#007 魔法に触れよう
「ねえ。ねえってば」
翡翠色の瞳がじっと俺を覗きこんでいた。
シャーリーの眉はやんわりと下がっていて、心配そうな顔をしている。
俺としたことが考え込んでいるうちに船を漕いでいたらしい。
寝不足なつもりはないんだが。枕が合わないのかな。
「起きてる?」
「少しばかり寝てたかもしれん。大丈夫、シャーリーが飽きるまで付き合うよ」
「ありがと! ところでハムは魔法って使えるの?」
「いいや。使えたらいいのになあ、とは思うけどな」
この地へ飛ばされて今日で早くも十四日目。二週間になる。
このルヴェリアなる世界に『魔法』の概念があるのはもはや明らかだった。
実際に目にしたことはなかったが、様々な書物に『魔法』の名は登場し、果ては読み古された雑誌にも記述がある始末。
ここまでされて『そんなもんは無い』と頑なに思い込む方がよっぽどアホらしい。
地球じゃ『良く出来た科学は魔法と見分けがつかない』と言われていたが、こっちの魔法は正真正銘の『魔法』である。
杖の先からピーッと光線を放ったり、遠く離れた相手が爆発したり。
氷柱をじゃんじゃか作り、稲妻が轟き、擦り傷がぱっと治るホイミ的なことも可能であると書には記されていた。素晴らしい。俺のイメージ通りの魔法だ。
「でも、ハムは魔法の本を持ってるじゃん。使えないんだ」
眠気を追っ払うように髪をバリバリ掻き、ゆらゆら揺れるカンテラの中の火をぼーっと見ながらに俺は言う。
「持ってるからって使えるとは限らないんだ、シャーリー。ただ趣味で持ち歩いてるって可能性もあるだろ? それにだ。そもそも魔法が使えるんなら、俺は今すぐにでもここを飛び出して外の世界に――……って今なんて言った?」
「だから、魔法の本、持ってるじゃんて」
桃色狐耳の美少女がなんて言ってるかよく分からん。
俺の所持品といったら黒色ボールペン一本に翻訳効果つきの液体が詰まっていたガラス瓶のみ。
魔法の書……おそらくガフが送ったとかいう<賢い本>だろうか。そんなものを目にした覚えは今日までの二週間で一度も無い。
俺の八の字眉を目にすると、、シャーリーは論より証拠と言わんばかりの顏をした。
「ちょっと待ってて」
席を立ち、俺のベッドに駆け寄ると枕カバーを引っぺがし、中からずるりと一冊の書物を取り出して小走りに戻ってくる。
「はい、これ」
「な……こ、これは……!? <賢い本>!?」
「どう? ホントにあったでしょ」
大口開けた俺の手に収まったのはまさにガフのメモに記述されていた三種の神器のひとつ、<賢い本>であった。
何故にこんなシンプルな名称がついたのか。
そして俺がすぐさまにわかったのか。
その理由は一目瞭然、厚みのある表紙にでかでかと『かしこいほん』と記されているからで、それ以上も以下もない。
「マジか……」
大マジよ。なんてどこかで耳にしたようなやり取りを流しつつ俺は広辞苑程度の厚みをもつ<賢い本>をぱたりと開いた。
「中に何が書いてあるの?」
「んん、ちと分からん」
と、言うのも中に記されていたのは意味不明の図形に何かしらの前提知識を必要とする長ったらしい文字列の集合体だった。
俺が期待していたのは、格闘ゲームのコマンド表みたいなお手軽なガイドブックであり、凄まじい専門知識の記された広辞苑ではない。
そりゃまあ、勉強しつつ時間をかければこの英知を我が物に出来るのだろうが、
「どうにも長い目で構えた方が良さそうな代物だな」
エーテルの扱いやらマナの意識などなど。
ゲーマーの趣味があったが故に、ある程度の単語は分かる。
だがそれ以外はさっぱり。降参だ。
俺には到底意味の分からん、長々とした文章の他にはやたらに上手い挿絵がページの部分部分に挟まれていて目を引いた。
とりわけて<召喚魔法>と記された章のものは都市よりもデカい巨龍やら、天を突かんばかりの巨人に口だけの異形天体と、俺の心の奥底に眠る中二的な部分を刺激してやまないイラストが目白押しであった。
人生で一度はこんな物凄いことをしてみたい。
<召喚魔法>とやらを修得すれば出来るんだろうか。
年甲斐もなくワクワクしちまうね。
「で、ハムはやっぱり魔法使えないの?」
シャーリーの瞳はキラキラとした期待の光線を放っている。
「いやこれならそのうち使えそうだ」
とは言ったものの根拠は薄い。
「ほんと!? その時は見せてね!」
「使えるようになったらな。そんくらいお安い御用だ。……多分な」
しかし、手が届きそうで届かないというのはどうにも歯がゆい。
いっそ知らない方がまだ幸せだったと思うのだが、一度存在を知っちまえばもう無視は出来ず、俺は日々農耕作業に追われながらにどう解決していいもんかと悩みに悩んだ。
ああいったもんは専門家に助けを乞うのが手っ取り早い。
が、そんなインテリは緑豊かで牧歌的でやたらに筋骨隆々とした連中の多いこの村にはひとりも居ない。
「どこぞの現職魔法使いにでも聞ければ手っ取り早いんだがなあ。しかしこんな場所に遊びに来るような人間は居ないだろうし、どうしたもんか。あ~っ来てくんないかな。凄腕の魔法使い。そんでもって俺に魔法ってもんを教えてくれ」
頭上を流れる巨人みたいな入道雲へとそんなことを呟き、聞き届けたか届けてないんだか知らないが、モクモクとした雲は千切れて消えた。
願いは虚しく雲とともに消え、現実にはやっぱりそんな上手い話があるわけねーとオチ……、
……なかった。
世の中ってやつは本当にどう転ぶか分からないもんである。
この発言が呼び水になったのかどうなのかは分からなかったが、かつての俺はこう確かに言った。
『希望っつーもんは黙っておくよりも口に出した方が良い場合が多々ある』、と。
一度目はこのルヴェリアへと連れ込まれる切っ掛けのイベントが発生し、そうして二度目は俗に言う運命の出会いってやつを呼び寄せちまった。
まさかとは思うが、俺、呪われちゃあいないよな?