第1話 言えなかったこと
そのメールを削除できなかったのは、未練ではなかった。
ただ、認めたくなかっただけだ。
――あなたの資産は現在、凍結されています。
スマートフォンの画面に表示されたその文章を、佐倉由紀は何度も読み返した。意味は分かっている。分かりすぎるほど分かっている。
お金は、もう戻らない。
テーブルの上には、冷めきったインスタントコーヒー。時計は午後三時を過ぎているのに、部屋のカーテンは閉じたままだった。
五十二歳。
この年齢で、自分が詐欺に遭うなんて思ってもいなかった。
「……私が、悪い」
声に出した瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。
誰かに責められたわけではない。警察にも、家族にも、まだ何も言っていない。なのに、頭の中ではずっと同じ声が繰り返されている。
――どうして信じたの。
きっかけは、ほんの些細なものだった。
SNSの料理投稿に付いた、ひとつのコメント。
『とても丁寧な暮らしをされていますね』
それだけだった。
夫は仕事が忙しく、会話は必要最低限。子どもはいない。パート先では人間関係をこじらせないよう、いつも一歩引いていた。
だから、その言葉が少しだけ嬉しかった。
毎日「ありがとう」と言われることも、「すごいですね」と言われることもない生活の中で、自分を見つけてもらえた気がしたのだ。
相手は海外勤務の日本人投資家だと言った。
最初は世間話だけだった。天気の話、食事の話、仕事の愚痴。
返信はいつも丁寧で、急かされることもなかった。
だから警戒しなかった。
半年後、「無理にとは言いません」と送られてきた投資の話も、押しつけられた感じはなかった。
むしろ――
『由紀さんの将来が少しでも安心になるなら』
その一文が、心に刺さった。
老後資金。
その言葉を考えない日はなかったから。
最初に振り込んだのは、十万円だった。
利益が出たと表示され、実際に少額が戻ってきたとき、疑いは安心に変わった。
次は三十万。
そして、百万円。
気づいたときには、通帳の数字がほとんど消えていた。
そして昨日。
突然、連絡が途絶えた。
サイトにもログインできなくなり、サポート窓口は存在しなかった。
静かな部屋の中で、由紀は膝を抱えた。
泣きたいのに、涙が出ない。
代わりに浮かぶのは、現実的な考えばかりだった。
――夫にどう説明するの。
――老後、どうするの。
――こんな年齢で。
「……誰にも、言えない」
そう呟いた瞬間、自分が完全に一人になった気がした。
スマートフォンが震える。
パート先のグループLINEだった。
『来週のシフト変更できる方いますか?』
いつもならすぐ「大丈夫です」と返信する。頼まれると断れない性格だった。
けれど、指が動かない。
画面を見つめたまま、由紀は思った。
――私、普通の顔できるのかな。
詐欺に遭った人間が。
こんなに馬鹿なことをした人間が。
そのとき、ふと視界の端にノートが映った。
買い物メモを書くための、小さな大学ノート。
なぜか分からないまま、由紀はそれを開いた。
そして、震える手で一行だけ書いた。
「今日、お金がなくなったと分かった」
文字は歪んでいた。
けれど、それを書いた瞬間――
胸の奥に、ほんの少しだけ空気が入った気がした。
誰にも言えないなら。
せめて、自分には嘘をつかない。
それが、由紀の小さな、小さな最初の一歩だった。




