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ラブカの腹

作者: 齋藤
掲載日:2026/02/23

 3年A組。海藤紗羅(かいどうさら)

 理系。

 第一希望、東京海洋大学。

 第二希望、東海大学。

 第三希望、北里大学。


 (――担任に相談したいこと)


 特になし。


「書き終わってないやついるか? いなかったら後ろから回収しろ」


 口がデカくていつも笑ってる。


(ホテイエソみたい)


 担任は声を上げ、あまりのプリントをチラチラと振りながら逆の手を招くように動かした。

 ヒゲはないが肌は黒く焼けている。サーフィンが趣味だと言っていた気がするが海に行く前に早くワークを採点して返してくれと思う。


 良くもなく、悪くもなく。いたって普通の担任だ。


「海藤さん、それ書き終わってる?」


 もう少し若ければハリセンボンみたいな顔だったのかもしれない。そんなどうでもいいことを考えていると声をかけられた。

 机の横に立つ小柄な女子生徒は手元のプリントを指さした。ぼうっとしたせいで気がつかなかったが、自分より後ろの生徒のプリントはすでに回収し終わっているらしい。


「ああ、ごめん。ありがとう」


 隠すわけではないのだが、皆を真似てプリントを裏返す。彼女に渡すと、にこりと微笑まれた。


「はーい、ありがと」


 こうして教室に居るときも、海藤の意識は海の中にいる。

 後ろの席の雑談も、外から聞こえるサイレンも、ガタリと椅子を引く音も、どこか遠くで蚊の鳴く声のように小さく響くだけだ。


 ふかく、ふかく。


(――どこまで潜れば水圧で体が潰れてしまうのだろう)


