「私、あなたの子供ができたの。責任を取ってくださらない?」から始まる辺境騒動。メイドのエナメルは今日も主人を支えている。
勇者の聖戦から、110年ほど経ったころ。
「私、あなたの子供ができたの。責任を取ってくださらない?」
「……は?」
私の名はネール。
祖国ブルー王国を守るため、国境に近い辺境の方面司令官を任されている者だ。
この地方は気候こそ穏やかだが、魔物の脅威はいまだ強く、隣国も常にこちらの出方をうかがっている。
私は方面軍の指揮だけでなく、砦に隣接する町と周辺地域の管理も任されていた。
赴任して三年。
どうにか魔物への対応を整え、街道を直し、周辺領主たちともそれなりの関係を築き、ようやく少し落ち着いてきたところだ。
周辺領主からは時折、
「そろそろ妻を迎えてはいかがです?」
などと娘を紹介されることもある。
だが、とてもそんなところまで頭が回らない。
毎日、兵糧だ、魔物だ、隣国だ、領主同士の揉め事だ。
自分の結婚など後回しだ。
だから、目の前に立っている女性など私は知らない。
「ええと、まず名を名乗ってくれないか。私は君を知らない」
女性は扇で口元を隠した。
「まあ。冷たい方ですこと。インディゴ伯爵家の娘ですわ」
インディゴ伯爵家。
この一帯でも特に大きな力を持つ家だ。
財力も兵力もあり、この地方において粗略には扱えない。
そして、ここ三年間でも付き合いにかなり骨の折れる家だった。
「そのインディゴ伯爵家のご令嬢が、私の子供を身ごもっている、と」
「はい」
「初めて会ったのに?」
「嫌ですわ。そんな難しい顔をなさらないで」
「なんだったら私から伯爵へ申し上げてもいい。ご令嬢が訳の分からないことをおっしゃっている、と」
「まあまあ。最後までお聞きくださいませ」
令嬢は楽しそうに笑った。
「正確には、あなた様の弟君の子ですわ」
「……最初からそう言ってくれないか」
「その方が、私のお話を真剣に聞いていただけるでしょう?」
そういう問題だろうか。
私は深く、深くため息をついた。
「あいつか……」
私には弟がいる。
私がこの辺境へ赴任すると決まったとき、
「兄上を助ける!」
などと言って勝手についてきた。
そこまではよかった。
問題は、何一つ助けにならなかったことである。
酒場で揉める。
兵士と喧嘩する。
勝手に領主の娘へ声をかける。
挙げ句の果てに、私の名前を使って商人から金を借りようとした。
さすがに頭にきて、現在は宿舎から出るなと謹慎を命じている。
……はずだった。
「あいつ、謹慎中に何をやっているんだ!」
「まあ」
令嬢が笑う。
「お元気な方でしたわよ」
聞きたくなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜、私は私室で頭を抱えていた。
「困ったことになりましたね」
静かな声とともに、湯気の立つ茶が置かれる。
「ありがとう、エナメル」
茶を淹れてくれたのは、幼いころから私についてくれている侍女、エナメルだ。
私の実家は貧しい男爵家だった。
使用人を何人も雇えるような家ではない。
そんな我が家へ、
「住み込みで働けるなら、お給金は安くても構いません」
と言ってやってきたのがエナメルだった。
両親は剣と勉学にばかり励んでいた私を見て、彼女へ私付きの侍女になってほしいと頼んだ。
それ以来ずっと、エナメルは私のそばにいる。
この辺境へ赴任したときも、
「坊ちゃまがお一人では心配ですので」
と言って当然のようについてきてくれた。
正直、この三年間、心が折れずに済んだのはかなりの部分、エナメルのおかげだと思っている。
「弟は俺を助けたいと言ってついてきたんだがな」
私は茶を飲む。
ずず。
ああ、おいしい。
香りが柔らかい。
少し疲れている日は、いつもと茶葉が違う気がする。
一口飲むだけで頭の中に積もっていたものが少しずつ整理されていく。
「最初から断っておけばよかったと、心底後悔しているところだ」
