第10話 たった一つの反応
下書きを保存してから、一日が過ぎた。
由紀は何度もスマートフォンを開いては、記事作成画面を閉じていた。
公開ボタンは、昨日と同じ場所にある。
赤い文字。
それだけなのに、やけに重く見える。
――誰にも読まれなかったらどうしよう。
――変なことを書いたと思われたら。
そんな考えが浮かんでは消えた。
でも同時に、別の気持ちもあった。
あのブログを書いた人も、きっと同じ気持ちだったはずだ。
由紀は台所でお湯を沸かしながら思う。
ここ数日、自分はたくさん「初めて」をしてきた。
電話をかけた。
銀行へ行った。
自分のことを説明した。
どれも怖かったけれど、終わってみれば大丈夫だった。
なら――これも。
マグカップを持ったまま椅子に座る。
スマートフォンを開く。
下書きを表示。
短い文章。
読み返しても、やっぱり上手ではない。
でも嘘はなかった。
由紀は深く息を吸った。
「……えい」
小さく呟き、公開ボタンを押す。
一瞬、画面が白くなる。
そして表示された文字。
「投稿しました」
それだけだった。
世界は変わらない。
音も鳴らない。
拍手も起きない。
「……終わった?」
拍子抜けするほど静かだった。
由紀はスマートフォンを机に置いた。
急に恥ずかしさが込み上げる。
誰も読んでいないのに、誰かに見られている気がする。
「やっぱり消そうかな……」
そう思いながらも、削除はしなかった。
代わりにノートを開く。
『投稿した』
書いたあと、少し笑ってしまう。
本当に、それだけの一日だった。
夕方。
夕食の準備を終え、何気なくスマートフォンを開く。
通知が一件表示されていた。
見慣れないマーク。
心臓がどくんと鳴る。
恐る恐るタップする。
画面に表示されたのは、短い文章だった。
『読んで涙が出ました。私も今、同じ状況です』
由紀は動けなくなった。
何度も読み返す。
文字は変わらない。
誰かが読んだ。
知らない誰かが。
そして――自分の言葉で何かを感じた。
「……本当に?」
声が震える。
胸の奥がじんわり熱くなる。
特別な言葉ではない。
長い感想でもない。
たった一行。
それなのに、これまで感じたことのない重みがあった。
自分の経験が、誰かに届いた。
失敗だった出来事が、意味を持った瞬間だった。
由紀はノートを開く。
急いで書く。
『コメントをもらった』
ペンが止まらない。
続けて書く。
『誰かの役に立ったかもしれない』
文字が少し滲んだ。
涙だと気づいて、由紀は小さく笑った。
お金は戻らない。
失敗も消えない。
でも。
あの日、勇気を出して電話をかけたこと。
ノートを書き続けたこと。
投稿ボタンを押したこと。
全部が、今につながっている。
スマートフォンの画面をもう一度見る。
短いコメント。
けれどそこには、確かに人の気配があった。
由紀は静かに呟く。
「……私、まだ途中だけど」
それでも。
前に進んでいる気がした。
窓の外では、夜の灯りがやさしく街を照らしている。
由紀の世界は、大きく変わったわけではない。
ただ――少し広くなっていた。