 左手の薬指。結婚指輪のように刻まれた傷跡をなぞる。

 それは幼いとき深海で負った『あり得ない傷』だった。

 あの日の出来事を夢ではないと証明してくれるたった一つの事実。


『ラブカに食べられたい』


 あの日から、海藤は水圧で心臓を動かしている。






 幼いとき、たしか小学校に入学するよりも前のこと。


「ねえ、まま! このおさかなさんは?」


「これはね、なんだろうね。すっごく大きな子だねえ」


「こっちのすいそうは? まっくらでなにもみえないね」


「ほら、上の方。小さいクラゲが泳いでる」


「ああほんとだ! ねえまま、わたしとくらげさん、どっちがおおきい?」


 家族で水族館に行ったことがある。地元から足を伸ばして訪れたのはアクアマリンふくしま。

 幼い私の目には全てが大きく見えた。

 ひときわ目立つ水槽の中で悠々と泳いでいたのは一匹のラブカだった。その名を知ったのは、家に帰って図鑑を開いたときだったと思う。


 オーロラのように乱反射して黒光りする鱗。この世の生き物とは思えない歯。ちらりと覗くエラの赤色。

 全てが恐ろしく、美しい。


 小学生にも満たないような少女が見るには少々グロテスクなビジュアルに私は惹かれた。不思議な引力が働いていたとでも言おうか。


「きれいだね、このおさかなさん」


 無邪気に笑う私の姿に母は頬を引きつらせていた。しかし当時の私は気づかずに水槽に張り付いた。


「生きた化石、だって。ずっとずっと昔からいる魚なんだね」


「すごくおおきいね。あたしよりもおおきいよ」


「たしかにな。さーちゃんが両手を伸ばしてもこの魚のほうが大きいよ」


 当時の私はこの水槽をひどく気に入った。

 どれくらいの時間、そこに立っていたかは分からない。子供の体内時計だ。せいぜい数分か、数十分か。はたまた数時間か。

 母親がもう帰ろうかと声をかけても水槽に張り付いたままだった。


 不気味な顔と柔らかそうな肌が魅力的だったのだ。



 あの日、あの水槽で。

 私は不思議な体験をすることになった。


 気がつけば、私は水槽の中にいたのだ。ラブカのための水槽は小さい私を軽々と飲み込んだ。

 あり得ない。そう、あり得ないのだ。


 触れ合いコーナーのような背の低い水槽ならまだわかるが、ラブカの水槽はそんなかわいいものではなかった。

 そこは、はめ殺しのガラスで囲まれていた。そこら辺のガラスとは比にならないくらい頑丈なガラスだ。

 水槽の中に入れるとしたらバックヤードから水槽の真上にいかない限り無理だろう。


 けれど私はたしかに水槽の中にいた。

 ラブカと目を合わせ、ひとことふたこと言葉を交わす。

 何を話したのかは覚えていないし、どうやって話したのかも分からない。私が思わず笑いをこぼし、気泡がぶくぶくと視界を濁したその瞬間。


「ゔっ」


 ラブカに噛みつかれた。

 一度目は左手を。逃げるように腕を振り回すがラブカは離れない。より歯がめり込むだけだった。

 二度目は首筋を。自分の体より大きな黒が、ここは自分の領地だと言わんばかりにぐりと私の体を巻きつく。がぶりと首に噛みついて離れなかった。


 反射的に身を捩る。声を上げようとするが水中では意味をなさない。

 だんだんと酸素が足りなくなり、頭がぼうとしていく。


 そのとき、私の指先はラブカの肌に触れた。

 柔らかそうと思ったそれは、案外ざらついていた。

 混乱が過ぎ去ったとき、真っ先に湧いた感情は恐怖でも不安でもなく美しいという感動だった。

 