「坊ちゃまは弟君に甘いところがありますから」
「そうだな」
「昔から」
「そこまで言うか?」
「ふふふ」
子供のころから見慣れた笑顔だ。
「ありがとう、エナメル」
「何がでしょう?」
「いつも茶を淹れてくれるだろう。これを飲むと、少し頭がすっきりする」
「坊ちゃまのお役に立てているのでしたら、何よりですわ」
私は再び茶へ口をつける。
「それにしても、弟とあの令嬢の件はなんとかしないとな」
そのときは、まだ単なる弟の醜聞だと思っていた。
まさかこの一件が、この地方全体を揺らすことになるとは思っていなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
「司令官殿。我が娘のこと、どう責任を取られるおつもりで?」
インディゴ伯爵が砦へやってきた。
「その前に、弟を探しております」
「弟君など、どうでもよろしいでしょう」
「よくありません」
「腹の子は、あなた様の家の血を引いているのですぞ」
なるほど、そう来たか。
「つまり?」
「あなた様が娘と婚姻なさればよい」
私は思わず伯爵の顔を見た。
「弟の子供を、私の子供として育てろ、と?」
「家として責任を取るとは、そういうことでしょう」
「そんな理屈があるか。まず弟を見つけ、本人同士の意思を確認する。それが先でしょう」
「娘はあなた様との婚姻を望んでおります」
「なぜ?」
すると、今度は令嬢本人が口を開いた。
「弟君は一緒にいて楽しい方でしたけれど、結婚するのでしたら、あなた様の方がよろしいですわ」
「……」
「方面司令官の妻ですもの」
父娘とも隠す気がないらしい。
「弟も大概だと思っていたが、君もなかなかだな」
「あら。お褒めいただきありがとうございます」
褒めていない。
私は嫌な予感を覚えた。
そして、それは当たった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
月に一度、砦では周辺領主を集めた定例会議が行われる。
この地方の防衛、魔物の発生、街道の警備、兵糧の備蓄、隣国の動き。
そうしたことを話し合う大切な場だ。
この一帯には十数家の領主がいるが、その力は同じではない。
子爵や男爵程度の小領主では、大規模な魔物の群れや隣国軍の侵入を単独で防ぐのは難しい。
そのため、方面司令官が複数の領地から兵を集め、一つの軍として運用する意味がある。
一方で、伯爵級ともなれば事情が違う。
自前でかなりの兵力を抱え、多少の魔物や小規模な侵入なら自領だけでも対処できる。
だからこそ、方面司令官だからといって命令だけで思いどおりに動かせる相手ではない。
中でもセルリアンブルー伯爵は、この地方で最大級の兵力を持っていた。
私が赴任する以前は、彼こそがこの一帯の実質的な盟主だったと聞いている。
武勇にも戦術にも優れる一方、かなり気難しく、気に入らない相手には露骨に協力しない人物だったらしい。
だが、不思議なことに私が赴任してからのセルリアンブルー伯爵は、当初こそ、難しかったが、時間が経つにつれ驚くほど協力的になった。
戦術を教えてくれた。
辺境で領主たちをまとめる方法も教えてくれた。
必要なときには規定を超えて兵まで貸してくれた。
聞いていた人物像とは随分違うな、と何度も思ったものだ。
そして、この定例会議では、当初のころからエナメルも私の後ろに控えていた。
もちろん会議へ出席する資格があるわけではない。
あくまで私付きの侍女として、茶を淹れたり、必要な書類を渡したりするためだ。
だが、領主たちが議論している最中、エナメルが小声で、
「坊ちゃま、セルリアンブルー伯爵様は昨日国境からお戻りになったばかりだそうです。今日は少しお疲れのようですわ」
と耳打ちしてくれることがあった。
そんな日は、私は無理に結論を出そうとはせず、
「この件は次回に回しましょう」
と会議を早く切り上げた。
また、ある領主が険しい表情で黙り込んでいると、
「坊ちゃま、あちらの領地では先月、川が氾濫したそうです」
