プロローグ③
深夜。
昼間から続く大雪は夜にはやがて猛吹雪となり、家全体をギシギシと揺らすほどの勢いになった。
隙間風も最早雪そのものを運ぶくらいで、あまりの寒さと壁の軋む音で目を覚ます。
尋常でない天候に一抹の不安が頭をよぎる。
『女神さまの呪い』という母さんの言葉が、何故か嫌な予感を駆り立てる。
確かに、年々雪が降り積もる季節は長くなり、猛吹雪の日も増えていた。
去年もこんな吹雪で何人も町の人が凍死した。
いや……今日の吹雪はもっとひどいかも……。
急いで起き上がり、部屋の真ん中の暖炉を確認する。
二階建ての我が家は、一階と二階各部屋を暖めるように円柱の暖炉が家の真ん中を突き抜けてできている。
この暖炉が消えてしまえばたちまち家の中は極寒の世界と早変わりしてしまう。
幸い暖炉の火は消えていないが、今にも消えてしまいそうなほど弱々しいものになっている。煙突部分は当然外に通じているので、そこから雪と風が吹き入ってきていて暖炉の機能は無いに等しかった。
急いで薪をくべて火力を上げる。それにしたって、なんで今日はこんなにも激しく天気が荒れているのだろうか。
二階から母さんとテオが起きてくる様子は今のところない。まあ、そのまま寝てくれているならその方が安心ではある。
少しず火の大きくなってきた暖炉の前で手を差し出し冷えた両手を暖める。
相変わらず吹雪の音はうるさく、屋根でも飛んでしまうのではないかと恐怖するほどだ。
窓に打ち付ける雪はもはや昼間のふわふわな状態とは一線を画し、石のようにバチバチと音を立ててガラス戸を揺らす。
次の瞬間、後ろから耳を覆いたくなるような衝撃音が響いた。
間違いない、窓ガラスが割れた。
途端に吹き込む凍てつく空気とが全身をひどく震わせる。
もはや暖炉の前だからといって温かみも感じない。
さてどうやって割れたガラスを塞ごうかと考えていると、
……?
誰か
後ろに
……立っている?
まさか、こんな猛吹雪の日に泥棒…?いや、そんなわけが
「やあ」
思考を遮るように、男とも女ともわからない中性的な声が聞こえてくる。
……振り向けない。
寒さのせいでがちがちに身体が固まって動かない、のもあるが、これは単純に恐怖。
「君がテンペスト君だね」
声の主はなぜか俺の本名を知っている。確かに、俺が住むこの町の人なら皆知っているだろうが、だがこんな声の人を俺は知らない。
「君を探していたんだ。ずっとね」
ソレは俺の戸惑いなどお構いなしに話を続ける。
「この国の魔法は立派だね。未成年の子どもは見つけにくいようになっている。さすがだ」
言葉の意味は分かるが理解できない羅列の言葉を話している。なんなんだ”マホウ”って。
「やっと君は15歳の成人を迎えた。おめでとう、そして残念だが今日で家族にお別れを告げなくちゃならない」
声の主の足音がする。こちらへ近づいてくる。
それ以上に、不穏な事を言っていなかったか。”お別れを告げる”…? 一体誰に? 何故?
恐怖と動揺と寒さで呼吸が激しくなる。
小さく火を灯す暖炉が僅かに足元のみを照らす。
「あ~っといけない! このままじゃ部屋の中がすごく寒くなっちゃうね」
声の主は脚を止めたその時、外から吹き差していた風雪が止んだ。
かと思えば、この暴風雪の日に割れた窓ガラスから月光が差し込み、室内が照らされる。
風が止み、暖炉は息を吹き返すように火がだんだんと大きくなる。
震えが少し収まる。呼吸が安定してくる。暖炉の火ではない、気温そのものの温かみを急に感じる。
怪訝に思った。
天候が変わった……?
