わたしの恋人は声が小さい
わたしの幼馴染は声が小さい。
隣の伊藤さんちに引っ越してきた慎太君。お父さんより背が高いから電信柱だと思ったのに、わたしと同じ小学三年生というのだから大いに驚いたことを覚えている。
「お母さんなんて嫌い!!! 映画くらい子供だけで行けるのに!!!」
「 」
「え? なんて!?」
上の方から何やら音が聞こえて来たと思ったら、慎太君だった。でも何を言っているのか全然聞こえない。首を三度かしげると、今度は飴玉が降ってくる。
「 」
「……ありがと」
声が小さいし変なやつ。それが慎太に対する、私の最初の印象。
私が誰かと言い争ってるとどこからともなく現れて、静かにお菓子を手渡してくる。考えるまでもなく、慎太は私の怒声を聞いて争いを察し、それが怖いから私をなだめに来ていたんだ。あるいは慰めに来てたのかも。でも、幼い私にとってはそれは不思議で、ちょっと不気味にも思えた。
「お隣さんちの新しい子、あんたと比べて静かよね」
「わたしがうるさいのはお母さんのせいでしょ!!!」
「彩乃、近所迷惑だから静かにしなさい」
「分かってるよお父さん!!!」
あ。慎太君がこっちに来た。せっかくだし晩ご飯一緒に食べてく?
手招きすると、初めてその顔がほころんだ。なんだ。わたしと同じ、子供の顔じゃないか。
わたしの友達は声が小さい。
転校当初はものすごく背が高いから運動部に引っ張りだこだったけど、どうやらそんなに得意でもなかったらしい。六年になるころには立派な家庭科部だ。こいつは見た目の通り、細かい作業が好きなのだ。
「 」
「あ、ほんとだ!! 縫って!!!」
「 」
「また彩乃が一人大声大会してる」
「伊藤君、あんまり甘やかしちゃダメだからね」
このころになると、私たちはちょっとした名物コンビだ。大きくて目立つけど静かな慎太と、見えないほど小さいのにやたら声がでかい私。家が近く取り回しもいいのか、よく先生にもセットで扱われた。そんなに悪い気はしなかった。
「伊藤君、明日の三者面談だけど」
「 」
「は? ……プリント、書いてもらってね」
「…… 」
「先生!!! 慎太のお父さん、仕事なんだって!!!!」
「あ、そう、そうなのね。ごめんね」
声が小さい慎太は、何かに苦労して生きているようにも見えた。
「ねえ!! そういえば! なんでそんなに声小さいの!!!?」
「 ――」
何か事情があるのかと思ったら、単純に恥ずかしいだけらしい。頼み込んだら、どうにか「普通に小さい」くらいのボリュームで話してくれた。
思ったより低い、大人みたいな声で、なぜかその声はどこかうつむきがちに地面に落ちていく。
病気とかじゃないなら心配ない。でも、なんとなく、こいつのそばには誰かがいるべきだと思った。
私のクラスメイトは声が小さい。
中学校になって、私たちは少しずつ離れていく。どちらかというと、距離を取ったのは私のほうなんだと思う。慎太は声が小さいけれど、それ以外はとっても普通だ。優しくて、気が利く、男の子。だからやっとあいつの良さに気づく男子が出て、女子もたぶん出てた。
大声を上げて笑ったりはしないけど、私がいなくても笑顔でいることが増えた。だから、私の役目は終わったのだと、そう思った。
「言いたいことは、はっきり言いなさい」
「 」
でも、相変わらず慎太は大人とは相性が悪かった。
「先生!!! 慎太は先生のカツラが気になるって言ってます!!!」
「……これはウィッグだ」
ちなみにこの時慎太はそんなことは言ってない。ただ、「図書委員がやりたい」と言っていただけだ。でも、あいつも笑ってたし、否定しなかった。私たちにとって、言葉は問題じゃないんだ。
「 」
「いいよ!!!」
