第3話
18時15分。
「お疲れさまでーす」
「……お疲れさまです」
定時で上がる人々を見送る。
19時25分。
「お先に失礼しまーす」
「……お疲れさまです」
最後のひとりが帰り、オフィスには私と冴房のふたりだけが残った。
チラリと目だけを動かして確認すると、いつも隙を見て話しかけてくる彼女は、至って真面目に画面と向き合っている。
必要なメモでも書き出していたんだろう。ボールペンをトントンカチカチ顎に当てては、むっとした口で悩ましく眉をひそめていた。
かわいい横顔の、艷やかな唇に視線が行く。
こまめにリップでも塗っているんだろう、こんな時間になってもぷるんとしていて柔らかそうなそれの感触を、私は知っている。
19時28分。
「……冴房」
キーボードから手を離し、椅子をくるりと回した。
私の行動と声が合図だったかのように、パッとペンを置いてこちらを向いた冴房は、にっこりと微笑んだ。
「なになに。珍しいじゃん、水瀬の方から話しかけてくれるなんて」
「……話しかけるでしょ、そりゃ」
「なんで?」
分かっている答えを望み、あえて知らないフリで聞いてくる相手には、気まずい苦笑で返す。
「言わせたがり」
「だってー……そのために待ってたんだから」
相手も楽しみにしてくれていたんだろう。隠しきれていない笑顔には、照れて視線を逃した。椅子ごと向きを変えた冴房の膝が、私の膝に当たる。
軽くぶつかった足の上、積極的な指先に捕まった。
私ばかりが動揺して俯いていく一方で、冴房は顔を窺うようにしながらも、待つ。何もせずとも口の端は、嬉しそうに上がっていた。
「……冴房」
「なーに」
チラリ、と優しい声を奏でた唇を視界に捉える。
あれから、何度か。人がいなくなるたび恒例と化した触れ合いに、期待感で早くも高まる。しかし、自分からはなかなか言い出せない。
だって、今日は――
「キス、しないんですか。水瀬さん」
見透かした指が、ツンと肩を刺してくる。焦らさないで、という文句も少し織り交ぜて。
「そ、それは……するけど」
「けど?」
「今日は、その」
真の目的を察した冴房が、切なく目を細めて微笑んだ。
恥ずかしい。でも、口を開く。
「ドラマ、見るんでしょ」
――先日、約束をした。
『次は、冴房の家で』
あれから、数日。明日は休日。家に行くならもってこいの夜で、本人の確認を取る前からそのままお泊まりなんかも考えてる。
服も、持ってきた。鞄の中、期待の証拠がぱんぱんに膨らんで主人の帰りを待っている。
私の昂ぶりを知ってか知らずか、「んー……」と冴房はどこか呑気に喉を鳴らした。何か事情でもあるのか、困り果て眉間を寄せる。
「それ、なんだけどー……」
「うん」
「私の部屋、汚くて」
「だから?」
「ちょっと……人を、上げられる状態にないといいますか。ゴミ屋敷ならぬ服屋敷といいますか」
「……掃除くらいしときなさいよ」
「むり。やりたくても、途中で疲れて寝ちゃうんだもんー…」
項垂れたいのは、私の方だ。この日のために、連日の過酷な業務にも奥歯を噛み締めてきたっていうのに。
今日という日くらいは、残業だって、したくなかった。定時で帰るつもりだった。雪崩みたいな、仕事が降り積もらなければ。
そして本当なら今頃、冴房の家に行って、それで――
19時39分。
「そんな、落ち込まないで……?」
「……だって」
「私の家じゃなくても、ここでもできるんだし」
暗く淀んでいた気持ちも、小悪魔な仕草に魅了され、まんまと立ち直る。我ながら、単純で泣けてくる。
輪郭をなぞりながら近付いてきた唇を受け入れるため、瞼を下ろした。
「っ……!」
しかし、それすらカタンとどこからか鳴った物音によって、遮られる。ふたりして、肝が冷える思いで息を潜めた。
ドキリ、と。背筋が凍る。
真っ先に扉を確認した後で周囲を見るも、人の気配はない。だから続けようと思えばできたが、さすがに怖くなって躊躇した。
ここは職場であると自分達を諌めて、浮ついた気持ちを切り替えた。
19時45分。
「帰ろ、水瀬」
「……うん」
仕事を終わらせ、退社。
途中、通りかかった給湯室で“キス”の二文字が過ぎるものの、我慢。思えば、あそこで初めてを済ませてからというもの、冴房との距離感が一気に縮まった気がする。