と教えてくれる。
「そうだったのか。被害は?」
と尋ねると、領主は驚いた顔をしたあと、少しだけ表情を緩める。
エナメルは政治へ口を挟まない。
ただ。
相手が何を気にしているのか。
どんな顔をしているのか。
何を覚えておくべきなのか。
そうしたことを、さりげなく私へ教えてくれていた。
そんなセルリアンブルー伯爵をはじめ、大小十数家の領主が今日も会議室へ集まっていた。
そして、会議が始まってまもなく、インディゴ伯爵が立ち上がった。
「司令官殿に、一つお尋ねしたい」
「何でしょう」
「我が娘の件です」
ざわ。
部屋の空気が変わった。
やはり、ここでやるつもりか。
「我が娘が子を身ごもったことについて、司令官殿はいまだ責任を取られておられぬ」
「事実関係を正確に言っていただきたい」
「ならば申し上げよう。腹の子は、司令官殿の弟君との間にできた子です」
領主たちがざわつく。
「そして弟君は姿を消した。ならば兄であり、この地方の方面司令官でもあるあなた様が責任を取るのが筋ではありませんかな?」
「私がご令嬢と婚姻しろ、と?」
「そうです」
「断ります」
即答した。
会議室が静まり返る。
「ほう」
伯爵の目が細くなった。
「では、ご自分の家の不始末すら収められぬ方が、この地方の領主たちを束ねるおつもりで?」
来たな。
そこが狙いか。
私は周囲を見渡した。
領主たちは誰も口を開かない。
私は知っている。
この人たちは私の家臣ではない。
王国から与えられた権限により、軍事上、私の指揮下に入っているだけだ。
法の上では私の命令へ従う義務がある。
だが、ここは王都から遠い辺境。
王国の力が隅々まで届いているわけではない。
特に伯爵級ともなれば、自分たちの領地を自分たちで守れるだけの力がある。
命令された最低限の兵は出しても、それ以上まで協力する必要はない。
だから、この三年間。
私は命令することより、彼らから信頼されることを第一に考えてきた。
もし、今回の件でその信頼を失ったのなら、もう私がここにいる意味はない。
「分かりました」
私は立ち上がった。
インディゴ伯爵が勝ち誇った顔をする。
「では婚姻を?」
「いいえ」
「何?」
「方面司令官職を返上します」
「……は?」
今度は伯爵の顔が固まった。
「副官へ暫定的に指揮を引き継ぎます。そのうえで王都へ戻り、陛下へ正式に辞任を申し出ます」
「待て。そこまでする必要は」
「あなたがおっしゃったのでしょう?」
私は笑った。
「自分の家の不始末すら収められぬ者に、領主たちを束ねる資格はないと」
「いや、それは」
「ならば」
私は領主たちへ頭を下げた。
「三年間、お世話になりました」
誰も何も言わなかった。
ただ、セルリアンブルー伯爵だけが、じっと私を見ていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日のうちに、副官へ必要な引き継ぎを済ませ、私は私室へ戻った。
「エナメル」
「はい」
「荷造りを頼めるか」
「王都へ?」
「ああ」
「承知いたしました」
エナメルは何も聞かず、手早く荷造りを始めた。
必要な衣服、書類、剣。
最低限の荷物だけなら、一時間もかからなかった。
「少ないですね」
「三年間、仕事しかしていなかったからな」
「ええ。坊ちゃまがこの三年間で増やされたものといえば、お仕事とお疲れくらいでしたものね」
「……」
「本当によく頑張っておいででした」
「分かった。もう言うな」
エナメルは、くすりと笑った。
馬車へ乗り、砦を離れた。
私は窓の外を眺めた。
三年間、ただこの地方を安定させることばかり考えてきた。
「坊ちゃま」
「ん?」
「インディゴ伯爵にはめられたのでは?」
「……やはり、エナメルもそう思うか」
「はい」
「可能性は高いな」
三年前なら、私を追い出しても大した意味はなかっただろう。
だが今、辺境は以前より安定している。
