#006 気付かない方が幸せな場合は多々あるもんで
翌日以降の俺の日々は住み込みの家庭教師みたいなもんだった。
日中は畑で汗水流し、陽が沈めばロウソクを立てたカンテラを頼りにシャーリーと二人でルヴェリアの公用語だとかいう文字で記されたハードカバーを読みふけった。
「お母さんは字が読めたんだよねえ。居なくなっちゃう前に教えてもらっておけば良かったな」
と、シャーリーは頬杖つきつつ尻尾を振りつつ言った。
オーディンファイア家の家庭事情。
居候の俺がずかずか踏み込んでいい話題には思えず、適当に流すつもりで「そーなんだ」と棒返事をしたのだが彼女は身の上トークを語りはじめた。
俺の耳にはシャッター機能などついていないものだから自動的に聞いてしまうわけで。
やれやれ……。
いわく、彼女の母にしてオヤジさんの奥方はふいっと旅に出たらしい。その目的は娘には伝えなかったが、実は事情を打ち明けられていたらしい父親が後々話したところによれば『世直し』をするために旅立っていったようだ。
一村人にどんな世直しが出来るのだろうと俺は疑問に思ったが、彼女の一族のとある特徴を目にして意見を変えた。
以下はこりゃいかんなと思ったその事例。
「ハムー! ちょっと遊ぼ!」
一年越しの夏に虫取りに出かけようとする少年みたいに実に良い笑顔をしてシャーリーが言う。彼女の手には白色のボールが収まっており、サイズは丁度バレーボールぐらいのもんだった。
「ボール? キャッチボールでもするのか?」
「それがどういうのか分かんないけど、ボールを投げ合うの! いくよ!」
部屋ん中でやるような遊びじゃなかったが、一度キャッチしちまえば後は俺がガラクタ箱に突っ込んじまえばそれで終いだな。
俺は片手をぷらぷら揺らし、心底何気ない顏で準備完了を告げた。
「いいぜ。オ――、」
ぼっ、と。
何かが俺の耳をかすめて頭の真横を通り過ぎ、背後の木造の壁を突き破り、外に広がる木をなぎ倒していった。
「――……ライ」
半目の顏で完全にフリーズをした俺の目が捉えたのはボールを投げ切った後のシャーリーであり、彼女はてへへ、と笑って舌をちょろりと出した。
「またやっちゃった」
やっちゃったってあんた。
油を差していないロボットみたいなキッツイ軋みの音を立てて振り返った俺が目にしたのは、円形にくり抜かれた壁であった。
ふるえる指先で耳に触れつつ確認をした限りでは、穿たれた穴の縁は微妙に焦げ付いていて、これをまともに喰らえば仏さんに身を変えていたことは言うまでもないな。
聞けば彼女本人のみならず、両親とその先祖共々がいわゆる『怪力』の家系だという。
普段はやたらめったらに壊さないように気を使い、繊細な注意のもとに生活をしているんだとはオヤジさんの弁。
『毎度農具を壊してたら割に合わねえからな! ガァッハッハァ!』
と、彼は豪快に笑い飛ばしていた。
つーわけで、シャーリーの料理下手の実情もうっすら分かってきた。
調理器具に力を込めて一品作ろうものなら器具が破壊されるからだろう。
母親はそのあたり上手くやっていたようで、なればその娘であるところのシャーリーもその内上手になるんだろうが時期は未定。
ちなみに料理スキルの上昇幅も不明瞭。
「何ぼーっとしてんの? 続き読んで、続き」
女の子らしいやや高めの声に俺は意識を引き戻された。彼女は書き取りを終えていて次の課題を今か今かとやる気に満ち溢れた顏で待ちかねている。
「はいはい」
「はい、は一度でしょっ!」
背中をばちりと叩かれる。
ここで俺が吹き飛ばされ、地中深くにめり込まない辺り彼女が手加減をしてくれているのがよく分かる。
この心遣い、感動もんだね。
俺とシャーリーが目下のところ熱心に視線を注いでいるのは<ルヴェリア近代史>と題された、撲殺用に使えるんじゃないかと思うぐらいに分厚い一冊だ。
文字ばっかり追っていて頭がこんがらがるのを防止するためか、表紙の裏には手書きの地図が折りたたまれていたらしいのだが、何故だか半分以上が千切られていて使い物にならなかった。
期待の眼差しをぎらぎらと注ぐシャーリーの視線を頬に受けつつ、俺は読み止めていたページへと目を戻した。
「えー……どこまで読んだっけ」
「超魔王をバシッとやっつけたとこ!」
そういやそうだったな。
「えー……『北方を拠点としていた超魔王は<明星の鳥>と名乗る英雄の一団に滅ぼされた。彼らの活躍により、昨今においての魔物の活動は沈静化の傾向にあると見られている。だが一方では、首魁を欠いたはずの魔物が水面下で力を集結させているとの見方もあり……』」
「なんだか分かんないけど、スゴイってことは分かるわ!」
