第3話 かけられなかった電話
検索履歴が残っているのが、少し怖かった。
スマートフォンを開くたびに、「詐欺 相談」という文字が目に入る。
まるで、自分の失敗を画面に貼り付けられているみたいだった。
それでも由紀は、毎晩少しずつ体験談を読むようになっていた。
同じ年代の女性。
退職金を失った人。
家族に言えず、一人で抱え込んだ人。
読めば読むほど、胸は痛んだ。
けれど、不思議と前より息がしやすかった。
自分だけではなかったから。
その夜、画面の下に小さく表示された文字が目に入った。
「消費生活センター 相談窓口」
指が止まる。
相談。
その二文字が、急に現実味を帯びた。
これまでは「読む側」だった。
でもこれは、違う。
自分が何かをしなければいけない場所だ。
ページを開くと、電話番号が大きく表示された。
受付時間。
無料相談。
秘密厳守。
丁寧な説明が並んでいる。
怖い言葉はどこにも書かれていないのに、心臓だけが早くなる。
「……どう説明すればいいの」
声に出してみる。
途端に、言葉が何一つ浮かばないことに気づいた。
いつ振り込んだのか。
いくらなのか。
どうして信じたのか。
説明しようとすると、全部が「自分の愚かさ」の証明みたいに思えてしまう。
由紀はスマートフォンを置いた。
無理だ。
やっぱり無理。
こんなこと、知らない人に話せるはずがない。
――怒られたらどうしよう。
――呆れられたら。
――「それは戻りませんね」と冷たく言われたら。
想像だけで、喉が詰まる。
しばらくして、ノートを開いた。
最近は自然と手が伸びるようになっていた。
ペン先を紙に置く。
少し考えてから書く。
『電話するのが怖い』
続けて、もう一行。
『でも、このままも怖い』
書いた瞬間、自分で少し驚いた。
「怖い」が二つ並んでいる。
前に進むのも怖い。
止まったままも怖い。
どちらも同じ重さだった。
由紀はもう一度スマートフォンを手に取った。
電話番号を押す。
画面に表示される発信ボタン。
親指が震える。
……三秒。
……五秒。
押した。
呼び出し音が鳴る。
途端に心臓が跳ね上がった。
無理。
無理無理無理。
由紀は慌てて通話終了を押した。
静寂。
部屋が急に広く感じる。
手のひらは汗で濡れていた。
「……できなかった」
情けない声が漏れる。
でも、不思議だった。
昨日までなら、「やっぱり私は駄目だ」と思ったはずなのに。
今は少し違った。
画面には、通話履歴が残っている。
発信時間――一秒。
それを見つめながら、由紀は小さく息を吐いた。
「……でも、押せた」
それだけで、ほんの少しだけ胸が温かくなった。
ノートを開く。
迷わず書く。
『今日は電話ボタンを押せた』
文字は昨日より少しだけまっすぐだった。
誰にも褒められない、小さな出来事。
けれど由紀にとって、それは確かに昨日とは違う一日だった。
窓の外では、夜風がカーテンをわずかに揺らしている。
由紀はふと気づく。
ここ数日、カーテンを閉めっぱなしにしていたのに。
今日は、少しだけ開けてもいい気がした。
ほんの十センチほど隙間を作る。
外の街灯の光が、静かに部屋へ入り込んだ。
まぶしいとは思わなかった。
ただ――少し安心した。
明日、もう一度だけかけてみよう。
そう思えたことが、何よりの変化だった。




