第2話
17時52分。
「冴房さん、ごめーん!これお願い」
定時間際に増えた、面倒なタスクが1件。
ため息を返すわけにもいかず愛想笑いで耐え抜いたものの、今日も今日とて残業確定。渡してきた女は、18時ぴったりに平気な顔で退勤していった。くそぅ。
頭の中に降り積もる、愚痴の数々。雪よりも冷たい心情で、光の入らない死んだ目をしてパソコンとにらめっこすること、数時間。
19時45分。
「――昨日、ドラマ見てたら寝るの遅くなっちゃって」
人がいなくなった頃、他愛もない会話を隣の席の水瀬と始めた。
いつも、話しかけるのは私から。日中はあまり人と話さない彼女だけど、残業中は息抜きが欲しくなるのか応じてくれる。
「なんのドラマ?」
「分かんないけど、めっちゃ不倫してた。……最近、ドロドロしてるの多くない?」
「見ないから分からない」
返事はだいたいさっぱりしたもので、素っ気ないと感じることもままある。でも、話し相手になってくれるだけでありがたいから、細かいことは気にしない。
「ああいうの見てて思う。付き合うなら絶対、浮気しない人がいい」
「……分かる」
「てか、深夜ドラマ……ベッドシーンわりとリアルで。普通にえっちなんだけど。あれ放送していいのかな…ってレベル」
「そうなの?」
「けっこう激しいよ。見ててソワソワしちゃった」
昨晩の映像を思い出して、ここでもまた羞恥に頬を染める。どうして、他人のを見てるだけで恥ずかしくなっちゃうんだろう。
熱くなった頬を包んでいたら、水瀬は浅く微笑みながら缶コーヒーに手をつけた。相変わらずのブラックコーヒー。
「よく飲めるね、そんな苦いの」
「カフェインないと起きてられない」
「わお。社畜だ」
「あなたもでしょ」
トン、と。
短く整えられた爪の先が、私のデスクに置かれていたカフェオレの缶を弱く叩いた。
「これは、カフェイン目的じゃないです〜。甘くておいしいから飲んでるだけです〜」
「まったく。そんなのばっか飲んでるから、ぽ」
「ぽ?」
「……そういえば、もう冬なのね」
あからさまに話題をそらしやがった。今絶対、“ぽっちゃり”って言おうとしたよね、水瀬。
恨めしい視線を送るもはぐらかされ、しぶしぶ話を合わせることに。なんでもない顔はするけど、地味に傷付くんだからね、そういうの。と、根に持ちながら。
「秋って、一瞬すぎない?」
「ね」
合わせたのに、会話は適当な相槌によって終了。
黙々とパソコンをいじりだしたから、不服に眉を歪ませつつも、私も机に向き直った。
20時59分。
「おなかすいたー……」
空腹に負け、項垂れる。
「……甘いの、食べる?」
机の上に顔を沈めていたら、横から魅惑の提案をされた。彼女の手には、ひとくちサイズのチョコレート菓子。
思わず喉が動くも、さっきの“ぽっちゃり”未遂発言が心に刺さって、首を横に振る。
「太るから、いい。我慢する」
「ここで変に我慢して、帰ってから冷凍パスタ2個食いとかする方が太るわよ」
「……なんで知ってんの」
「この間、本人から聞きました」
「言いました」
人の発言を、それも忘れてほしいことに限っていちいち覚えている嫌味な女を、横目で睨む。吹き出すような、困った苦笑が返ってきた。
砕けて笑うの、珍し。
なんとなく、得した気分。彼女は、時として小さな幸福をもたらしてくれるから、つらくて眠いだけの残業も乗り越えられる。
「ほら。意地張らないで、食べて」
「……食べさせて」
なんちゃって。
自分で言っといて恥ずかしくなって、顎は机につけたまま、そっぽを向く。
顔も見れない私の横で、水瀬はペリペリ包装紙を剥がし、「こっち向いて」と声をかけてくれた。
おそるおそる振り向けば、唇の間に優しく押し込まれた。溶ける甘さとカカオの風味が、口の中いっぱいに広がる。
「……おいしい」
「そう。よかった」
動揺の欠片もない平静さで仕事を再開させた水瀬に、視線を送り続けること、数分。
21時16分。
「キスしたい」
ぽつりと溢した本音は、ほんの数秒だけ彼女の手を止めた。けど、すぐに忙しなくタイピングに集中してしまう。
――先日、私は同僚とキスをした。
深夜の、給湯室で。
寂しくて、仕方なくて。もう誰でもいいからってヤケクソに応えてくれた水瀬は、何を考えてるのやら。翌日からは何食わぬ顔で、私の横で仕事をしている。
相手はすっかり忘れちゃってるかもだけど、こっちはそんな簡単に割り切れない。あの日から、何もないっていうのに残業でふたりきりになると意識してばっかりで。
胸の奥が、ドクドクする。
想像以上に甘く優しかった、唇の感触が忘れられない。
だから呟いてみたものの、失敗。アホなこと言ってないで仕事しろと暗に指摘された気分で、姿勢を正した。これ終わらせたら、帰ろ。
21時35分。
「……お疲れさま」
先にキリがいいところまで進めてしまった水瀬が、立ち上がる。
「おつかれ〜」
もう帰っちゃうんだ。さびしい。
って、引き止めたくなっちゃうけど、我慢。ただでさえこんな時間まで会社にいてしんどいのに、私のわがままで――
「冴房も、終わらせて」
そっ、と。
手の甲に添えられた指先が、あつくて。
「キス、するんでしょ」
驚いて顔を上げたら、いつも通りクールなはずの瞳が、情欲を宿して切なく潤んでいた。
心臓に、悪い。
脈絡もなく、来るから。
だって、さっき……無視したのに。キスの予感なんて、微塵も。それどころか、嫌がられたって勘違いするくらいの反応で。
なのに。
「そのために、終わらせたんだから」
心の内で暴れていた熱情を吐露されて、溶かされる。
性急な指が顎の下に滑り込み、顔を上げさせられたと思ったら、こんな時でも静かな表情が近付いて咄嗟に目を閉じた。
ここじゃ、だめ。
とか。
止めなきゃいけないはずの手は、唇が触れた瞬間に絆されて、裾を掴む。柔らかな弾力と女性らしいローズの香りに包まれて、思考はぼやけていった。
21時42分。
「……ごめん」
長く深いキスを終え、真っ先に水瀬の口から出たのは謝罪で。
「給湯室まで、我慢できなかった」
肩に額をつけて吐息した彼女は、肝心なことを忘れている。
「給湯室でも、だめだよ……」
「……っふ。それはそう」
「てか、オフィスでするのやばいって。見られたらどうするの」
「誰もいないでしょ。大丈夫よ」
「警備員さんとか来るじゃん。たまに」
「あ。」
案外、詰めが甘い。
確かにと、自分の失態に眉を垂らして微笑んだ水瀬の、赤くなった頬を触る。
「そんなに、したかったの?」
「……うん」
むにっとつまみながら冗談のつもりで聞いたら、素直に頷かれてたじろいだ。彼女はけっこう、欲に弱いのかも。
だから、疲れているというのにこんなふざけた同僚にも、甘えた時間にも付き合ってくれるんだろう。
おかげで、以前より楽しみになってしまった残業終わり。
「……次は、冴房の家で」
映画を見ながら。
耳元で囁かれたお誘いに、またひとつ温度を上げた。




