還れない
村はもう2週間も雨が降り続けている。
庄屋の庄屋の家で大人たちが話し合いをしている。大きな家の障子窓が陰で揺れているのは、大人たちが立ち上がったりして激しい議論をしているのだろう。
なんとなく分かっている未来がある。
村の人がひそひそと話していた。
人柱をするのだという。
そうなるのは多分、俺か、足を腐らせたお向かいの良助爺さんだ。
死ぬのは怖い。でも、どうしようもない。
そう。どうしようもないんだ。
おっとうが死んだから俺の家は貧乏だった。おっ母が死んだ。以来、毎日誰かの家の手伝いをして、その日の飯を貰っていた。
俺を守ってくれる人はいない。村にとって不必要な人間から捨てられていくのだ。仕方がない。余裕があってこそ孤児を養うことが出来るのだ。
俺は自分一人では生きられない野良猫以下か。友達だっていやしない。庄屋の息子や、その取り巻きには言いように使われていた。
どんどんどん。
小屋の扉が叩かれた。
さっさと開ければいい。鍵などもとよりない。
乱暴に扉が開けられ。
「喜助逃げろ。すぐに荷をまとめろ」
驚いた。ずぶ濡れで戸を乱暴に開けたのは庄屋の息子の寛太だった。いっつも俺に難癖言って家の手伝いをやらせていたのに。
俺は筵に寝ころんだまま、横向きになって応えた。
「人柱になるんだろ。仕方ないさ」
「馬鹿野郎!生きろよ。遠くで生きろ。これで、村から出ていけ」
濡れた手で俺にぐしゃぐしゃの何かを握らせた。ずっしりと重くヂャリっと金属の音がした。金の入った財布だ。
俺は慌てて突き返した。
「逃げろって言うのかよ!そんなことをしても無駄だ。どうせ俺は野垂れ死にするだけだ。それにこの村はどうなる」
俺は村しか知らない。
村の外には、ズボンという異人の格好をしていると聞く。立派な馬車が走っている。火の見櫓より高い建物が建ったそうだ。
他の生き方を知らない。どうせ誰も何も大事なモンもない人生だ。村の誰かが犠牲にならなきゃいけないんだったら、なってやるさ。
「なんでだよ。なんでそんなに簡単に諦められるんだよ!」
寛太は俺に馬乗りになり怒鳴っている。雨のしずくと寛太の涙が混じって顔に落ちる。
諦められるさ。俺には何もないんだもの。
でも、寛太とは友達になれたかもな。
そういえば寛太が仕事を押し付けた後はいつも庄屋のおばちゃんが、饅頭をくれたな。「寛太はさぼったから、おやつは抜きだ」とか言っていた。
ああそうか。寛太は俺に饅頭を食べさせたかったんだ。ずいぶん前に外国の動物や魚が描いてある図鑑を見せてくれた。凄く高いものだから、そおっと二人でページをめくっていたっけ。おっ母が生きていたころは、普通に遊んでいたんだ。忘れていた。
気付かなかったよ。知らなかったよ。村のみんなが俺を嫌っていると、煩わしいと思っていると信じていた。
顔がにやける。そうか、俺って好いてくれる人が居たのか。
そうか。そうか。知れてよかったよ。
「なに笑っているんだよ」
「いやあ。俺を惜しんでくれる人が居たんだなって感慨深く感じていた。ほら、村の邪魔ものだったじゃん。皆、喜んで俺を差し出そうとしているのばかりだと思っていたからさ」
「そんなことない。少なくとも親父も田中の爺さんだって反対している、俺だってお前を殺したくない。死んでほしくないんだ。なあ。逃げてくれよ。お前を殺した村なんて継ぎたくない」
寛太は馬乗りから、俺の胸にうずくまるように身体を小さくしている。
震えている。泣いている。悲しいのか。怒りなのか。
俺は寛太の背中をとんとんした。耳に当たる寛太の小さな詫びの言葉。
「ごめん。ごめん。俺、止められなかった。本当にごめん」
「良いよ。もう良いよ。わかった」
耳に泣きじゃくる声と息遣い。俺も静かに涙が出た。
死にたくなんかない。でも、仕方がないじゃないか。
