3 審判
人類の粛清が始まる。
ミーの言葉は真に迫るものがあり、俺を心の裡から震え上がらせた。
空を覆い尽くすほどの兇悪な容貌の天使たち。
彼らはこれから、街を焼き、海を蒸発させ、人間を駆逐し、その文明をも消滅させるのだ。
――と、思っていたが。
どういうわけか、異形の存在たちは、ある瞬間からピタリと動きを止めた。
まるで大聖堂の壁に描かれた漆喰画のように、化け物の群れが空に張り付いて静止している。
「あ、あの」
俺は振り返り、ミーの方へと向いた。
「天使たちの動きが止まったんですけど」
んー? と、ミーは足をバタバタさせた。
いつの間にか、ベッドに寝転んでいる。
「ああ。あれは合図を待ってるんだ」
「合図?」
「そうだ。私からの合図だ」
ミーはそこで仰向けになった。
ベッド脇に置いていた、前にゲーセンで取ったボーカロイドのフィギュアで遊んでいる。
「一応、二重のセーフティがかかってるんだ。いや、既に神から人類抹殺の許可は出ているんだがな。今は、私のところで実行を止めている状態だ。私が今ここで指を鳴らせば、その瞬間、大天使どもの一斉攻撃が始まる」
俺はごくり、と喉を鳴らした。
「と、止めていてくれてるんですか」
「まーな」
「神様からの命令が出ているのに?」
「うん」
「もう、人類は滅ぶ運命なのに?」
「うん」
「……なぜ?」
俺は恐る恐る聞いた。
心の芯から震えた。
何しろ――文字通り、地球の運命を決める神託なのだ。
「惜しいからだ」
ミーは仰向けになったまま、こちらを見上げるように俺を見た。
「いやな。私は今回の仕事を遂行するに当たって、だ。少し、この宇宙の辺境に細々と生きるお前たちのことを調べてみたのだ」
「調べた?」
「お前たちの歴史だよ。確かに父の言う通り、貴様らはろくでもなかった。争い、奪い、老いた。疲弊し、疲弊させ、ついに信仰をも漂白された。滅びて当然の存在だ。しかし翻って、その文明はというと、こちらはなんとも素晴らしい進化を果たしていた。星を飛び出し、細胞を解明し、神の如き火を創った。これほど高度に発達した文明というのは全宇宙を見渡してもなかなかに貴重だ。壊すには少々、もったいない」
迷っているのだ、とミーは言った。
「殺すか、生かすか。滅ぼすか、繁栄すか。ビミョーなところだ」
うーん、とミーは、迷った。
「ど、どうにかなりませんかね」
俺は眉を下げた。
「あ、あの、人間は確かに愚かなんですけど、なんていうか、そんなに悪いことばかりでもないし」
「そーなんよなー。お前ら、おもしれーもん作るし」
「そ、そうでしょ? とりあえず、もうちょっと様子を見ると言うのはどうですかね?」
ミーはよっ、と言って起き上がった。
「様子を見るのはダルい」
「そ、そんなこと言わずに」
「だから、私が裁いてやる」
「ミーさんが……裁く?」
「そうだ。私が審判を下してやる」
ミーはこくん、と頷いた。
それから、ほれ、とこちらに向かって何かしらを投げた。
俺は"それ"を受け取った。
そして驚いた。
あまりに意外なものだった。
なんで世界を滅ぼす天使がこんなものを――
「実はな、迷っているのは"それ"が主因なのだ。私はお前たちが作った"それ"をやって、初めての感情が芽生えた」
「こ、"これ"をやって、ですか」
「そうだ。それのおかげで、人間とは生かすに値するのではないか、という揺らぎを得た。いや、もっと言うなら、人間は楽しそうだと感じた」
「しかし――"これ"を使って、どのように人間を裁くんですか?」
「私に"恋愛"をさせろ」
ミーはぴしゃりと言った。
「私にも、"それ"と同じような体験がしたい」
ミーはちょっと口を尖らせて、腕を組んで胸を張った。
どうしてここで威張るのかと思ったが、よく見ると、少し顔が赤かった。
どうやら照れくさいようだ。
そりゃそうだろう、と俺は思った。
手元に目を落とす。
ミーが俺に投げたもの。
それは、古めの「恋愛シミュレーションゲーム」だった。
それも、学園ラブコメもの。
タイトルは――【天国より野蛮】。
「ここに来たのもそのためだ」
と、ミーは言った。
「私はお前たちの創ったあらゆる文明、あらゆる文化に触れたのだ。そしてその中で、最も優れていると感じたのが"それ"だった。そして私も恋愛というものがやってみたくなった。学校で青春というものを味わってみたくなった。ギャルゲームとは、人間の作り出した文化の極みだ」
ミーは拳を握って熱弁した。
は、はあ、と俺は間の抜けた声を出した。
果たしてそうなのか? と思った。
「も、もしかして、それで、俺が選ばれたんですか?」
「そうだ。宮内司。お前はこの日本で最もギャルゲーの主人公に近いのだ」
「そんな馬鹿な。ギャルゲーの主人公って、こう、もっとイケメンじゃないんすか?」
「それはギャルゲーの中でも後期のものだろう。現代のギャルゲーは確かに主人公のスペックが高い。だが、私が好きなのはもっと昔のやつだ。黎明期のやつなのだ。かつての恋愛ゲームの主人公というのは、凡庸で、冴えなくて、普通の男子高校生だった。それが段々と格好よくなっていって、男らしく成長していって、美少女たちと恋愛をする。それが、私の好きなギャルゲーだ」
ミーは身振り手振りを加えて、滔々と語った。
はあ。
俺はまたしても、気の抜けた返事をした。
俺は【天国より野蛮】の裏表紙を見た。
すると、そこには肌露出多めのイケメンたちが露な格好をしていた。
ちょっと待て。
これってギャルゲーというより、乙女ゲーに近いんじゃないのか?
というより――エロゲーに近い?
俺はチラとミーを見た。
な、なんだ、このオタク天使。
とにかく――なんでも良いから"恋愛"というものをしてみたいのかな。
「要するに、だ」
ミーは熱くなりすぎたことを反省するように、こほん、と咳払いをした。
「要するに、これから人類を生かすか殺すかのジャッジをするってことだ。そしてその方法は、これから1年間の高校生活で、お前が、この私を――」
恋に落とせるかどうかで決める。
この太陽系を吹っ飛ばせるほど偉い天使様は。
そんな中学生女子みたいなことを言って、俺を真っ直ぐ見つめたのだった。