インディゴ伯爵は娘の件を利用して、私を自分の一族へ取り込もうとした。
受け入れれば方面司令官の外戚として権力を振るえる。
断れば醜聞を利用して追い落とす。
どちらでもよかったのだろう。
「弟君も?」
「おそらく利用されたんだろうな」
調べたところ、弟は突然かなりの金を持って町を出たという。
謹慎とはいえ、牢へ入れていたわけではない。
宿舎から出るな、と命じていただけだ。
あいつなら、金をもらって逃げたと言われてもまったく驚かない。
「まあ」
私は座席へ身体を預けた。
「もういい」
「よろしいのですか?」
「疲れた」
本音だった。
魔物より。
隣国より。
一番疲れたのは領主たちをまとめることだった。
「彼らは、私の部下ではあっても家臣ではない。いや、正確には軍事上の指揮下に入っているだけだ」
「はい」
「命令に従う義務はあっても、積極的に協力してくれる義務まではない」
特に伯爵たちはそうだ。
自分たちだけで自領を守れる力があるからこそ、こちらが信頼を失えば簡単には兵を預けてくれない。
「そこを三年間なんとかやってきたが……もう休みたい」
「では」
エナメルが保温用魔道具を取り出した。
「お茶にいたしましょう」
「馬車の中まで持ってきたのか?」
「坊ちゃまが必要になると思いましたので」
「さすがだな」
ずず。
ああ、うまい。
私は久しぶりに何も考えず、馬車の中で眠った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一方、辺境では。
インディゴ伯爵が上機嫌だった。
「ようやく出て行ったか」
三年前。
あの若造が突然方面司令官としてやってきた。
気に入らなかった。
だが、厄介なことに有能だった。
魔物への対応、街道整備、兵站、隣国との駆け引き。
そして武勇。
どれを取っても、若造とは思えないほど優秀だった。
さらに気に入らないことがあった。
それまで、この地方の実質的な盟主はセルリアンブルー伯爵だった。
兵力も多く、指揮も上手い。
そして。
わがままだった。
気に入らなければ兵を出さない。
気に入った女がいれば、
「妾にくれ」
などと平然と言う。
他の領主たちは、あの男の機嫌を損ねないように暮らしていた。
わしもずっと、あの男の下にいるのが気に入らなかった。
ところがネールがやってきてから、セルリアンブルー伯爵は妙に大人しくなった。
会議ではネールの意見を聞く。
追加兵も出す。
時には自ら助言までしていた。
わしは思った。
セルリアンブルー伯爵も歳を取り、昔ほどの気概がなくなったのだ、と。
ならば。
ネールさえいなくなれば、この地方で最も力を持つのは自分だ。
娘がネールの弟と関係を持ったと聞いたとき、これは使えると思った。
弟へ金を渡し、遠方へ逃げるよう指示した。
娘も、
「どうせなら、弟君より兄君の方がいいですわ」
と乗り気だった。
あとは娘を妻として押しつける。
受け入れれば、自分は方面司令官の外戚。
拒否すれば、醜聞を利用して追い落とす。
結果。
若造は勝手に辞めていった。
「これで」
インディゴ伯爵は笑う。
「この地方の盟主は、実質わしだ」
王都から新しい司令官が送られてくるだろう。
だが所詮はよそ者。
この辺境のことなど何も知らない。
わしの協力なくば、何もできない。
セルリアンブルー伯爵も、ここ三年ですっかり牙を抜かれた。
小さな領主たちは、いずれ自分へ従う。
わしは、この時までそう思っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一か月後。
新しい方面司令官が王都から到着した。
「規定兵力とは別に、各領へ可能な範囲で追加兵をお願いしたい」
定例会議。
新司令官が領主たちへ頭を下げる。
セルリアンブルー伯爵が手を挙げた。
「我が領からは、すでに規定の六十名を出しております」
「承知しています。しかし現在、隣国の動きが活発になっている。さらに四十名ほど追加できませんか」
「命令ですかな?」
