帰り道の鬼
寛太は俺の立っている場所よりも少し高い。まるで見えない祭壇に寝かされているようだ。
ここに来て初めて見る俺以外の存在。それが寛太か。
見えなくても何をしてきたか知っているよ。
たくさんの子供の悲鳴を聞いた。
顔を見れるだろうか?
近づく。近くなっている。この空間は繋がっている。寛太と一緒の空間に居るんだ。
走り寄る。足音はしないのに、そっと近寄った。
寛太の顔を見た。大人になった寛太の顔は、目を瞑っている今も厳しい表情をしていた。
そうか、だって、死んだんだもんな。
目をギュッと閉じ、額には縦にしわが寄って口はへの字に喰いしばっている。体にも顔にも、どこにも弛緩はなく、肩は上がり手は固く握りしめられている。
全身で怒りを表しているようだ。
そっと声を掛けた。
「寛太」
目は開かない。
俺はいったいどれくらいで意識が戻ったのだろう。
俺と寛太の場合では違うのだろうか。
「寛太」
俺は、寛太の寝ている祭壇の下に座り込み、時々名前を呼んだ。
どれくらい時間が、日々が年月が経ったのだろう。
ある時、寛太がモゾリと動く音がした。俺はうとうととしていたようだ。
慌てて立ち上がり、寛太を見あげた。
寛太は、ぼんやりとしていたが、しばらくすると状況を飲み込んだのだろう。
立ち上がり、歩き出した。
おかしいな。寛太は祭壇のように少し高い場所に寝かされていたが、立って歩いてもその位置のまま。俺の腰くらいの高さを歩いている。
そして、俺が見えていない。
「誰かいないのか?」
「神はおられるか?川の神、雨の神はおられるか?」
寛太は誰も居ない空間に向かって、そして時に俺の方に向いて呼びかけている。
「寛太。寛太。俺がここにいるぞ。喜助だ!」
ああ、だめだ。寛太の視線は全く俺に留まらない。
俺は見えるのに、寛太には見えないんだ。
寛太はたった一人の真っ暗な空間に居るんだ。
寛太は、誰かを呼び、時々怒鳴り、そして怒りで何もない地面であろう俺より少し高い場所を殴っていた。俺はそれを黙って傍で見ていた。見上げていた。手を差し伸べて触ろうとも体をするりと何の感触もなく通り過ぎる。
俺の下にも誰かいるんだろうか?
分からない。
俺と寛太の世界が繋がっていない。
俺は寛太の名前を何千も何万も呼んだ。
寛太の様子がだんだんおかしくなっていった。
身体が大きく黒く膨れあがり、最初は戸惑いや寂しさも出ていた表情が、強張った怒りだけになっている。そして当てどなく、ただ歩き続けている。
周囲を睨ねめ付け何かを探し続けている。
うーうーと唸り、肩を揺らして歩いている。
どこまでもどこまでも歩き続ける。昼も夜もない真っ暗な空間。
寛太。何がしたいんだ?
何を考えているんだ?
俺は見あげて問うが、反応はない。
歩く位置も寛太が俺の腹の位置に足があることは変わらない。
それでも、ただ隣に在り続けた。
見張っていたのでも何でもない。俺だってこの世界で寛太しかいなかったのだ。
寛太はもっと孤独だったろう。
ある時、世界に異変が起こった。
どこからか足音がする。
どこからだ?
俺と寛太は同時に気付いた。そして同じように耳を澄ます。
どれくらいぶりの音か。それも人らしき足音だ。
あっちだ。
同時に駆け出した。
足音のする方へ。
俺の足音も寛太の足音もどんなに走っても聞こえない。
足音がするのは、音のある世界だからだ。
誰かいる。
誰かいる。
気付いたら、俺たちの足音が聞こえている。
音の在る世界に出たんだ!
誰だ?
俺を音のない世界から出したのは誰だ?
ずっと向こうに誰かの足音。
そして、俺の足音。寛太の重い足音。
寛太の足音だ。寛太、気付いているかい?俺たちの足音が鳴っているよ。
誰だ?
誰だ?
ぼんやりと見えた、ああ、光りだ。光が見える。
俺たちは力の限り走っている。
足音、光り、世界だ!
遠いトンネルの向こうのような点ほどの光が近づく。
光だ。光だ。光だ。光だ。光だ。
ああ、もどかしい。
でも、少しずつ近づいていく。
その、ぼんやりとした光の中に、人が居た。
人だ、人が一人いる。人だ。人だ。人が居るんだ。
その人影は立ち止まっているのか足音がしない。動きもない。
もしかしたら、こちらに気付いたのか?
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーーーっ」
ビックリした。寛太が吼えていた。
喜びの顔か?いや違う。恐ろしい顔になっている。
なんで?
寛太の走る速度が増した。
寛太は吠えながら走っている。
あ、待って!
