ビルマの友と百年の我慢
ふと目を覚ますと、私はビルマの病院にいた。
フラッシュバックするのは、銃剣に身を預けて自決した友の姿だった。
友が命を絶ったことに私は驚かなかった。
あの日は、人が死んでいくことがあまりにも当たり前だった。脚を撃たれた彼がもう逃げ切れないと考えたことも自然だった。
しかし今になって私はどうしようもなく動揺していた。嗚咽し涙した。生きていてほしかった。
戦線に戻ろうと思って上体を起こすと、全身に激痛が走った。
記憶は曖昧だが、私も負傷したらしい。周囲は負傷兵ばかりで、気づけば悲鳴だらけだった。
焦る私をたしなめて、看護婦は耳に口元を寄せ、「我慢のときですよ」と言った。
その言葉は、私を救った。
そうだ、我慢のときだ。
友の仇を討たねばならないが、焦ったところで何にもならない。
食料のない前線に杖をついて向かったところで、足手まといにしかならない。
インパール地方に展開した日本軍は壊滅した。
作戦目標は、援蔣ルートの途絶とボースの悲願たるインド独立の支援。
援蔣ルートから流れ込む膨大な最新兵器を途絶しなければ日本は中国大陸で永遠に代理戦争を強いられるし、日本の中枢は聖人ボースの説く東亜解放の理想に心酔していた。
しかしそのとき、東部戦線を米軍に崩壊させられた日本は、西部戦線を支援する実力を失っていた。
いよいよ撤退が許されたが、峻厳な山脈に隔てられて撤退は困難だった。英軍の機械化部隊が投入され、日本人は戦車で挽肉にされていった。
若い将校が爆弾をかかえてキャタピラに体当たりし、命と引き換えに戦車を擱座させた隙に、私達は逃げ出してきた。
見渡す限り日本兵の遺体が広がる、あの地獄。
しかしそれが私の青春だ。
戦争が終わって本土に帰還しても、私の本心はなぜかビルマにあった。
友が銃剣に身を預けたその位置にずっとあった。
戦後の祖国で報道される内容は、皇軍への悪口ばかりだった。
軍のエリートは作戦能力が低く、人並みのモラルすらまるでないと公言された。負けるべきものが負けるべくして負けたのだと笑われた。
しかし私が目撃したのは、同じ日本人であるというだけの他人を助けるために迷うことなく爆弾をかかえ猛然とキャタピラに轢かれたエリートだった。
戦後のメディアは、嘘しか言わない。そして戦後の国民は、そんな嘘のほうを自分から選び取る。流された血への感謝を投げ捨てる。
現実はどうだろう。あんな気高い目をした男をその後一人も目にすることはなかった。真実は曲げられ、真面目で正直な者ほどけなされる。
他人のために犠牲を買って出る覚悟もない惰弱な俗物ほど、自己弁護を優先するのに迷いがない。
憎悪するたび、撃ち抜かれたはらわたの古傷がよじれひどく痛んだ。
記憶の中の看護婦が耳元で「我慢のときだ」と言うから、私は暴発することなく、暴力や犯罪にも走らず、クズばかり理不尽ばかりの戦後を生き抜いてきた。
昭和、平成、令和。
私は自宅の玄関で転倒したはずみに骨を折り、久しぶりに病院暮らしをすることになってしまった。
病院の天井を見つめていると、やはりフラッシュバックするのは、日本兵の肉片と、自決する友の姿だった。
こんなところにはいられないと私は思った。
すると、看護婦は耳元で、「我慢してください」と言った。
信じられないことに、その看護婦の顔立ちは、まさにあの日の看護婦だった。
そうだ、我慢のときだ。
我慢がないようではいけない。男は我慢だ。
初め言われたときは、ビルマの病院の中だけのことであって、それが明ければ私の心は解放されるのだと思っていた。
正義に適った死に場所が自ずから与えられるのだと期待していた。名誉ある最期を迎え友のもとに行けるのだと楽観していた。
しかし、昭和、平成、令和。何もかも我慢しなければならない状況は続いた。
他の同年代の者達が呑気に戦後を生きているとき、私は娯楽に流れることなく寡黙に生きた。
心は常に戦場にあり、私は我慢をしつづけてきた。
あの看護婦はすべてを知っているはずだ。しかし何故?
翌日、同じ看護婦が近づいたときに、私は彼女の手首をぎゅっと掴んだ。
「貴様、あのビルマの病院にいたな! なぜ歳を取らない!?」
彼女は、弱った私の手を簡単に振り払った。
女の顔をじっと見た。やはり確かにあの女だった。
「びるま……?」
無表情に私を見ていた看護婦は、そのまま立ち去ってしまった。
毛布をかぶり、物思いにふける。
そうか、やはり何も教えてはくれないか。
歳を取らないあの女は、ずっといたのだ。あの戦場を知っているあの女は、昭和、平成、令和を生きてきた。
そして私に、我慢だけを助言する。
私はあの女に見張られている。私はきっと、いや確実に、我慢しつづけたままやがて死ぬだろう。
いいだろう、それもいい。
友が一晩で味わった悔しさを、私が何十年もかけて味わったからといって、彼より尊いわけではない。
我慢は我慢に価値がある。我慢しつづけることに価値があって、我慢だけで終わったって価値がある。
我慢しようではないか。本物の我慢というものを見せてやろうではないか。
メディアが嘘ばかりで、自分が誰にも理解されない世界に置かれた気がしても、目撃者は見ている。
戦場の天使は、永遠の年月を生きる。
そして我慢だけを命じ、戦士達を救済する。
男達の名誉を、目撃しているのだ。
毛布の下で、私はたまらず笑い声をあげた。笑いつづけた。