事処」と染め抜かれ、引き戸の向こうから生姜と味噌の匂いが漂っている。戸を開けると、からんころんと鈴が鳴った。
「いらっしゃい。お一人ですか」
「はい。一人です」
白髪の店主に尋ねられ、典子はカウンターの端へ座った。壁には、刺身定食、肉じゃが定食、鯖の味噌煮定食と書かれた短冊が並んでいる。隣の客の焼き魚から立つ湯気を眺めながら、典子はゆっくり品書きを選んだ。
「鯖の味噌煮定食を一つ。ご飯は少なめでお願いします」
「はいよ。鯖味噌、ご飯少なめね」
運ばれてきた膳には、照りのある味噌で煮込まれた鯖、炊きたての白飯、若布と油揚げの味噌汁、ひじきの小鉢が並んでいた。典子は割り箸を割り、まず味噌汁を啜った。熱い出汁が舌から喉へ落ち、冷えていた指先まで温めていく。
鯖の身を箸でほぐすと、生姜の香りが立った。脂ののった腹身を口へ運び、典子は誰にも渡さず、ゆっくり噛んだ。料理が冷めないうちに自分の食事を味わうことが、これほど贅沢なことだとは知らなかった。
通帳の残高だけなら、家を売る前より増えている。けれど、典子が取り戻したかったのは金額だけではなかった。朝起きる時間も、鍋に入れる豆腐の数も、誰に合鍵を渡すかも、自分で決められる暮らしだった。
「お味はどうですか」
店主に尋ねられ、典子は背筋を伸ばした。口元についた味噌を紙ナプキンで拭き、温かい茶碗を両手で包む。六畳一間の部屋では、洗って干したばかりの枕カバーが、秋の風に揺れているはずだった。
「とてもおいしいです。今度は肉じゃがを食べに来ます」
典子は最後の一口まできれいに食べた。帰れば、誰にも使われていない手鍋と、自分だけの新しい鍵が待っている。鞄の内ポケットに手を入れると、鍵は真新しい通帳の表紙に触れ、小さく澄んだ音を立てた。