俺は息を止めて泣き声が出ないようにするしかなかった。
その夜、庄屋の家に招かれ泊まった。
どこの家も食料が乏しいのに、俺のためにごちそうを作ってくれた。誰も居ない部屋で食べる。白いご飯に味噌汁、ぬか漬けに豆腐と野菜の煮物。山菜の佃煮。
連れてこられた時にお風呂にも入った。気持ちよかったな。いつもは川で水を浴びだったから。お風呂から出る時には来ていた着物は無くなっていて、新品ではないけれど清潔な着物が出ていた。寛太のかな?少し大きい。
食事の後、庄屋が来た。
「お食事はいかがでしたかな。大したおもてなしも出来ずに申し訳ありません」
いつもとは違う丁寧な言葉だ。
いつもは、そう。
「まったく寛太がいっつもすまないなぁ。ありがとうよ。餅でも食っていけ。のどに詰まらすんじゃない。よく噛むんだぞ喜助」
「おお。草刈ご苦労さん。暑い中、よく頑張ったなぁ。まずはそこ座ってぬか漬け食っていけ。その後、ぼたもちを持って帰れ。今日中に食べるんだぞ。この暑さじゃあ、すぐに悪くなっちまう」
って、無理じゃない仕事を頼んできては、俺に食べ物をくれていた。
その庄屋さんが、俺に、もてなすことが出来なかったと頭を下げている。
そうか。俺はもう喜助には戻れないんだな。
何を言えばいい?なんて言葉を返せばいい?
俺は死ぬために連れてこられた。最後だから良い思いをさせてもらっている。
「心もこもったおもてなしをいただきました。このご恩は、どんな形でもお返ししましょう」
驚いた顔で庄屋が顔を上げた。
そうだ。十分だ。乾いた薪だって集めるの大変だったろう。玄米を突いて白い飯にするのも大変だっただろう。暑さと雨でぬか床が腐りだしているとも聞いた。
村中総出で、俺の今夜の支度を整えてくれたんだろう。
庄屋は頭を下げた。そのまま、額を床に押し付けた。
「喜助。ありがとう。・・・すまんっ」
しばらく顔を上げないままに鼻を音を立てないようにすすろうとしていた。それを諦め、懐から手ぬぐいを出し顔を拭き鼻をかんだ。
再び顔を上げた時には、目は赤いが涙も鼻もなかった。
厳しい顔をしている。これが村をまとめる村長の顔なのだろう。
「明日の朝、お役目を果たしていただきます。今夜はゆっくりとお休みください」
「はい。わかりました。あの・・・寛太は?」
庄屋は顔を歪めて言った。
「あのものは、今部屋に閉じ込めております。私たちを絶対に許してくれないでしょう」
「そう、ですか」
何も言いようがない。
食事を終えると、奥の部屋に通された。
来客用であろう綺麗な布団が敷いてある。俺んちの藁とむしろとは大違いだ。
布団が汚れるのを気にしなくていい。だって、お風呂に入って新品じゃないけれど清潔な着物を着ているのだから。
掛布団をめくって布団に入ってみた。ふかりと体を包まれる。底が硬くないのは異様に感じる。そうか。寛太はこんな布団で寝ていたのか。今はどんな様子なんだろう。
明日は苦しくないと良いな。
どうやって俺は死んでいくんだろう。まあ、仕方ない。
そして眠りについた。
翌朝、体中の痛みに起こされた。何かあったわけじゃない。ただ、柔らかい布団に身体がビックリしただけだ。首を回し肩を回していた。
「お目覚めでしょうか」
閉めた襖の向こうから声がかけられた。庄屋のおばちゃん。寛太の母親の声だ。
もう、誰も彼も敬語なんだな。「ありがとうよ。まったく寛太はしょうがないね」そんな少し荒い、でも優しい声はもう聴けない。
「はい。よく眠れました。・・・大変な中、おもてなしをして頂きありがとうございました」
襖の向こうにおばちゃんの気配はあるが、応えはない。しばらくの無言が続いた後、
「ちょっと待ってなね!」
おばちゃんは、いつもの口調に戻って、すぐそこからバタバタと離れた。
何だったんだろう。何かあったのかな?
