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決して忘れることはできないと思う痛みさえも形を変え、逆に自分が忘れていた美しい思い出がその痛みらしきものを覆って、何もなかったようにしてしまう。
残るのは苦しんできたという過去だけだ。
しかもそれは長い年月のような重さを持っているものではなく、一枚の紙に収まってしまうほどの軽々とした事実にしかすぎないのである。
そしてその美しい思い出もすがって日々を生きていくには、少なすぎるのであった。
アウル・ダッタンの、五十七年の人生。
全てが風化していく時の流れである。
それを真結が忘れることは、決してない。
飯屋へ入り、それからそのまま茶屋へ行き、日暮れを待った。
茶屋には二度、軍人がやってきて、客をじろじろ見て、店主に何か言っていたが、真結は知らない顔をして煙草を吸っていた。
齢や容姿も伝わっているようだが、気付かれなかった。
供を連れていると思っていたかもしれない。
二人組みに注意を払っていたように思えた。偽装が効いたようだ。それに、犬もふくろうも今はいない。
茶屋を出ると、尾を引くように辺りが明るかった。もう、日は見えない。
さっきまでそこに太陽があったであろう西へ、真結は歩を進める。家ばかりで道が細く入り組んでいる。
独特の匂いがした。真結は鉈欧の東にある漁村を思い出した。まだ見えないが、そこに海があるのだとわかる。
三つほど前の路地から犬が顔を出した。体が半分見えたところで、犬の足の間から猫が現れた。
「おい、何を連れてんだよ、お前は」
だが、猫はいきなり駆け出し、道を横切って見えなくなった。上からふくろうが降りてきて、犬の背中に乗った。
「黒猫かよ。お前ら、わざとか」
当然、二匹は答えない。上の空のいつもの表情で真結の方を見ている。
歩きながら、煙草を取り出し、一本吸った。人の通りはない。それぞれの家の中からは声がする。
家族。
無縁で自分には必要ないものだ。だが、それがおかしいということは、わかっている。多くの民にとってはかけがえなく、大切なものであるのだ。
一口目のその煙を吐くまでは、声の主が敵国の人間であるということを、真結は忘れていた。
少し早足で通りを抜けた。
しばらく南へ進むと、急に風が強くなった。潮のにおいも強くなっていた。まだ明るさを残した夜の空に雲はない。風は、時々強く抜けていく。
初めて、下に景色が現れた。
前が海だと勝手に思っていたが、違った。真結がいるのは長い坂の上であった。そこから、海に向かって真っ直ぐつながっている。海の拡がりが、確かに見える。
なんだ、やっぱり簡単じゃないか。
「おい、動くな」
真後ろから聞こえた。
かちり、という金属音。
真結は海を見下ろしたまま、動かない。
靴が砂を踏み、こすれる足音。一人か。
「お前、ここらじゃ見ないな。その犬と鳥。知ってるぞ」
軍人じゃない。
「はぐれてしまって僕も、困っていたんですよ」
「何?」
真結の声には、まだ幼さが残っていた。
真結はゆっくり振り返った。
散弾銃を持った男がいた。ここらの住人だろう。
「鉈欧の王族の人間か」
ばれてるのか。
足元のふくろうが飛び上がり、銃をはね飛ばした。真結の足元に落ち、それを拾った。
「そうだ。だが、あんたには関係ないことだ」
銃を手に持ち、顔を上げる。もう、嘘をついてやりすごそうという気は、真結にはない。
男の口元が、不自然に引きつった。
久しぶりに体感した。この男は塑山の人間で、俺はこの国の王族の分家の人間なのだ。
銃口を向けられた恐怖などではない。男のそれは、侮辱を示すだけの笑みであった。
「掻き切れ」
真結が静かに呟くと同時に、犬が跳ねた。
男が一度だけ、何か発した。犬の上顎の犬歯が小刀ほどの長さになり、自身の前足の付け根辺りにまで達している。それが赤くなっている。
男はその場でひざをついた。まだ生きている。
ここでいいか。もう、海だ。
手早く二匹の皮を脱がせる。そして、ふくろうと犬のむき出しになった銀色の体をつかむ。
ふくろうが犬の背に乗ると、足が溶け、犬と一体化した。それから、体も溶ける。
翼の生えた犬になった。
練成。
真結の腰から首にかけて、胸当てのようなものが生じ、包み込んだ。さらに、練成を加えていく。背中の部分に翼が生えた。
男はまだそばで、地に伏しながらも手を動かしていた。
その左手の薬指に指輪があった。
「残念だな」
犬と真結は助走を始めた。翼を動かす。そして、足が離れる。宙。そして、空へ。
なんだか、嫌な気持ちが残ったな。
最後の最後に。
高度が上がる。
真結は慣れない風に目を細めた。