 そのあと気を失った私は水族館のお姉さんによって水中から引き上げられ、病院に行くことになったのだが記憶はおぼろげだ。

 母親にこの日のことを聞いてみても、ただ水族館に行っただけで病院に運ばれたなんてことはないという。


 指と首に残る傷だけが、夢ではなかったと証明している。

 ラブカの目を見たのも、ラブカに触れたのも、あの日が最初で最後だった。






 その日を境に私は変わった。趣味も性格も何もかもだ。

 それは中身が入れ替わってしまったのではないかと思えるほどだった。


 寝ても覚めても頭に浮かぶのはあの魚のことだけ。最初はラブカについて、そしてそれを囲む生物のことを調べるうちに魚全般が好きになった。


 図鑑では飽き足らず、水族館の年間パスポートを買い、暇さえあれば足を運んだ。少ないお小遣いは交通費と魚関連の書籍に溶かした。


 ラブカたち深海生物の生きる世界をこの目で見たかったのだ。研究機関へと興味が向くのも自然なことだった。

 JAMSTECに就職したい、と両親に告げたとき驚いたような納得したような顔をされた。


 歳を重ねるごとに欲望だけが深く深くへ潜っていった。


 その望みは一貫していた。


『ラブカに食べられたい。あわよくば、魚になってラブカに捕食されたい』


 それが除け者扱いの自分にとっての救済なのか、水中で息ができない現実からの逃避なのか海藤自身にも分からなかった。


 元来の性質なのか、あの日のせいか。

 ぼんやりとしていた破滅衝動は徐々に輪郭を持ち始めた。海藤の場合、その破滅の対象がたまたまラブカだった、というだけなのだ。


 だれしもあるだろう。失恋して髪を切ろうとしたり、大会で負けてラケットを曲げたり。そういう普通のことなのだ。






「気をつけー、礼」


 先生は結局ワークを返してはくれなかった。

 何事もなくホームルームは終わり、部活動に所属していない海藤は真っ直ぐ帰路についた。学校の最寄り駅まで徒歩八分。急ぎ足でいけば十六時前には家に帰れるだろう。


 そうやって、地面とにらめっこするように歩いていた。

 ただ歩く。足を動かす。次第に意識は現実から切り離され、あの日の水槽へと潜っていく。

 電柱の周りをぐるぐるとラブカが泳いで、自販機の下に潜り込む。誘惑するように尾びれがうねる。


「ねえ、キミにはなにが見えてるの?私にも見せ――」


 そのラブカに近づこうとしたとき、世界が暗転した。バランスを崩して尻もちをついた――のではなかった。

 文字通り暗転したのだ。闇。闇。ただひたすらに黒。


 不思議なこともあるものだなとろくに働かない脳をコーヒーの香りが刺激した。 

 真っ暗な中に小さなカウンターだけがある。そんな世界が広がっていた。

 突如として現れたそれのお陰で自身が目を閉じていたという事実に気がついた。


 どんよりとした空気が静かに波を打つ。

 海藤が口を開くより先に、カウンターに立っていた女性がつぶやく。


「ここは強い欲望を持つ人にだけ訪れる一度きりの休息です」


 マスターとでも言おうか。長い髪は緑のシュシュでゆるく束ねている。大人しい印象を受けたのは丁寧に巻かれた長い前髪のせいだろう。


「ここは、どこ?」


 なぜだか焦りはしなかった。

 ついに気がおかしくなってしまったのか、他人事のように思った。


「ここは、そうですね。夢の中とでもいいましょうか。アナタだけのカフェです。」


「……カフェ、か。じゃあ私かためのプリンが食べたいな」


「あいにく、メニューはコーヒーだけなのです」


「ずいぶん強気だね。私コーヒーは好きじゃないんだけど。まあこれもなにかの縁だ。一杯いただける?」


「もちろんです。ここのコーヒーは少し特殊でして」


 女は豆をひきながら話を続けた。


「豆のように見えるコレには、願いが詰まっています。願いを挽いて、コーヒーにするのです」


「まるで、バクみたいだ」


「バクは悪夢を食べてくれますが、これは違う。コーヒーを飲めばアナタの夢が叶うのです」


 女の淡々とした言い方ははたから見れば可笑しい人だった。

 しかし、海藤もまた可笑しいので軽い調子で言葉を返す。


「……それこそまさに夢みたいね。いくら払えばいいの?」


「夢を叶える対価にアナタの屈辱をいただきます。それがお代です」


 そんなうまい話あってたまるかと思うが、同時に好奇心も湧いてしまう。

 そんなコーヒー、本当にあるのなら角砂糖で甘くして飲んでしまいたい。


「面白いね。はやく飲ませてよ、そのコーヒー」


「……アナタの夢は? 願いはなんですか?」


「ラブカに食べられること。あの日、噛みつかれたみたいに喉を掻っ切ってほしいの」


 海藤には夢があった。


「そして、そのまま食べられたい。私はラブカの血肉となりたい」


 破滅衝動は際限なく、好奇心は湧き続けている。

 この願いのためだけに皆が憧れる青春を投げ売って、六畳の自室で図鑑を抱えて眠っているのだ。


「あの日のこと。アナタは、ラブカに『選ばれた』と思っているのですか?」


 すべてを見透かすようなその言い方が引っかかる。


「知ってるの? 昔のこと」


「勿論ですよ。アナタをここに招いたのはワタクシですから」


 女は問う。それはまるで試験のようだった。

 海藤にコーヒーを飲む資格はあるか?虎視眈々とそれを見極めているように感じた。


「アナタが水槽に入ったのは奇跡でも幻でもない」


「どういうこと?」


「あの日の出来事を知っているのはたったひとり。アナタ自身だけです」


 それは、海藤が狂い始めた発端だ。それを蹴り飛ばすように女は続ける。


「ラブカがアナタを招いたのではなく、アナタが心にラブカを飼っていただけで」


 それは根本から海藤の人生をドブに捨てる言葉だった。


「本当は水槽も噛み跡もラブカも、全部全部、アナタが壊れていただけ」


「……」


「ラブカは人食いザメではありません。大きい個体なら二メートルほどに育ちますが、それでもアナタほどの人間を丸呑みすることはできないでしょう」


「……いいよ。全部アタシの勘違いでもいいんだよ」


 海藤は狂っていた。


「勘違いでも嘘でも、ラブカに食べられたいの。そのためだったら、アンタのいう屈辱も受け入れるよ」


 女は狂っていた。


「それでは、これを」


 女はマグカップを差し出す。海藤はカウンターに置かれたガラスから角砂糖を三つ掴んで混ぜる。


「また、お会いできるといいですね」


「……さようなら」


 海藤は恐れていた。


 ごくりとコーヒーを飲み込む。苦みが喉に張り付いた。


 海藤は嫉妬していた。


 潮の匂いがした。

 視界がぐにゃりと歪む。世界が溶けていく。


「さようなら、※※※※※※」


 水圧が身体を抱きしめる。

 暗闇の中に響くのは鼓動だけだ。


(ああ、これでいい。これがいいんだ)






 次の瞬間、私は上も下も無い常闇の中におりました。

 自分が目を開けているのかすらも分からず、微かな光を求めて首をぐるりと動かしてみましたがただ暗いだけでした。そもそも自分の体がうまく動いているのかも分かりません。


 ここはどこだろうと考えてみても見当がつかないので考えることはすぐに辞めてしまいました。

 ただぼんやりと、


「ここはラブカの腹の中だ」


 というふうに思えました。

 きっと、深海を泳ぐラブカに丸呑みにされたのだろう、と。

 ラブカは体の大きな生き物ですから、私くらいの人間なら頭から尾びれまで一心同体になれてしまうでしょう。


 そう思えた途端、私はひどく安心しました。

 ここが腹の中ならば、じきに私は溶けていくでしょう。文字通り、ラブカの血となり肉となるのです。

 指先から腹の底まで全部溶かされてしまう。それがどんなに幸せなことか。


「ああ、この温かさを感じたかった。このための人生だった」


 なんとも不思議な出来事でした。

 この先、自分がどうなってしまったのかは記憶にありません。ただ、はっきりと覚えていることがございます。


「海藤紗羅は、人生で一番、生きていた」


 私は、ラブカの腹の中でしか息ができない愚か者でした。

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