「いや。協力要請です」
「では、お断りいたします」
「……」
「残る兵は、自領の防衛に使いますので」
別の伯爵へ、食糧の追加供出を頼むと、
「規定分はすでに納めました。それ以上は我が領民の冬越しに必要ですので」
また別の領主へ、街道補修のための人足を求める。
「我が領内の街道ではございません」
「以前は協力していただいたと聞いています」
「ネール殿に頼まれましたので」
誰も命令違反はしていない。
規定の兵。
規定の食糧。
必要な報告。
すべてきちんと出している。
子爵や男爵の中には、むしろ方面軍の力を必要としている者も多く、新司令官へ積極的に協力する者もいた。
だが、問題は伯爵たちだ。
彼ら自身が持つ兵力が動かなければ、方面軍全体の力は大きく落ちる。
以前ならネールが、
「少し足りない」
と言えば、誰かが追加で兵を出した。
食糧が不足すれば別の領主が、
「うちから回そう」
と言った。
橋が壊れれば領境を越えて人足を貸し合った。
それがなくなった。
「なぜだ!」
ついに新司令官が声を荒らげた。
「私は方面司令官だぞ!」
セルリアンブルー伯爵が冷たい目を向ける。
「だから?」
「命令権がある!」
「命じられたことには従っておりますが?」
「……」
「我々の兵は、領民でもあります」
伯爵は淡々と言った。
「命じられた数ならば出しましょう。しかし、それ以上の兵まで預けるのであれば、その指揮官を信用できるかどうかは別の話です」
「……」
「それ以上を求めるなら、お願いなさればよろしい。そして、断られることも覚悟なさることですな」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
状況はさらに悪化した。
ネールがいなくなったという情報は当然、隣国にも伝わる。
国境で小規模な侵入が増えた。
隣国は、ネールの指揮能力を評価していたのだ。
さらに運の悪いことに、魔物の群れまで発生した。
「緊急動員!」
新司令官から各領主へ命令が飛ぶ。
兵は集まった。
だが、少ない。
以前なら規定数を大きく超え、千近い兵が集まった。
今回は六百ほど。
残りの兵がいないわけではない。
伯爵たちは、自領の城や村へ置いていた。
「なぜこれだけしかいない!?」
「命令された兵は出しました」
「以前はもっといたはずだ! 記録に残っているぞ!」
セルリアンブルー伯爵が肩をすくめる。
「以前は、ネール殿への信頼の分ですな」
「この地方が危険なのだぞ!」
「だからこそ残しているのです。我が領を守るために」
新司令官は何も言えなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その様子を見て、インディゴ伯爵が立ち上がった。
「まったく。仕方ありませんな」
「伯爵?」
「わしが話をつけましょう」
ようやく自分の出番が来た。
そう思った。
まず、一人の子爵へ声をかける。
「追加兵を出せ。二十名でよい」
「お断りします」
「何?」
「我が領は現在、東側の村へ兵を回しておりますので」
別の男爵へ言う。
「食糧を追加で供出しろ」
「余剰はありません」
「以前は出したであろう!」
「ネール司令官からお願いされたときのことでしょうか?」
「同じことだ!」
「違うと思いますが」
「……!」
最後に。
セルリアンブルー伯爵へ向き直った。
「貴様、兵を追加で出せ!」
「嫌だ」
「なっ!」
「聞こえなかったか?嫌だと言った」
「この地方が危ないのだぞ!」
「ならば貴殿が出せばよい」
「我が領にも限界がある!」
「我が領にもある」
「以前は出していただろう!」
「ネール殿に頼まれたのでな」
インディゴ伯爵が机を叩く。
「なぜだ!」
「……」
「なぜ、あの若造にはそこまで従った!」
セルリアンブルー伯爵は、しばらくインディゴ伯爵を見つめた。
そして笑った。
「従った?」
「何?」
「勘違いするな」
伯爵は椅子から立ち上がった。
