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父が死んでから、私は家へ戻った。
母が一人になったからだ。
母は、父の看病をしていた。
父が生きている間、何度も私は様子を見にいった。父はほとんど寝たきりだった。
塑山から船で水を運び、北風島で売る。主な仕事はそれだった。父が寝たきりになっても、それらの仕事は回り続けていた。そちらの方は心配していなかった。
父も自分に言っていた。
自分が死んだ後、母さんを頼む。父は、もう自分が死ぬとわかっていたような感じだった。一人になる母のことを、案じていた。私も父と同じ気持ちだった。
それから約六年後、今度は母が死んだ。父とは違い、何の前ぶれもなく、いきなり、そして静かに逝った。
朝、母は起きなかった。彼女はそう言った。彼女の方が私よりも悲しんだのは、間違いない。
私は北風島に引き上げたのだが、ほとんど城内にいたため、結局ほとんど家に帰ることができなかったのだった。塑山にいたことすらあった。
だから、母がどんなふうに生活し、どんなふうに死んでいったのか、私が朗読者として生きることを選んだことについて、母や父がどう考えていたのかなどは、全てツエノの口から聞いた。
私の家には彼女の部屋があった。母が、そうしたのだ。母は彼女に自分の部屋を譲り、自分は父の部屋を使っていたのだった。
母が死ぬ前、城内の建物に部屋を借りていた私のところに、手紙でその旨が届いていた。母からと、ツエノからだった。
よく遊びに来るツエノの部屋を用意したこと。
時々様子を見に行っていた私の母が、家に部屋を用意してしまったこと。
彼女が嫌でないなら。二通とも、そんな内容を返した。
私の仕事は増え、逆に彼女の仕事は減った。私は城内と塑山の行き来。彼女は主に島々の見回り。しかも、北風島ばかりで済んだ。
女だからなのか、彼女の意志なのかは、わからなかった。二人とも首相付護衛課のままでいた。私はどちらかと言えば裏寄り。彼女は表寄りだった。
母が死んだ時、私は三十だった。
実は、その二年も前にツエノとは結婚していた。国へは届け出をしていない。ただの口約束だった。私は指輪を二つ買った。銀製のものだ。彼女はそれを首から下げ、私は懐に入れていた。
母には言っていなかった。二年もあった。だが私は、母にツエノと結婚したとついに言えなかった。彼女も言っていないはずだから、母はそれを知らぬまま死んだことになる。
それでも、母はそれなりに理解していたはずだ。もう、結婚しているようなものだったのだから。落ち着いたら、言おうと思っていた。その前に母は死んでしまった。
届け出もしていない結婚だ。そこまで大したことではないのかもしれない。
伝えれば、母はきっと喜んでくれたに違いない。
母が死んだことよりも、言えなかったことの方が、私には辛かった。
そして、彼女が悲しんだことが悲しかった。
その時、私は思い出した。
何を大事にしていたのか。どうして、朗読者であることを隠していたか。何を恐れていたか。何を失うのを恐れていたか。
全て失う一歩手前だった。
ツエノが死んだら、一体私はどうなってしまうのだろう。私には何が残るのだろう。
慣れてしまい、もう、そんなことでは壊れない自我だけ。もしかすると、それも無くなってしまうのではないか。
そしたら、もう私は死んでしまおう。
私は、ツエノを愛していた。
彼女にもらったものが多すぎた。私が人間でなかった間に、彼女がそれをくれていたのだ。
私は、人を人と思わないようになっていた。そうしようとしていた。
捕えた人間を、痛めつけた。悲鳴はただうるさいものだった。
彼女だけが私の特別だった。私の世界の外にいた。絶対に届かない不可侵な場所に、彼女はいたのだ。
彼女の全てに意味があった。大事だった。
そしてその彼女も、もう死んだ。殺された。
誰がやったのか。二通りしかなかった。根島国の裏の軍の人間。もしくは、塑山の人間。
私が殺した者がどちらの人間だったか。それによる。
軍が捕まえたその男を、私が殺してしまったのだ。北風島の北部だった。人種としては、根島国の人間だった。あの男がどういう人間だったのか。一つも記録がなかった。身分証は、でたらめなことが書かれた偽物だったのだ。
彼女が死んだら、私には何も残らないと思っていた。
無口で、愛想のないツエノとすごした、断片的な記憶。少しずつ明るくなっていくツエノ。彼女から聞いた、彼女の半生。
やはり、自分の命などどうでも良かった。
あれから、私は時々指輪をはめるようになった。思い出すだけで、生きる理由に他のものはいらないと思った。本当に大事な思い出だ。それだけで、生きなければと私は思った。
だが、今の私はどうだ。仕事を、任務を、欲している。
私は欲が深い。
思い出は、今も十分美しい。
それに、今でも彼女を愛している。