「そりゃ上出来だ。で、この字は……こう書く。何度も繰り返し書くのも悪かないが、記憶に関連付けて覚えるとはやいぞ」
「分かった。ありがとう、ハム!」
力を押さえて適当な羊皮紙に文字を書きなぐるシャーリーを横目にして、俺は地球のそれとはまるで違う世界の歴史にすっかり夢中になっていた。
剣と魔法。
冒険者と魔物。
騎士と竜。
勇者と魔王。
そんなもんが大真面目にあるこの世界は実にすばらしい。
歴史年表によれば、つい最近まで世界の北の方では『超魔王』を名乗るとんでもない野郎が君臨しており、世は割合に恐慌状態にあったらしかったのだが、やはりというべきか対抗馬として現われた勇者ご一行によってその超魔王はやられちまったようで。
蜘蛛の子を散らしたように魔物の姿が引けたというのが、今シャーリーに読み聞かせてやった話の全文である。
ちなみにこの村の住民はそういった世情をぼんやりとは知ってはいるものの、そんなに詳しくない。
それが何故かっつーと、この村がとんでもないド田舎に存在しているからだ。
その田舎度合いときたら想像を絶するもので……図がないと説明しがたいな。
例えるんならRPGのワールドマップの端の端に開発者のご厚意で豆粒みたいに描かれた村(しかも見切れてる)といった感じ。
この村が所属する国家団体の首都とは、おそらく北海道から熊本ぐらい離れており、こりゃ一朝一夕には全国行脚は出来ねえなと溜息のひとつもつきたくなるような物理的な距離の差があった。
国民に認知されていないんじゃないだろうかとさえ思えるこの村は、以上の事情で世事の詳細には疎い。
だというのに、シャーリーの母親が何故に『世直し』の旅に出たのかというとやはり謎のままだが、世界を目にしたい強い好奇心に惹かれたってのもあるのかね。正解は分からんさ。
「ふんふふん……」
「出来たか?」
「もうちょっと」
「はいよ」
寝間着姿のシャーリーが鼻歌まじりに書き取りを続けている。
まるで知らない異国の歌だ。
ダンスの曲か? やけにテンポが速い。
しかし……亜人。亜人ね。
目にした当初は面食らったもんだが、しばらく見ている内にまるで気にならなくなった。人間の順応性たるや大したものだね。
と、彼女の後頭部辺りにちょいと飛び出たクセ毛を見つめているとふっと妙な考えに思い当たった。
来るべくしてきたとも言えるが、実際は閃きみたいなもんだったと思う。
頬杖ついてアホ面している俺の脳裏をよぎったのは、便座に頭を打ちつけて死んだ直後のこと――空飛ぶこたつ部屋での出来事だ。
漫画片手にドテラを着込んでいた女神ガフはこんな感じのことを言っていた。
『今のままでは転生なんて夢のまた夢。小さな虫にもなれませんよ。また人間として生まれ変わりたいのなら、功徳を積んで<人間善行ポイント>を貯めてください』
忙しない新生活に翻弄されるうちにすっかり忘れていたが、ガフのこの言葉に俺はあからさまな矛盾を感じていたのだ。
俺は人間への生まれ変わりを目的として、そのために必要な<善行ポイント>とやらを稼ぐべく異世界へと送られた。
だがちょっと待ってほしい。
そもそも一度くたばったはずのこの俺が、またも人間の形を得てこうして活動している以上、これはもう生まれ変わりを果たしたことになるんじゃないか?
実際の話、俺はシャーリー親子と暮らす現状で相当に満足しているしエンジョイしてもいる。
ガフの言う<善行ポイント>がどんな仕組みで加算されていくのかは不明のままだが、汗水たらして健康的な労働生活を送っている今は生のありがたみが分かっているからして、まさに善行というものだろう。
何なんだ、これは。
俺をこっちに送り込んだ女神ガフとその他神様連中の不手際なんだろうか? 本当は獣の姿で功徳を積むはずだったのか? あちら側のミス?
……いや、そんなわけがないよな。
これまで幾千幾万の魂のあの世行きを管理してきたであろう団体が、これといった取り柄もない平々凡々に足がくっついたような俺でも気付くようなミスを犯すとは思えない。
おかしい。
そのうえ怪しい。
考えれば考えるほどにうさんくささレベル、マックスだ。
この話には当事者である俺に知らされていないウラがあるように思えてならなかった。
言うなればこれは生まれ変わるための試練のようなもんであり、そいつを人間の姿でこなす理由が何かしらあるはずだ。
そう思うと自分が置かれているありとあらゆる状況が、事前に仕込まれたものに見えて恐ろしくなってきた。
あんまり考えない方が精神衛生上よろしいのだろうが今更無かったことには出来ない。
やれやれ。参ったな……。