「我々はネール殿の家臣ではない」
「……」
「軍事上、その指揮下に入っていただけだ」
「ならばなぜ!」
「だからこそだ」
セルリアンブルー伯爵の声が会議室へ響いた。
「家臣ならば、主家への忠義がある。だが、我々は違う」
「……」
「ネール殿の家臣ではないからこそ、あの男自身を見て力を貸した」
誰も口を挟まない。
「我々が兵を余分に出したのも、食糧を融通したのも、街道を直したのも、ネール殿ならば、この地を守るために正しく使うと信じていたからだ」
伯爵はインディゴ伯爵を睨んだ。
「我らが預けていたのは兵だ」
「……」
「兵とは、領民の命でもある」
「……」
「肩書一つ手に入れれば、そんなものまで勝手についてくると思ったか?」
「……!」
「役職を奪えば、人まで自分のものになると思ったか?」
伯爵は鼻で笑った。
「思い上がるな」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜。
セルリアンブルー伯爵は自領へ戻った。
「母上」
「お帰り」
高齢の母が椅子に座って出迎える。
「ご機嫌はいかがです?」
「今朝はどうもねえ」
「また胃が?」
「そうなのよ」
母はため息をついた。
「エナメルさんのお茶が恋しいねえ」
「……」
「私の調子が悪い日は、いつも少し違う茶を淹れてくれたでしょう?」
「そうでしたな」
「飲むと本当に楽になったのよ」
「薬ではありませんよ」
「分かっています。でもねえ。あの人は、私が言う前に気づいてくれるのよ」
セルリアンブルー伯爵は遠い目をした。
三年前。
ネールが赴任して間もないころのことを思い出す。
当時の自分は今よりずっと勝手だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
森の街道で、セルリアンブルー伯爵の一行は魔物の群れに襲われた。
新しくやってきた方面司令官ネールの出方を見定めるため、定例会議へ参加した帰りだった。
護衛の兵は強かったが、不意を突かれた。
一頭の大型魔物が護衛を吹き飛ばし、伯爵へ爪を振り下ろす。
「くっ!」
避けられない。
そう思った瞬間だった。
一人の女が伯爵の前へ出た。
地味な侍女。
定例会議の際、ネールの後ろに控えて茶を淹れていたエナメルだった。
魔物の腕が振り下ろされる。
エナメルは、その腕へほんの少し触れた。
それだけだった。
それだけで魔物の勢いが大きく逸れ、そのまま隣の木へ激突する。
続いて襲いかかった魔物も、勢いを逸らされ、別の一頭へぶつかった。
何をしているのか、伯爵には分からない。
ただ気づいたときには、魔物はすべて倒れていた。
「……」
セルリアンブルー伯爵は呆然と立ち尽くした。
「お怪我はございませんか?」
エナメルが聞く。
「あ、ああ」
「それは何よりです」
「待て」
伯爵は慌てて彼女を呼び止めた。
「命を救われた。礼をしたい」
「まあ」
「望みを言え。金か?宝石か?」
「必要ございません」
「ならば何だ?」
エナメルは少し考えて微笑んだ。
「では、一つだけお願いがございます」
「言ってみろ」
「ネール様へ、少しだけお力をお貸しくださいませ」
「……何?」
「坊ちゃまは、この地を守ろうと毎日必死でございます」
「ネールとは、王国からやってきたあの若造の方面司令官のことだな」
「さようでございます。私の大切な坊ちゃまでございます。優秀ではございますが、一人ではどうにもならないこともございます」
エナメルは深く頭を下げた。
「ですので伯爵様。坊ちゃまがお願いしたときだけで構いません。少しだけ、お力をお貸しくださいませ」
「お前自身への褒美は?」
「必要ございません」
「金もいらぬのか?」
「はい」
「本当に、それだけでいいのか?」
「はい」
そして、いつものような顔で。
「私は坊ちゃま付きのメイドですので」
と笑った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
