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大事なことだけを話し、そして聞いたつもりだ。でも、まだ足りない。一広が何を言っているのか、まったくわからないのである。
「私はそう思っているんだ」
何を言い出すのか。それなら、ミラモの記憶はどうなる。なぜ、ミラモは一広高士という人間のことを知ることができたのか。そして、もしそうだとしたら、どうやって新世界へ来たのか。いつ来たのか。
シイカは黙り、少し考えた。
さっきの一広の言葉を信用するとする。やはり、一広自身も区別がつかなくなっていることには、完全に気付けていないのだろうか。
体が重い。
シイカは、止まってしまった。
僕が立っているこの場所は、本当に新世界なのか。一広の背中を見る。一広は自分が足を止めたことに気付き、振り返った。
疑う。
何を疑っているのか自分でもわからないが、シイカはその目で、一広の目を見る。
「夜が来てしまうよ、シイカ君」
靴の底で砂利が転がり、硬い音が鳴った。無意識に後ろへ退いていた。
「いいかい。君はちゃんと帰るんだ。わかるね。あの金属で体を包むんだよ。それで、向こうへ帰るんだ」
変わらない、落ち着いた様子で、一広は言う。
「これまで書いたあの話がどこまで本当かは、私にもわからなかった。だが、君と今日話した限り、おおよそのことは間違っていないのだとわかった。もう、私は死ぬだろう。嫌なものを見る前に、早く帰りなさい」
砂の転がる音。一広が、体の向きを変えた。
左へ歩を進める。海と反対。大きな通りへ出ていく。
遠くが見えなくなっていた。錯覚じゃなく、本当に夜が来たのだ。
シイカは全てに身構え、一歩も動けないでいる。通りを渡る一広を目だけで追っている。
地図を思い浮かべる。さっき壊してしまった看板に書かれていたものだ。
この道を渡れば、どこからでも炭岡町へ行ける。
「何をしている。早く、帰りなさい」
全部わかっているような一広の口調。まるで、決まっているかのよう。小説通りと
でも言うのか。つまりそれは、未来すら知っているということじゃないか。
その人の過去も未来も、全部知っている、朗読者みたいだ。
前方。真っ白な光が点る。
「金属を呼び寄せるんだ。自分の周りに。君の世界でもやっているように。同じだよ、シイカ君」
「一広さん、あれ、車です。こっちへ来ますよ」
光が、海沿いに立つ小さな平屋を飛んで、こちらへ向いた。細かな線が強烈に眩しい。
「危ないですから、こっちへ来てください」
シイカは大声を出した。一広は近くにいる。だが、とても遠くへ向けて叫んだ気がした。
車が音を出した。
警告しているのだ。
「あの車も金属だ。ほら、こう、手をかざすんだ。似ているだろう。君たちのやり方と」
一広は道に立ったまま、そう言った。
狂っている。
車は、もうそこまで来ていた。光に照らされて、一広が大きな影を作る。車は音を出しながら、左へ曲がった。一広を、避けるように。
「あそこは昔、弁当屋だったんだ」
ほんのわずか、首を左へ回したが、シイカはどれのことを言っているのか理解できない。
「そんなことはいいから、早くこっちへ」
連れ戻せ。一広さんは、おかしくなっているんだ。
思った。
それだけだった。
何かにぶつかったかのように、いきなり車の尻が跳ね上がる。音はなかった。
車は横に倒れ、転がる。
白い光の線が左手の建物を映し出す。
一広の方へ転がっている。赤い光。車の下から出ている。
「物語はここで終わるんだ。私が勝手に終わらせるだけなんだが。そして、旧世界へ行くんだ」
同じ調子の一広。一広の顔は見えない。
死ぬ。
死んでしまう。
シイカはもう立っていなかった。音はしない。ただ、その場にしゃがみ込んだだけだ。
視界の左へ長く伸び、回転する光。だめだ。僕は朗読者じゃないんだよ。
半分跪き、手の平もべったりと地面につけている。だが、シイカは顔だけは上げていた。一広、そして自分にせまってくる巨大な塊。
なんで、死のうとしているんだ、一広さん。
手の平に砂の感触がある。
見ている。
この人じゃない。ここはミラモの言う新世界なんかじゃない。この人はミラモじゃない。
僕も同じだ。あるのは思い出だけで、先なんて見えない。いや、もうどうでもよくなっていた。だから、死ぬのも怖くなかったんだろう。
自分にもせまってくる、死。
せっかく、助けてもらったのに。
あの時みたいに、助けて。ミラモ。
それは、まぎれもない召喚だった。
あんなふうに。
上に、軽くなる。翼竜の召喚だった。
手には何もない。シイカの指先についていた砂の粒が、下へ落ちる。
無我。
シイカは気を失いながらも、まだ見ている。
空が丸くなる。
そして、一広が遠くなる。
シイカは呼んだ。
翼竜は、確かにシイカの肩をその両の爪でつかみ、体を宙へと浮かせた。
一広だけでなく、新世界が遠くなる。シイカはまだ見ているつもりである。無意識にその方向へ伸ばした手は、空を切る。もう、決して届かない距離である。そして、遅い。
互いに、別れの言葉もない。
一人の老人は、自らの人生に幕を下ろす。
不格好な翼竜はシイカを放り出し、形を留めたまま粉と化した。むしろ、元の形に還ったと言うべきか。
積もるどころか、旧世界では北極大陸と南極大陸でしか見ることができない、雪。散りながら、小さな光を返す。形を失っていく翼竜は、そんな感じに見える。
そして、二つの世界の間を漂う少年は、今まさに彼が来た世界へと帰っていく途中である。そこでは、見上げるも見下ろすもない。だが、シイカは見下ろしている。ミラモの呼び出した翼竜の背から、ミラモと共に。
北風島の昼の風景。うっすらと北へ広がっている、塑山。
夜の黒い海に浮かぶ、自分を捨てた両親。
シイカの手の平の大きなしわの間には、まだ細かな砂利がこびりついていた。