光の中に居た人が走り出した。
寛太の吠え声に恐れをなしたか。そうだよな。怖いよ。怖いよ寛太。
だんだん人が近づいてきた。
逃げても俺たちの走る速度が速いのだ。追い付いてきたのだ。
もう人の姿がはっきり見える。
洋装の年寄りの男だった。怯えてこちらの方を見ているが、吠えている寛太に目が行っていない。
俺にも視線は来ない。
俺たちは見えていない?
それでも、音は聞こえるようだ。
やばい気がする。
「逃げて!」
俺は叫んだ。
男はビクッとした。やっぱり聞こえている。
「うおおおおおおおうおおおうっ!」
寛太が走り寄り、そのまま肘で男の顔をぶん殴った。
男は吹っ飛ぶ。
寛太は倒れた男に馬乗りになり、無我夢中で殴りつけている。
両手を組んでこぶしを握り打ち下ろす。
なんで?
「かん た?」
「お前何をしているんだよ。やめて。やめて」
寛太の腕に縋り付いて、何とか止めようとする。
ふと、動きが止まった。
「・・・」
寛太は何か言いたそうに口をもぞもぞした。
俺が掴んでいる腕をそっと触った。
ああ。俺は寛太の腕を掴んでいる。寛太は俺の手を触っている。
「ううう・・・」
いつの間にか、俺たちの段差は無くなっていた。
「寛太」
俺たちは触れ合っている。
寛太の下敷きになっている男の荒い息が止まった。
ああ、死んでしまった。
すとん。
音もなく、また暗闇に戻った。
隣に居た寛太が、また上の位置に戻っている。
なんだ。
何が起こったんだ?
そんなことが長い長い時間の中で何度かあった。
そして気付いた。
寛太は鬼になっている。
そして、本当に時々遭遇する人を生贄にしようと殺している。もう、何にへの生贄かも忘れてしまっているのに。
見えない寛太に襲われているのは、寛太が濁流に落とされ流木や石が体に当たったのと同じような感じだろうな。
遭遇する人は、何が理由か分からない。
ただ、いつでも夕方から夜の始まりの時間だ。
その時間に、一人で暗い道を歩いている男性や男の子と出会うようだ。
足音から始まる。光の世界の足音の主は、俺たちの音や声が聞こえる。
その人たちにとっては夕闇でも、俺たちにとっては眩しいくらいの光だ。それに向かって走る時には、俺と寛太の走る場所は同じ高さになっている。
この時には俺は寛太に障ることが出来る。寛太は俺が見えないけれど、触られているのは感じるみたい。触った瞬間、動きが止まる。俺の手を触ることもある。
そして寛太が人を殴り殺すと、闇の中に戻る。
どうにかして、寛太の罪を止められないか。
鬼になっている寛太を戻せないか。
今も寛太は俺より高い場所で、足音はしないか微かな音を聞き洩らさないように耳をそばだてている。
俺の声が外の人に聞こえると分かってからは、なるべく大きな声で危険を知らせるようにしている。
それで寛太から逃れた人も出てきた。
寛太は怒りで肩を揺らしているが、俺はもう人を殺してほしくない。
また、足音が聞こえた。
ザっと音はないけれど、暗闇の二人の動きが止まった。
音の方向を探す。どっちが先に走り出すか。
あっちだ。
今回は俺が先に走り出した。俺の足音はまだしない。
少し先に針孔のような光が見えた。
走る速度を上げる。
後ろを見た。寛太はまだ気づかない。
早く。早く。寛太よりも早く、光の中の人を逃がさないと。
たったったったったったった。
俺の足音が鳴った。
後ろを振り向く。
寛太が気付いた。猛烈な勢いでこっちに走り出した。
無我夢中で走る。
光の中に人影。
だっだっだっだっだっだっだっだ。
寛太の足音だ。
もう、足音の聞こえる同じ空間に居るんだ。急がなきゃ。
「逃げてーーーっ!」
叫ぶ。
「え?誰?」
光の中の人が応えた。
その瞬間、寛太の足音が消えた。振り返る。寛太は近づいているのに、急に目指す方向が分からなくなったみたいだ。
「俺は死んだ人。もう一人の死んだ奴が君を殺そうとしているから逃げて」
「う、うん。ありがとう」
若い男だ。少年から若者になりかけくらいの年か。俺よりも少し上かな。黒い大きなカバンを肩に背負っている。
首の詰まった洋装をしている。ボタンは金色だ。格好いいなぁ。
二人して並んで走り出す。
「ねえ、君って死んだ人なの?」
「そうだよ」
久しぶりの会話だ。嬉しいな。
後ろを振り向く。寛太がやっぱり俺たちを見失ったままだ。
「なんで、助けてくれるの?」
「君を殺そうとしているのは、僕の友達なんだ。もう、人を殺してほしくない。さあ、走るのを続けて」
「う、うん」
暫く僕たちは無言で走っていた。
すると、寛太は俺たちに気付いて、こっちに走り出した。
「もっと早く。気づかれた!」
「う、うん」
あれ、一瞬、また動きが止まった。