パタパタと足音が聞こえて着たらバタバタになって、おばちゃんの足早の音だと気付く。
「開けるよ!」
俺の返事も待たずに襖をパンと開けた。
手には盆が乗っている。
「今日は断食とか言っているけれど、そんなん神さんは気にしやしないわね。さあ、さっさと食べな。あんたに食べて欲しくてね。夜から用意しといたんだ」
枕元に盆を置いた。温かなお茶とでっかいお萩がある。
「さあ、食べな。好きだろう」
「うん」
おばちゃんは最後まで喜助として扱ってくれた。
手に持つとズッシリとある。餡子も分厚く乗っている。
俺は昨日までは泣くこともなかったのに、勝手に涙があふれてくる。
鼻をすすりながら、涙をぬぐいながら、普通の倍はあるお萩餅を頬張った。いつもよりも甘い。
砂糖を多く入れてくれたんだろうか。
「美味しい、です」
俺は飲み込んで言った。
おばちゃんは涙をためて、うんうん。と頷いている。
昨日の夕餉はご馳走だったから、実はあまりお腹は空いていなかったけれど、しっかりと食べきった。お茶をすすると、香りがあって味も濃い。良いお茶の葉なのだろう。
お茶の香りに気付けたのは、鼻水がやっと止まったからだ。
俺は幸せな気持ちになっていた。思ったよりも俺を捧げるのを悲しんでくれていて、それがたとえ罪悪感を減らすための庄屋さんたちの自己満足でも構わない。
「ごちそうさまです。とても美味しかったです」
お茶をゆっくりと飲み終えてお盆に置いて言った。
おばちゃんはお盆を持つと潤んだ目で、でもしっかりと俺を見ていた。その目は愛情だったと思いたい。
おばちゃんは頭を深く下げて去って行った。
入れ違いに庄屋の下女が白い着物を持ってきた。この人とも良く話したり仕事を一緒にしたりしたけれど、今は目を合わせない。
「着物を用意しました」
死に装束か。
「ご用意いたします」
自分で出来るけれど、ここは従っておこう。
着付けは終わったが、襟を見ると右前になっている。
おっとうは覚えていないけれど、おっ母も葬式の死に装束は左前だったのにな。
ああ、そうか。
これは、死出の旅路じゃないんだ。俺は生贄だから、あの世には行けないんだ。
そうか。
死んでも父さんにもおっ母にも逢えないんだな。
「用意が出来ました」
下女が襖の外に声を掛ける。
「入ります」
庄屋が入って来た。いつもより良い着物を着ている。
「ご案内いたします」
もう、俺の目を見ない。
頭を下げて、少し斜め前を歩くのを付いていく。
庄屋の家を大雨の中、裸足で出る。
やっぱりそうだ。草鞋も手甲もない。六文銭も持たされていないから、三途の川も渡らせてもらえないのか。
胸か腹がぎゅうっと絞れて苦しくなる。息が苦しい。
庄屋も傘を差さずに歩く。生垣しかない門には雨の中、村の人たちが集まっていた。
「オヤジさんよう。逃げないようにくくらなくて良いのか」
「そうだ。喜助は足が速い。逃げられたらことだぞ」
ああ、逃げたいさ。
死にたくなんかない。しかも死んでも、あの世には行けないんだ。
水の中にずっといなきゃいけないのか?嫌だ。嫌だ。
緊張で息が苦しい。息が出来ない。怖い。水に入ったら、溺れ死ぬのか?
