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こんなところで眠らないでください、真結様。
女の声を聞いた。
そして、肩を揺らされた。腹が立った。
「お前が悪いんだろうが」
目を閉じたまま、真結は言った。ああ、こいつはそういうやつだった。
「川へ行って、体を洗ってきます。あと髪も」
「おい、やめろ。ここは根島国だぞ」
たとえ、鉈欧であっても、それはおかしいだろう。
体を起こしながら、真結はそう思った。
久光が困った顔でそこに座っている。
今、何時だ。そういえば、この建物の中で時計を見ていない。
「お前、時計を持ってるか」
「当然です」
言いながら、久光は肩掛け式の鞄から小さな時計を取り出した。朝の七時半だった。
「敷地内には、ただで使える風呂屋がある。そこへ行け。あと、街へ出て、根島国で着てもおかしくない服を買ってこい」
「要人という扱いになっているのですか、真結様は」
「いや、身分はもう公になっているだろうが、俺は人質だ」
「こんなに自分勝手で傲慢な人質などいません。家まで借りて。食事はどうしているのです?」
「国がやってる飯屋もあるんだよ」
「何が、おもしろいんです?」
「お前だよ」
自然と、真結は笑っていた。
おかしさより、感じたのは懐かしさであった。
色のついた、いくつかの映像が真結の頭の中を流れた。
家を出て、広場が見えたところで、久光と別れた。既に、行き交うほどの人の数がある。そのほとんどは役人である。兵は、また別のところにかたまっているのであった。
犬やふくろうを連れて歩いている、異国独特の容姿の若者だ。百人は座れるであろう広い飯屋でも、真結は目立っていた。
だが、話し掛けてくる者はおらず、皆、見つからないように目だけを向けるだけである。
トルストに言われてから、寝起きしている家からすぐ近くまでしか出歩かないようにしていた。広場より南へは足を踏み入れていない。とは言っても、それは昨日の話であった。
閉じ込められることには慣れているから、大して苦痛でもない。
家へ戻ると、道にトルストが立っていた。
「まさか、一日中そうやって見ているわけではないでしょう?」
「竜廓の街であれば、それなりに外へ出ることもできるようになりました。この敷地内もです」
「一人、連れが到着したので、教えておこうかと思うのですが」
「どちらに?」
「見ためは根島国の人間ですから、問題ないと思い、近くにあった風呂屋へ行かせました。泥だらけだったもので」
「既に、この敷地内に入ったのですか?」
「私の護衛です。女の朗読者で久光といいます」
「この建物の周りは、それなりに人を配置しておいたはずですが」
「まあ、朗読者ですから、それなりの術はあるでしょう」
真結は上を向いてそう答えた。
「私を疑う以外に目的がないのであれば、トルストさんが他の仕事に回っても、問題は生じないと思いますが」
「人は、必ずつけます。その場合、向山様に気付かれぬようにですが」
トルストの目線が自分の後ろへ回ったので、真結は振り向いた。
肩につくかつかないかの髪を濡らしたままの久光が歩いていた。
着物はまだ、さっきの泥だらけのままだ。
「あれです」
「鉈欧の人間ですか。それとも、生まれは根島国の者ですか」
「生まれは星老です」
周りの人間は皆、久光を見ていた。
男しかいないのでよく目立つ。久光が走ってきた。
「お前が来るまでというか、昨日一日俺を守ってくれた、ロイ・トルストさんだ」
「真結様は私の雇い主ですので、どうかお引きとりください、さようなら」
久光が、鋭い目つきでいきなりそう言った。
「トルストさんは国の人間だ、あほが」
「頼もしい護衛ですな、向山様。監視の人間は、常に数人つけておきますので、ご了承ください」
「真結様、あの男とあの男です」
久光が指を差し、そう言った。トルストは苦笑いした。
「裏切り者は殺しましたゆえ、ご安心を」
思い出したような感じで、トルストはつけ足した。
「そうですか」
「ですが、そういう人間は常にいるとお考えください。塑山の人間は、そういう汚い手を平気で使ってきます」
「塑山のことなら、分家の私の方が詳しく知っていますよ、トルストさん」
真結が言うと、トルストは返事に困ったようで、少し頭を下げた。
「お前は黙ってろ」
久光がまた何か言おうとしたので、先に真結はそう言った。久光は口をとがらせてトルストをにらんでいた。真結には大体、久光が何を考えているのか予想がついた。
「一、二ヶ月、様子を見るでしょう。すぐには軍を動かせません。ここは守りには良いのですが、攻めには向いていません」
「星老か壬海。首相はどちらに軍を置くつもりですか?」
「それは私にもわかりません」
「私は、のんびりと待ちます。ここはいいところです」
「では、何かお知らせすることが出てくれば、また、私が伺います」
頭を深く下げ、トルストは去っていった。
「真結様、風呂屋へ行ってきたのですが、ちゃんと女湯もありました。人は私だけで、様式も鉈欧と同じでした」
「わかった、わかった」
「やはり、暑い国ですね。湯はぬるくて、水のようでしたよ。あ、でも石鹸は良く泡が立ちました」
「後で街へ出て、お前のと俺の服を買う」
真結は家へ入り、煙草に火をつけた。まだ久光は何か言っているが、真結は黙っていた。
久光の口調が変わった。横目でそちらを見ると、久光は犬とふくろうに向かって何か言っていた。
二匹が話を理解しているのかいないのかはわからないが、自分のかわりに聞いてやっているという感じに見える。
真結は二匹のリムに同情しながらも窓から顔を出し、煙を吐いていた。
久光の持っている新世界の記憶は、まだ字も読めない男の子供だという。
記憶が朗読者の性格に何らかの影響を与えるのは、間違いないだろう。
その一方的な会話は、まだ続いていた。




