第11話 画面の向こうと、同じ食卓
コメントをもらってから、由紀は何度も記事ページを開いていた。
数字は「1」のまま変わらない。
それでも十分だった。
誰か一人が読んだ。
それだけで、世界の見え方が変わる。
返信を書こうとして、指が止まる。
何を書けばいいのか分からない。
失礼にならないだろうか。
余計なことを言ってしまわないだろうか。
しばらく悩んだ末、由紀は短く打った。
『読んでくださってありがとうございます。私もまだ怖いですが、一緒に少しずつ進めたら嬉しいです』
送信。
心臓が少し速くなる。
けれど、不思議と後悔はなかった。
誰かと会話をした気がしたから。
スマートフォンを置くと、玄関の扉が開く音がした。
夫が帰宅した。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
いつも通りのやり取り。
けれど由紀の胸は少しだけ緊張していた。
詐欺のことは、まだ話していない。
話す勇気も、タイミングも分からない。
食卓に料理を並べる。
味噌汁の湯気が静かに立ち上る。
「今日、仕事どうだった?」
夫の何気ない質問。
これまでは「普通だったよ」と答えて終わりだった。
でも今日は、少し考えてから言った。
「……忙しかったけど、ちゃんとできた」
「そっか」
それだけの会話。
なのに、ほんの少しだけ嬉しかった。
自分の一日を、ちゃんと言葉にできた気がした。
食事をしながら、由紀はふと思う。
秘密を抱えていることは変わらない。
でも以前のように「全部隠している」感覚ではなくなっていた。
ノートにも書き、相談員にも話し、銀行でも説明した。
世界のどこかには、自分の出来事を知っている人がいる。
それだけで孤独の形が変わっていた。
食後、食器を洗い終える。
スマートフォンを見ると、新しい通知が届いていた。
さっきの相手から返信だった。
『返信ありがとうございます。今日、私も相談窓口に電話しました』
由紀は息を呑んだ。
画面を見つめる。
指先が少し震える。
自分の文章が、誰かの行動につながった。
信じられない気持ちだった。
嬉しい、というより――静かな驚き。
「……本当に?」
小さく呟く。
数日前まで、自分は何もできないと思っていた。
ただ騙された人間だと。
でも今。
誰かの「最初の一歩」の隣に、自分がいた。
ノートを開く。
今日のページに書く。
『誰かが電話できた』
少し考えて、付け足す。
『私の文章を読んで』
ペンを置くと、胸の奥がじんわり温かくなった。
そのとき、ふと現実が戻ってくる。
通帳。
生活費。
これからのこと。
問題は何も解決していない。
それでも。
以前のような「終わり」の感覚はなかった。
むしろ――
ここからどう生きるかを考え始めている自分がいた。
由紀は窓の外を見た。
夜の街に灯りが並んでいる。
それぞれの部屋に、それぞれの人生がある。
悩みも、失敗も、きっと誰かが抱えている。
「……私だけじゃないんだな」
そう思えたことが、何よりの変化だった。
スマートフォンを閉じ、由紀は静かに明日の準備を始めた。
特別な日ではない。
ただの明日。
でも少しだけ、楽しみに思えた。