最初はあのメイドへの恩返しのつもりだった。
セルリアンブルー伯爵は、ネールが兵を求めれば出した。
街道の警備を頼まれれば協力した。
戦術について尋ねられれば、自分の知ることを教えた。
だが三年もあれば、人間がどんな男かくらい分かる。
ネールは、預けた兵を無駄死にさせなかった。
約束した兵糧は必ず用意した。
危険な作戦を行うときは、まず自分の直属兵を前へ出した。
失敗すれば人のせいにせず、自分の責任として頭を下げた。
最初はエナメルへの恩だった。
だが今では、あの侍女に頼まれなくとも、ネールへ力を貸していただろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それだけではなかった。
ネールがセルリアンブルー伯爵邸を訪れるたび、エナメルも同行した。
伯爵邸を訪れるうちに、エナメルは伯爵の母とも自然に言葉を交わすようになった。
「今日は少しお顔の色が優れませんね」
「あら。分かるの?」
「いつもより、お食事の量が少なかったようでしたので」
「よく見ているのねえ」
「今日は胃がお疲れのようですから、少し軽いお茶にいたしましょうか」
「お願いするわ」
寒い日なら、身体の温まる飲み物を用意した。
雨の日なら、足元の冷えに気づいて膝掛けを持ってきた。
伯爵の母は、いつしかネールが訪れる日よりも、エナメルが来る日を楽しみにするようになっていた。
「ところで、息子はネール殿を困らせていないかしら?」
「伯爵様には、坊ちゃまもいつも助けていただいております」
「そう?あの子、昔から自分勝手だからねえ」
「ふふふ」
「今度また無理を言っていたら、私に教えてちょうだい」
「その必要はございませんよ。伯爵様は、いつも坊ちゃまのお話をよく聞いてくださいますから」
エナメルは一度も、
「息子さんを説得してください」
とは言わなかった。
それでも、母親は息子へ、
「ネール殿をあまり困らせるんじゃないよ」
と口を出すようになった。
他の領主家でも同じだった。
誰かの妻が病気なら気遣う。
「以前お加減を崩されたと聞きましたが、その後はいかがです?」
と尋ねる。
子供が生まれた家なら、
「お嬢様はもう歩かれるようになりましたか?」
と覚えている。
「まあ、覚えていてくださったの?」
と母親は喜ぶ。
去年、洪水で村が被害を受けた領主の家では、
「南の村の橋は、その後いかがでございますか?」
と尋ねた。
「そんなことまで覚えているのか」
領主が驚く。
そして翌日の会談前。
エナメルはネールへそっと告げる。
「坊ちゃま、昨日、南の村の橋についてお話を伺いました。まだ完全には直っていないそうです」
「そうなのか」
ネールは会談の最初に尋ねた。
「南の村の橋はどうなった?」
領主は一瞬、驚いた顔をした。
「……覚えていてくださったのですか?」
「当然だろう。まだ困っているのなら、方面軍から人手を回せないか考えよう」
「……ありがとうございます」
エナメルは何も言わず、後ろで静かに茶を淹れていた。
またある会議では、一人の伯爵が苛立ったように指で机を叩いていた。
エナメルは茶を置く際、その顔をちらりと見た。
休憩になったところでネールへ近づく。
「坊ちゃま。あちらの伯爵様は昨日まで魔物討伐へ出ておられたそうです」
「疲れているのか」
「そのように見受けられます」
会議が再開すると、ネールは予定していた議題の半分を翌月へ回した。
「今日はここまでにしましょう」
伯爵は少し驚いたあと。
「……助かる」
と短く答えた。
エナメルが人を操ったわけではない。
ただ、人が人へ気を遣えるように少しだけ間をつないでいた。
そして、それを受け取ったネール自身が、相手を大切にした。
その積み重ねが、三年かけて信頼になっていた。
ネール本人は、そのすべてを知っているわけではなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「もう少しの辛抱です」
