バケモノ②
いつまでたっても力が入らない両脚を起こすのを諦め、壁の中から外を眺める。
ユーテルが森に走っていってから数分が経過した。
天候が悪化する、という光景がどういったものかを俺は知っているつもりだった。
急変する天候というのには必ず前触れがあるものだ。
俺が昨日まで住んでいた北方の国は厳しい寒さと一年を通して雪が降り積もるところだったから雨も珍しい。
そんな俺自身、天気の変化というものに対して知識がないのは重々承知だが、だとしても目の前で起きた天候の変化というのはあり得ない事だとわかってしまうのだ。
夜になりかけていた。夕陽は沈み、あたりは暗くなり始めていた。
しかしそれもユーテルが森の中に入り、自身の力を行使し始めたのであろうタイミングで天候は、周りの環境は一変した。
天国や地獄が具体的にどういうところかは今のところ知る由もないけれど、もしあるんだとして、天国から地獄に突き落とされたとするならば。
こんな光景をいうのだろうと、俺は思った。
「バケモノ……」
思わず口から零れていた。
それは、あの猛獣に対する言葉ではない。
ほんの少しの時間でこの状況を作り出した、ここまでの環境に一変させてしまった一人の人間に対して。
ユーテルがどういう人間であるのか、出会ってから丸一日も経過していない現時点でそれを評価するのはまだ早計かもしれない。
だがよくよく考えてみれば、突然よくわからない理由で俺を拉致し、よくわからない話を続けて、よくわからない力を持っていて、そしてその力がよくわからない程に強力であるという事が、現時点で判明していることだ。
結論、まだユーテルがどういう人間なのかはよくわからない。
わからないことが多すぎて、余計によくわからない。
だが、一人でこんな光景を作り出してしまうような人間を、果たして人間と呼べるのだろうか。
俺は今までと変わらず、その人と人間として接することはできるのだろうか。
「…………」
その自信が今の俺にはない。
無様にも力が入らず起き上がれない自分の体たらくに、普段ならムカついていることだろう。
でも、今の俺は、それにひどく安堵していた。
とその時。
ぼんやりとただ壁越しに”地獄”を眺めていると、嵐の中、巨大な何かが飛んでいくのが見えた。
嵐の中で渦を巻いてしっちゃかめっちゃかに飛ばされている最悪な光景だが、その中を一際大きい物体が渦を巻く嵐の中一直線に遠ざかっていくので妙に目立って見えたのだ。
なんだろうと思って目を凝らしてその物体を眺めていると、途端に”地獄”は威を潜めたかのように嵐が消え去る。
上空に舞っている色々な沢山の物体がばらばらと雨みたいにとてつもない勢いで地面に落下していく。
その中には当然折れた樹木そのものも多数含まれるため、森はめちゃくちゃな砂煙を上げていて、山火事なのかと錯覚する。
空高く上った粉塵と、降りしきる物体で汚される地面と、さっきまで森だったところ。
威を潜めたとはいえこれも地獄といって遜色ないだろう。
飛んで行った大きな物体は、おそらくあの巨大な猛獣だったはずだ。
かくして猛獣の駆除は成せた。
この壁があるおかげで、ユーテルは本気の力を出せた。
ソニオさんがマホウを使ってくれたおかげでこの町に直接的な被害はない。
でも、この壁の外はどこも悲惨な有様だ。
この壁がなければ、地獄はこの町を襲っていた。
本物の花を初めて見た。
小鳥の歌声も初めて耳にした。
風に運ばれる花の甘さも森の風味も初めて香った。
汗ばんだ身体を陽下の木陰で涼ませたのも初めての経験だった。
全部、今日見たものだった。感じ取ったものだった。
それはもう、目の前から消え去っている。
俺はもう、ユーテルを人間だと呼べない。
呼ぶことはできない。
両の脚に相変わらず力は入らない。
立ち上がることは叶わない。
でも、両の拳を握る力は、地面を抉るには十分過ぎた。