「『天候を操る女神さま』? 女神じゃなくて、そういうことができる人が昔いたって話なら歴史の授業で習ったよ」
昼間、母さんと話していた自分の言葉を思い出す。
そういうことができる人が、昔いた。
……戦争で亡くなったと、習った。
偶然、暴風雪が治まるだろうか。
雲が晴れて、月光が差し込むだろうか。
それ以上に、急にここまで暖かくなるものだろうか。
突拍子もない自分のこの思考と、今現実で起きている事態との整合性が取れない。
「ごめんね、突然こんな形で来てしまって。でも、もう時間がないんだ」
声の主は再び歩みを進め、すぐ後ろまで来ている。
声の主がそう呟いた直後、階段をドタドタと降りてくる足音が聞こえてきた。きっと、母さんとテオだ。
「テント!? すごい音したけど大丈夫!?」
母さんはかなり慌てた様子の声だ。
階段は目の前の円柱の暖炉の向こう側にある。
暖炉のせいで母さんの姿を見ることができない。
「お母さん、ですね。急で申し訳ないけれど、彼はお連れします」
背後の声の主が言う。
「…誰ッ!?」
テオの声だ。俺ではない知らない誰かの声に対して激しい怒りを込める声色のテオ。小さいころ、俺が悪い大人に言いがかりをつけられて泣きそうだった時に守ってくれたテオの声だ……。
「……どこのどなたか存じませんが、その子はうちの子どもです」
母さんの声はテオと対照的で冷静に、しかし怒りを抑えるような声色だ。
「今日まで大切に育ててきた大事な子どもです。お願いですから、その手を下ろしてください」
母さんがそう言って、こちらへ歩いてきている。
月光の影で、背後の人物が俺の左肩に腕を伸ばしているのに気が付いた。
何故か、俺は動けないままでいる。
後ろの手を振り払って、数メートル先の母さんたちのもとへ走るのにそう時間は必要ないのは明白だ。
なのに、どういう訳か両脚は動かず、指先すら動かすことができない。
「お母さんの言う事はもっともです。ですが彼はボクにとっても、とても必要な存在なんです。本当に、ごめんなさい」
背後の声の主が俺の左肩に手を置いた。もう真後ろにいるのだ。
「ごめんね、テンペスト君。少々手荒だけど、君のお姉さん、強そうだからこうするしかないんだ」
背後の人物に急に耳元で囁かれた。驚いたのもそうだが、何を言っているんだこいつはと思っていると暖炉越しから猛々しいテオの声が激しい足音と共に室内に響いた。
「テントから手を離せって言ってんだろうがッッ!!」
聞いたこともない姉の怒号に驚愕する。
「先に謝っておきます。多少寒いですが、すぐ暖かくなります。ご安心を」
背後の声の主がそう言った次の瞬間、割れた窓ガラスから突如として冷たい風が激しく吹き入りこんできた。
あまりの風の強さで目を開けられない。
「テント! どこ!?」
テオの声。それに対してすぐ返事をしたいのに口が開かない。声を出せない。
心臓がバクバク音を立てている。このままじゃまずい、すぐに左肩に置かれた手をどかさないと、走らないと。
いますぐに逃げなきゃいけない。
そう本能が告げている。
「急に来たボクも悪かったけど、大丈夫。危害を加えるつもりはないよ」
激しい風が室内の家具をめちゃくちゃにしているのだろう。食器は割れ、家具は倒れ、テオは叫びながら俺を探し、騒然とした部屋になっていることが予想できる。
なのになぜか、背後の人物の声はハッキリと耳に届く。
「ご家族の方々、責任をもって彼をお返しに参ります。それまで、どうかボクにお預けください」
両肩に手を置かれた。まずい、このままじゃ連れていかれる。
「都合あって名乗れぬこと、深く陳謝します。無理を承知で、ボクを信じてください」
抗えない。抜け出したいのに、動けない。
途端、息ができなくなった。
全身の力が抜ける。両の脚に力が入らずその場に倒れそうになる。
暴風のせい? いや、でもさっきまではできていたのに……。
「ちょっと君にも眠っていてもらうね、ごめんよ」
もはや前後もわからず響く言葉が頭に入る。
開かない瞳をこじ開けて、霞んでまともに見えない景色を目に入れる。
ほぼ何も見えないけれども、けど確かに目線の先には母さんがいる。
表情は見えない。朧げに、わずかに体全体の輪郭をとらえるだけだ。
ああ、ごめんなさい母さん……。
叫ぶテオの声が遠くに感じる。
伸ばせない手を伸ばそうと、途切れそうな意識をどうにか繋ごうと…。
詰まった息を吸おうと……。
閉じそうな視界を……どうにか開けようと………。
声の出ない喉で……微かでも声を上げようと…………。
保てぬ意識を……保とうと………………。
――――――。
意識は、そこで完全に途切れてしまった。