「あの・・・」
若者が少し迷って聞いてきた。
「君は昔の人なの?着物着ているけれど」
「多分ね。どれくらい昔だったか分からない。君の着ている服は格好いいね」
「そうかな。学生服だよ。俺と同年代はみんな着ている」
会話をしながら後ろを振り返る。
寛太は止まっている。辺りを伺うようにしているが、俺たちには気づけていない。
「そうか。みんな、そんな立派な服を着ているんだね。豊かな世界になったんだね」
若者は背が高い。少し細いけれど筋肉は付いているような背筋の伸びと足の速さだ。ちゃんとご飯が食べれているんだろう。
「豊かなのかな?食べ物には困らないな。両親が働いているから、学校にも行けて部活も出来ている」
「ぶかつって何?」
「学校で行われる授業が終わった後に個人の選択で運動部や文化部の活動があるんだ。僕は野球をやっている。1年だからレギュラーどころかベンチにも入れないけれど、2年になったらチャンスはあるかもしれないんだ」
知らない言葉だらけだけれど、彼は「ぶかつ」を頑張っているようだ。
「君はいくつ?俺は16歳」
俺は、迷う。良く分からない。
「うーん。多分12歳くらいかな」
「身体は小さいけれど、話す言葉がなんだか大人みたいだから年齢が分からなかった」
「死んだ時が12歳だけれど、その後の時間が途方もなく長かったからな」
「気を悪くしたらごめんね。何で死んだか聞いても良い?」
「かまわない。俺は大雨で洪水が出ないように人柱にされた」
「・・・いけにえ?」
「そうだな。でも、死んだ後も神様とやらは来なかった」
彼は何も言えなくなっていた。俺も何を言えばいいのか分からない。
走りながらの沈黙。
だっだっだっだっだっだっだっだ。
後ろを見る。寛太だ。ずいぶん離れたのに寛太が気付いて走り出した。
「もっと速く走れる?」
「うん。大丈夫」
後ろを見る。あれ?寛太が立ち止まっている。
何か理由がある。なんだろう。考えろ。立ち止まった時、俺たちは何をしていた?
そうだ。話し続ければ寛太には見えないんだ。
「ねえ。話を続けよう。話し続けると、君を殺す鬼は追ってこない」
「さっきの重い足音が鬼なんだね。でも、何を話そう。追い付かれるとどうなるの?」
「見えない鬼に殴り殺される。体中の骨がバラバラになるくらい」
「ひっ」
目を見開き俺を凝視する。
「だから、黙り込んだらダメだって」
「だって、怖くて何を話せばいいのかなんて分からなくなっちゃったよ。頭が真っ白になったんだ」
まあ、殴られて死ぬって、ショックだろうな。分からないでもないよ。
どうしようかな。お互いに悩む。
「あ、そうだ。「しりとり」知っている?」
「昔にもしりとりはあったさ」
「じゃあ、それをしよう」
俺たちはしりとりを始めた。知らない言葉が多かった。でも楽しかった。途中で知らない言葉の意味を教えてもらったりした。
そんな会話の間、寛太は遠くなっていて動けもしない。
ああ、良かった。
足元が、ジャリと音がした。
この世の道に出たのか。
確信があった。
「もう、大丈夫だよ」
「え?」
「鬼ごっこは終わった。もう鬼は追ってこない。無事に家に帰れるよ」
彼の顔は奇妙な表情だった。なんだろう。安心も心配もある。
「ねえ。ありがとう。助けてくれて、本当にありがとう」
「同じ人と出会ったことはない。この道を通っても平気だよ」
後ろから闇が包んでくる。未来の世界を見れて良かった。未来の、村人じゃない人と話せてよかった。
気持ちの良い奴じゃないか。もう夜なのに道の所々に灯りがある。夜でも闇のない世界か。
良い未来じゃないか。
「さようなら」
彼と未来の世界に言った。
僕は闇に吸い込まれた。
「ありがとーーっ」
若者が叫んで消えた。
闇に戻った。隣には寛太がいる。寛太はやはり高い場所を歩いていて、不機嫌そうに上半身をゆすっている。
この暗闇に戻ったとたんに、息切れも疲れもなくなった。
見あげて言う。
「ねえ。寛太。お前に人を殺させない方法を見つけたよ」
寛太には聞こえない。
ただ、俺の腹の位置の地面に立って体を揺らしていた。
いつか、いつか、二人でここから出よう。いや、出なくても良い。せめて俺と寛太がお互いに見えて触れられる場所にしたい。
それまで、隣に居よう。
ずっと。ずっと。
ああ、ああ。お願いだ、神様。
俺が悪い鬼になりませんように。
誰かの帰り道を守れますように。
今日出会った男の子は、「一緒に帰ろう」と言ってくれた。
嬉しかったな。
嬉しかったから、まだ、暗闇を憎まず鬼にならずに済む。
かんた。かんた。
俺の名前を呼んで欲しいな。
俺はだんだん自分の名前を忘れてきてしまっているんだ。