第13話 言えなかった言葉、こぼれた言葉
夕食の準備をしながら、由紀は何度も同じことを考えていた。
味噌汁をかき混ぜる手が、少し遅い。
ブログを書き始めてから、生活は少しずつ変わった。
知らない人とやり取りをして、言葉を交わし、誰かの役に立てた実感もある。
なのに。
一番近くにいる人には、まだ何も言えていない。
――夫。
リビングからテレビの音が聞こえる。
いつもと同じ夜。
いつもと同じ時間。
けれど由紀の胸だけが落ち着かなかった。
食卓に料理を並べる。
「できたよ」
「うん」
短いやり取り。
結婚して長い年月、会話は多くないけれど、それが普通だった。
沈黙も居心地の一部だったはずなのに、今日は違う。
箸を持つ手が少し重い。
話すなら、今かもしれない。
でも、何から言えばいいのか分からない。
詐欺に遭ったこと。
お金のこと。
黙っていたこと。
全部が重すぎる。
心臓の音が耳の奥で響く。
味がよく分からないまま食事が進む。
テレビのニュースが流れる。
アナウンサーの声。
『SNSを利用した投資詐欺の被害が増加しており――』
由紀の手が止まった。
画面には注意喚起のテロップ。
思わず視線を逸らす。
「最近多いらしいな、こういうの」
夫が何気なく言った。
「騙される人、いるんだな」
悪気のない一言。
ただの感想。
でも胸がきゅっと縮む。
以前の自分なら、黙ってやり過ごしていただろう。
けれど――今日は違った。
言葉が、喉の奥まで上がってきた。
「……あのね」
自分でも驚くほど小さな声だった。
夫が顔を上げる。
「ん?」
逃げたくなる。
やっぱりやめようと思う。
でも、完全には引っ込まなかった。
「……私も、ちょっと怖いなって思って」
それだけ言った。
本当のことの、ほんの端。
沈黙。
「そりゃ怖いだろ。誰だって引っかかる可能性あるって言うしな」
夫はそう言って、また食事に戻った。
責める様子も、疑う様子もない。
ただの会話として受け止めている。
由紀は瞬きをした。
胸の奥に、静かな驚きが広がる。
――怒られないんだ。
全部を話したわけじゃない。
でも、「怖い」と言えた。
それだけで、壁に小さなひびが入った気がした。
食事を終え、食器を洗う。
水の音を聞きながら、由紀は思う。
いつか、全部話せる日が来るかもしれない。
今日じゃなくてもいい。
少しずつでいい。
ノートを開く。
今日の記録を書く。
『少しだけ話せた』
ペンを止め、考える。
そして付け足す。
『怖かったけど、大丈夫だった』
書き終えたとき、胸の奥が軽くなった。
完璧じゃない。
正直でもないかもしれない。
でも、嘘ではなかった。
由紀はノートを閉じ、静かに電気を消す。
部屋の暗さは、もう前ほど重く感じなかった。
変化はゆっくりだ。
けれど確実に、進んでいる。
その実感だけが、やさしく心に残っていた。




