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妻が死んで、十一年になる。
トルストが五歳年上だった。
もう失うものはない。そういう人間は扱いやすい。
危険に身を置きたがるし、恐れず、執念のようなものを持ち、仕事にそれをぶつける。
自分がそうだから、よくわかる。朗読者にはそういう者が多い。だが、シイカは違う。
それに、魂を削るような生き方をするには、早すぎる。今年で十五になるのである。まだ、ただの民として、普通の幸せを大事に生きていくことも、可能だと思うのだ。
ずぶ濡れでトルストは歩いていた。
雨は、雲が最後に持った水を全て落とし切るような勢いに変わっていた。
門番の男に黒い板を見せ、橋を渡る。そこで翼竜を呼び出した。
行く前に、シイカに言うべきだろう。はっきり断言できるようになったのだから、伝えるべきだ。自分の中では確定していたことだが、さらに塑山国内で捕まえた者から、直接聞き出したのだ。
それは、ミラモが塑山に殺されたということだった。
万が一、自分が壬海で死んだら、一生、それは不確かなままになってしまう。
雨は、まだやみそうにない。翼竜は低く飛んだ。
いや、もう少しだけ考えよう。シイカがこれからどう生きていくつもりなのか、先に聞くべきではないだろうか。
そもそも、自分はそこまで踏み込んでよいのだろうか。もし、自分が国の人間でなければ。いや、もしと考えるのは止めよう。
もし、は有り得ないのだ。
シイカに世話をする人間を雇わせるという手もあるな。
海の上。翼竜は、さらに低く飛ぶ。
トルストの四肢が、不意に硬直した。
体の内側に、ふわりとした感覚が生じた。
練成なのか。
わからん。これはなんだ。私は、何を見ている。
ミラモか。
トルストは、感じ慣れた気配に気付いた。
ここはお前の記憶の中なのか。
声に出しているつもりだが、トルストの体は硬くなったままだ。だが、翼竜は飛び続ける。
何か書き物をしている老人。
背にミラモを乗せ、飛んでいる巨大な翼竜。
視界に、海の拡がりが戻ってきた。
トルストは右を見た。赤くない。
何も映っていない。夕日が消えた。
「お前」
呟いた。トルストは自分の声を聞いた。それから目を閉じた。
片方は、ミラモの持っている新世界の記憶の断片だ。
そして、もう一つは実際にここで起きたことだと思う。
あの時、血だらけのミラモを乗せた翼竜は、城内に降り立つとすぐに消えたらしい。練成で残った余力だけで飛んでいたのだ。
トルストは翼竜を止めた。少し、高度を上げる。それから、南の方へ少しだけ体を回転させた。
閉じたままのトルストの目がわずかに動く。翼竜が飛んだ軌跡が見える。
高速で映像が進んでいく。進んでいるはずだ。だが、見える翼竜は後方へ前を向いたまま飛んでいる。
その背中で、仰向けになったミラモはまったく動かない。
死んだミラモを乗せ、翼竜がただ飛び続けていた。もう、塑山が見えそうなほど北側まで見た。
眩しく感じる。
トルストは目を開ける。たった今、自分の見たものの正体が何であるのかは定かではない。だが、確かな実感が持てる。絶対と思えるほどそれを疑えないのである。
トルストは、それら全てをミラモの意志によるものと思った。
幻かもしれないのだが、ミラモの意志に間違いないと思うのである。
空に、光が生じた。
途切れ途切れに雲間を抜ける光は、海までは届かず、おだやかに辺りの景色を照らす。
ミラモ自身の言葉は、一つもなかった。
「普段は余計なことばかり、だらだらと話していたくせに、こういう時だけ無口なのか、お前は。だらしのないやつだ」
宙に浮いていた翼竜が羽ばたき、空へと舞い上がった。そして、北を向く。
「おい、何か言ってみろ。ミラモ」
なんとなく、化けて出てみただけですよ。
あの男ならそんなことを言いそうだ、とトルストは思い、少し笑ってしまった。