セルリアンブルー伯爵が母へ言った。
「そう?」
「はい」
「どうするの?」
「インディゴ伯爵を追い落とします」
「まあ」
「そして」
伯爵はにやりと笑った。
「ネール殿を呼び戻します」
「それはいいねえ」
母親の顔が一気に明るくなる。
「そうすれば」
「はい」
「エナメルさんも戻ってくるでしょう?」
「……おそらく」
「早くしておくれ」
「善処いたします」
もちろん。
母のためだ。
母がエナメルの茶を飲みたがっているから。
それだけだ。
決して自分も、会議のあとに出されるエナメルの茶や、酒を飲みすぎた翌朝に用意される薄い茶が、少し。
いや。
かなり恋しいからではない。
断じて。
それに。
伯爵の目が少し鋭くなった。
自分の権勢欲のために、この地を三年間守ってきた男を陥れ、追い出したインディゴ伯爵。
それだけは許すつもりはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数週間後。
王都。
私は久しぶりに実家へ戻っていた。
方面司令官職については国王陛下へ事情を説明し、正式に返上の願いを出している。
その後、辺境から様々な知らせが届いた。
セルリアンブルー伯爵を中心とする領主たちが、インディゴ伯爵の行為について正式な調査を要求したそうだ。
王都から監察官が派遣され、弟へ渡された金の流れ、逃亡を手助けした者、インディゴ伯爵家の使用人たちの証言。
次々と証拠が出てきた。
その結果、インディゴ伯爵は領地経営へ不当に方面司令官職を利用しようとしたとして失脚した。
爵位と領地の処分については、現在も王都で審議中らしい。
弟についても発見された。
どうやら本当に金を受け取って逃げていた。
「……帰ってきたら一発殴っていいだろうか」
私がそう言うと、エナメルは笑顔で、
「一発で済ませて差し上げるなんて、お優しいですね」
……怖い。
なお、インディゴ伯爵令嬢は子を産んだものの自ら育てることはなく、その子は教会の孤児院へ預けられたという。
令嬢自身は、没落した父とともにこの地方から姿を消した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そんなある日。
「坊ちゃま」
「ん?」
「お客様です」
「誰だ?」
「王城からの使者です」
「……」
嫌な予感がした。
私は使者から渡された書状を開いた。
そこには、周辺領主たちの名前がずらりと並んでいた。
方面司令官ネールの復任を希望する。
「……」
私は何度も読み返した。
「セルリアンブルー伯爵まで?」
「まあ」
エナメルが笑う。
「随分と慕われていらしたのですね」
「いや」
私は首を振った。
「そんなはずはない」
「そうでしょうか?」
「セルリアンブルー伯爵には、むしろ俺の方が助けられていた。聞いていたほど、わがままな人物でもなかった」
「……」
エナメルが少しだけ視線を逸らした。
「エナメル?」
「何でしょう?」
「何か知っているな?」
「さあ」
「……」
「どうでしょう」
「まさか」
私は彼女を見る。
「君が何かしてくれていたのか?」
エナメルは、いつものように静かに笑った。
「私は」
「……」
「坊ちゃまのお茶を淹れていただけですよ」
絶対それだけではない。
長い付き合いだ。
そのくらい分かる。
だけどエナメルは、それ以上何も言わなかった。
「坊ちゃま」
「なんだ?」
「どうなさいます?」
私は領主たちの署名を見る。
あの地方。
三年間、必死で守ってきた土地。
面倒な領主たち。
魔物。
隣国。
そして、ようやく少しずつ好きになってきた場所。
私はため息をついた。
「……戻るか」
「はい」
エナメルが嬉しそうに笑った。
「では、お荷物をまとめておきますね」
「早いな」
「もう半分ほど済んでおります」
「……俺が戻ると思っていたな?」
「さあ」
「エナメル」
「ふふふ」
やはり。
この侍女には敵いそうにない。