告白とかは、ない。そもそも女と付き合うとかが、選択肢になかったから。
なのに、キスが当たり前になってきている矛盾だらけの夜。
20時10分。
電車に乗り込む。いつもより早い時間だからか、残念ながら椅子取りゲームには大敗した。
程よい人の群れに揉まれる。なんとなく、対面する形で立った。
「……なんか、変な感じ」
「なにが」
「帰りの電車に、水瀬がいるの。……この時間に、まったく違う車両に乗るのも」
ドアの隅、背をもたれるようにして追い込まれた冴房を見下ろしつつ、揺れに負けないようそばにあった手すりを掴む。
言われてみれば、確かに。見慣れた車内の景色に、彼女の存在があるのは不思議な気分だ。
「同僚に、お持ち帰りされちゃった」
無意識なのか、意識的にやってるのか。はにかんで、コートの袖にかわいい体重がかかる。小さな手を握り返そうとして、人目を気にして一旦は耐えた。
「……別に、映画見るだけでしょ」
冷たく、語弊ある言い方をするなと暗に含ませれば、「そうだった」なんてわざとらしく肩を竦める。
疲れたことを言い訳に、半ば寄りかかる形で距離を詰めた。腰を浅く抱き寄せると身を縮め、動揺したのが手に取るように伝わる。
――キスしたい。
いったいいつから、同性相手なのにこんなにも触れたいと願うようになってしまったのか。
淡く香る髪の隙間にさり気なく鼻先をうずめながら、耐え兼ねた吐息を吐き出す。こめかみの辺りで私がスリスリしたからだろう、冴房は耳まで赤くしていた。
「ちょっと……人前」
「……ごめんなさい」
怒られてしまった。おとなしく、背筋を伸ばす。
そこから先は、会話もなく。
20時49分。
冴房を部屋に招いた。初めて来た感想は「水瀬っぽい」だった。少し緊張した様子で、ソワソワしながら辺りを見回していた。
21時36分。
冷凍の夕食と軽くシャワーを済ませ、ワンルームのベッドで、壁に寄りかかる。
横並びに座って、缶ビール片手にドラマ鑑賞を始めた。甘いものが好きな彼女は缶チューハイを手に、俯いている。ほんのり頬が赤いのは、気のせいじゃない。
21時58分。
例の、ベッドシーンが流れる。
途端に隣で、もぞもぞ落ち着きなく動く。恥ずかしさをごまかすためだろう、膝にかけていた毛布を奪われた。
返してもらうつもりで横を見たら、濡れた瞳と思惑が絡んだ。
甘い、嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが鼻腔をついた。
心音が、鼓膜が痛く震えた。
22時。
キスをした。
飲み残された缶たちは、テーブルへ。人のいない空間で、生活感に見守られながら高い温度を重ねた。
22時3分。
「……やっぱり、お持ち帰り目的だったじゃん」
痛いところを突かれ、照れ笑う。
「そうね」
図星は素直に認めて、残業時間で奪われた分の幸福を取り返そうと、唇を這わせた。
22時8分。
ひと通り味わって落ち着き、互いに何をするでもなく抱き締め合う。
相手の体の上、自分よりもほんの少し小柄な体温を包みながら、微睡みに身を任せた。長く深いキスをするはずが、柔らかな感触によって疲労を解されたせいか眠い。
「……寝ちゃうの?」
頭上から、寂しげな声がする。
「明日はお休みだよ、水瀬」
時間はまだまだ、たっぷりあると。
甘えたおねだりに、気だるい頭を持ち上げて首を伸ばした。
女性らしい弾力に、触れる。
溶ける錯覚にさえ陥って、どっちの体温なのか曖昧になってきた頃、そっと舌先を差し出した。
22時15分。
「あつい……」
冬の寒さも逃げ出していく熱さによって、肌の一部が雪解けに晒された彼女に、口に出さないまでも“脱がせて”とお願いされた。
白く、肉付きのいい肌の一部が、露出する。テレビからの光源で照らされた姿は、やけに艶を帯びていた。
女同士なんて、考えたこともなかったのに。
やり方も知らなくとも、体は勝手に動いた。まるで、本能に予め仕組まれていたような、愛し方に男女の差はないと知っていたかのような滑らかさで。
手を繋ぐ。指先が滑る。
22時22分。
気が付けば仕事を忘れ、プライベートの時間に没頭していた。
残業を終えた、束の間の癒やしを求めて。
私達の夜は沈む。
ベッドシーツに、深く、濃く。無数のシワを残した。