なんで俺なんだ。なんで?親がいないからか?
何か、俺は村にとって悪いことをしたのか?俺の食い扶持がそんなに負担か?
俺は働いてきたぞ。誰よりも働いてきたぞ。皆が嫌がる仕事だってしてきたぞ。
「黙れ!」
庄屋が怒鳴った。
「こちらにいる方は、これから神様になるお方だ。無礼は許さん」
俺に向きを変えて言った。
「失礼をいたしました。こちらへ、よろしいでしょうか」
俺の足元を見たまま、川への道を手で指示している
何も出来ずに、その声に従う。
大雨の中を庄屋を先頭に、俺が続き、その後ろに村人たちが付いてくる。見張っているのか。男が多いな。女や子供は家にいるのだろう。村の子供の中には遊んだのもいた。意地悪をしてくるのもいた。
庄屋の足が止まった。橋の上に来た。下は水位が上がり濁流となっている。
ここから落とされるのか。おっとう。おっかあ。おっかあ。
庄屋が俺に向き直り
「失礼いたします」
と白い布で目隠しをされた。後ろできつく布が結ばれる。庄屋の手が震えている。
この人も大変だな。こんなことが無ければ、穏やかで良い村長であったろうに。いや、皆にとっては「良い村長」なのか。
ただ、俺にとっては「人殺し」なだけで・・・
両の足首を縛られた。ゴトンと後ろで音がしたから、石でも縛ってあるのだろう。
ああ。おっかあ。おっかあ。
遠くで叫び声のようなものが聞こえた。
「・・・ヶー・・・」
なんだろう?耳をそばだてる。
「きすけーーーっ!」
寛太だ。寛太の声だ。
「寛太――っ!」
俺も叫び返した。
「喜助っ!離せよ!」
どうやら、向こうで村人に止められているようだ。その間も俺の名前を一生懸命に呼んでいる。
「寛太。来てはならん」
庄屋の怒号が飛ぶ。しかし寛太の声は止まらない。
「オヤジ、本当に人柱が必要なのか?本当にそれで雨が止むのか?止んだら喜助のおかげなのか?止まなかったら喜助のせいなのか?違うだろ!」
「また大雨が降ったら、今度は誰を落とすんだ?子供か?女か?爺さんか?
オヤジ。喜助を離せ。この村で人柱を出す前例を作るな。何かあるたびに人を殺す村にするのか?今ならまだ間に合うんだ。お願いだ喜助を殺さないでくれ。喜助は誰よりも村の役に立っていたじゃないか。みんなが、喜助の手伝いを喜んでいたじゃないか。その喜助を殺すのか?なあ。なんで喜助なんだ?止める親がいないからか?じゃあ、これからは親のない子供を生贄にするのか?そんな村に本当にして良いのか?」
寛太の声が雨よりも皆に沁みていく。
顔を振ると目隠しが外れて寛太が見えた。もう、寛太を力づくで止める大人はいない。しかし、近づけないように囲われている。周りの大人たちも困惑をしているようだ。
「そうだ」
庄屋の声が低く響いた。
「そうだ。最小限の犠牲で村を守るんだ。必要ならば、これからもな」
「すまん」
とん。
背中を押された。
落ちていく。
唖然としている男たちの顔。
寛太の見開いた目。
神楽舞の山神のお面のように、目を見開き、口をへの字に喰いしばっている庄屋の顔。
庄屋は、足元の石を蹴り落とした。
鬼の形相だ。ああ。鬼になったのか。庄屋のおやじさん。
「あ゛っあ゛っあ゛―――――――っ」
最後に寛太の魂が破れるような悲鳴を聞いた。
水は激しく渦巻き、石の重みで川の深みに落ちていく。身体から搾られるように空気が抜け出る。
肺にはもう少しも空気はない。
流れに乗って何かが身体にドカンとあたった。どこかの骨の砕ける音が体の中で響いた。
そして、俺は死んだ。