今の慎太は私を必要としてはいない。私も慎太がいなくても楽しい。恋人ではなくて、友達でもない。でも、なんとなく一緒にいることもある。そんな関係だった。違う高校に行くことは決まっていて、だからこれは、私たちの最後の登下校の思い出になると思った。
私は昔から声が大きかった。
必然的に話すのが好きだったし、人が好きだった。でも、普通の女の子は常日頃から大声を張り上げ続けるわけではないらしい。
私が話すと誰かが耳を塞ぐのを何度か見て、そこから少しずつ「普通」を覚えていった。悪いことではないんだろう。でも、常識を一つ積み重ねる度に、なぜか慎太のことを思い出した。
「彩乃は彼氏とか作らないの? 黙ってりゃモテるっしょ」
「黙ってなくてもモテるよ!」
「ほら、すでにうるさいし」
「……まあ、モテすぎちゃっても困るしね」
なんとなく、慎太に会いたくなった。家に帰って、久しぶりに隣の家に足を運んだ。慎太はいなかった。
そうだった。あいつは他県の高校に行ったんだった。全寮制で、なぜか野球部に入ったと、一年くらい前に聞いたきりだ。そういえば私は、慎太の連絡先すら知らない。
「 」
ぼそりとこぼした五文字を聞く人は誰もいなくて、余計にさみしい気持ちになった。
昔隣に住んでいた、声の小さな男の子のことを思い出す。
大学生になった。一人暮らしを始めた。私はみんなに溶け込んだ。たまにカラオケで大声を出す、恋話で盛り上がる、ノリの良さとフットワークの軽さに定評がある。桐ケ谷綾乃は、そんなどこにでもいる普通の女子だ。
「あいつ、 」
「彩乃さ、たまにすっごい小さな声で何か言ってるけど、癖なの?」
「うん。なんでだろうね」
忘れていくあの声を、あの顔を、どこかに残しておきたかったのかも。
今は実感がないけれど、私の子供時代はもうすぐ終わる。単位を取って、就職して、誰か恋人を見つけて、結婚して。お母さんみたいに自分の子供とケンカする。そんな光景がはっきり見える。だからこそ、私の過去にしかいないあいつのことを忘れたくなかった。
「じゃあ、探してみたら?」
そんなじめった話を聞いてくれた友達は言う。でも、無理だ。私はもうむやみに大声を出せるほど子供じゃない。何年も会っていない友達を探すのに必死になれない。それに、すれ違っても気づけないかもしれない。忘れること以上に、忘れたことを思い知らされるのが怖かった。
「 」
だから私にできるのは、こんな虚しいたった五文字の独り言。コンビニでアイスでも買って、今日は帰ろう。
「 」
「慎太じゃん!」
人の縁というのは、手繰っていくと意外なところにつながっているらしい。
アイスと肉まんを片手に私は語る、なんとなく私の今を。楽しんでいると。そっちはどうだと問いかける。
野球の推薦で大学に受かったと、面接には苦労したと、でもみんないい人だと、慎太は変わらない笑顔で私に語る。
「 」
「え?」
「 」
「だ、だよね。……うん、私も、そう思う」
笑おうとしたら、なぜか涙がこぼれてきた。慎太は変わらずいてくれたのに、私は慎太の思い出から遠く離れてしまった。裏切ったみたいで、逃げたみたいで、私はようやく、大声を出す自分のことが、思い出と同じくらい大切だったのだと思い知る。
慎太は穏やかに笑って、私に飴玉を一つ手渡す。
「……今時、飴玉って、ないでしょ」
包み紙を開ける。すっぱくて甘い、思い出の味がした。これでいい、それでもいいと言われた気がした。
「そういえば、なんで野球部入ったの? 苦労したでしょ」
「 」
「ふーん。何か言ってみてよ」
泣きべそを見られた代わりに返す意地悪。慎太は困ったように笑い、息を吸う。
「彩乃ちゃんが好きだ。また一緒にいてほしい」
四年以上頑張って鍛えたという声は、情けなく震えていた。思わず、噴き出す。
「声、小さすぎ!!!! ウケる!!!!!」
私の恋人は、声が小さい。




