#002 女神は語る
「――……はっ!?」
と、思ったが俺はこたつにすっぽりと収まっていた。
一体どうなってんだと思いつつも直前の記憶はやはり痛烈な衝撃であり、その内訳はこめかみ辺りのやばそうな部位に便座様の一撃を貰っちまったというものだった。
転倒する直前に俺の意識はホワイトアウトし、昇天を感じる時間も無かったのはちょっぴり無念だな。人生でおよそ一度しか経験できないというのに勿体ないことをしたもんだ。
それか、今この瞬間が地上から天界へと続く昇天演出中なのだろうか。
あずき色の布団を挟んだこたつの上には編カゴがちょこんと乗っていて、その中にはみかんとせんべいが突っ込まれている。
「好きにくつろげってことか?」
そうは言ってもな。
みかんのヘタへと熱心に注いでいた視線を外し、周りをうかがったところで俺は心底仰天した。その程たるやこの口から心臓がこぼれ落ちなかったのが奇跡に思えるほどだ。そりゃ何故って。
こたつが空に浮いている。
座布団の真下には綿あめみたいな雲が流れており、そのまた下にはどうやら地上らしき緑と黄土色、それから海の青色が途方もなく広がっていた。
どうなってんだこれ。絶景だと思う前にめちゃくちゃ怖い。
びびってのことか、無意識に足がびくりと動き、その折に俺のつま先が何かに触れた。
「なん!? 何だこれ!?」
つま先でぐいぐいと感触をさぐる。
柔らかな曲線が長く続き、平らな部分を越えると小さな突起に俺の指先が触れた。
これは……もしかしなくとも人の足だな。
周囲の絶景には驚いたが、こっちは心底からの恐怖を感じてしまった。
このこたつには俺以外の誰かが居る。
何だ。
誰だ。
俺とほぼほぼ同じタイミングでくたばっちまったどこぞの誰かか?
混乱の状態異常に見舞われた俺に追い打ちをかけたかったのか安心をさせたかったのかは分からんが、答えを授けたのはそいつだった。
「慌てることはありません。私ですよ、安心してください」
「いや誰だ」
声に聞き覚えはない。分かるのは美声の持ち主で恐らく女ってだけだ。せめて顏を出せ。
「誰だとは。やれやれ、無礼な輩が来たもんですね。どっこいしょ」
溜息まじりにぬるりと起き上がったそいつは唐草模様の半纏を着込み、片手に週刊漫画誌を持ち、寝ぼけた面した――美少女だった。
やっ、と片手をあげて気さくな挨拶をかます眉目秀麗なる女。
艶のある金色の長髪にやや丸みを帯びた幼さを残す顏のライン。
肌の色素がやたらに薄く、陶器じみた白さがあった。
目は糸のように細っこくて起きてるんだか寝てるのかいまいち分からない。
じっと観察に耽り、黙りこくっていた俺の反応をどう取ったか、彼女は「んん」とわざとらしい咳払いをひとつあげて。
「私です。死する者に導きを与える愛と希望の女神、ガフです」
ハッキリ言っておこう。
誰だ、こいつは。
「ガフ様です」
ジャンプのページを開いたまんまで彼女がもう一度言う。
女神だと? 俺の目には暇な月曜日の午後をこたつで過ごす留学生にしか見えんぞ。
「まあそう言わずに。今回はあなたに大事なお話があって、ここへお呼びしたんですよ。あ、これお茶です」
「これはこれは」
言って湯気の立つ湯のみが差し出されたが、俺が触れる前に女神の白い指先が陶器をさっとつかみ、呆気にとられる俺の目の前でぐいっと一息に煽りやがった。
ごとんと再び机に置かれた時には茶は一滴も残っていない。
意味分からん。
「本題に入る前にまずひとつ。あなたは死にました。死因は……ぶふ、これ本当ですか? トイレの便座って、あなた。あっはっは」
「俺の他にもそういう人が居るかも知れんだろ。というか笑い過ぎだ。張り倒すぞ」
「ええー……、度胸ありますねあなた……。女神を張り倒すなんて普通言えないですよ」
口をすぼめ、首をかきながらに女神が言う。神を名乗るのならばせめてそれっぽいロケーションに衣装を着てこようとは思わなかったのか、こいつは。
日本的衣装があまりに目につくもんだから場にも話にも緊張感が欠けている。
まあいい。アホな話はさっさと終わらせるに限る。
「俺が死んだってのはマジな話なのか?」
「大マジです。これを信じてもらわないと次に進めないので、嘘でも信じて下さい」
嘘って。
「こいつは何てことを言いやがるんだ……」
「ええとですね。まず、このままだとあなたはどこにも進めません。生前では『来世も人間になりて~』なんて希望を抱いていらしたようですけど、今のままでは虫どころかミジンコにもなれませんよ」
「はあ、左様で」
いまいち現実味がない。
そんな木っ端にもなれない俺はどうなってしまうんですかね。
回答は実にシンプルだった。
なんと驚き、字面の上では五文字で済む。
「消滅します」
「えっ」
「消滅します」
二回言った。
人の死後の行く先を管理する自称麗しき女神ガフ様によると、俺は輪廻の輪からほっぽり出されて虚無へと落ち、ぱぱっと消えちまうんだそうで。
まるでデスクトップのゴミ箱に放り込んだファイルを消しちまうような作業だな。
さて。放っておけば1ビットも残さずに消滅していたはずの俺だが、何故にこのようなタネの分からん空中浮遊こたつに半身を突っ込んで女神とタイマンで対談をしてるかというと、
「あなたにはやり直しのチャンスが与えられたのです」
とは女神の弁。
「やり直し?」
解らん。どういうことだ?
するとガフはこれまで何度も繰り返した言葉をまた口にするような、平坦かつスムーズな口振りで『やり直し』の詳細を俺へと告げた。
カンペをガン見しつつ言われるよりゃマシだが、この倦怠感あふれるお役所仕事みたいな口調はどうにかならんのか。
「あらゆる命は輪廻転生の流れに戻る前に、生前の行いを余さずチェックされます。善行の内容と数に応じて来世に与えられる姿が決まるんですね。ここであんまりに悪い結果が出されると消滅させられます。ここまでは大丈夫ですかね。ついてきてます?」
「まあ何とか」
実を言えば俺は『輪廻転生』のあたりで真剣に聞くことを放棄し、網かごの中から適当なみかんを手に取るとこれまた適当な返事を返しつつ皮をむき、冬の味覚を楽しむようになっていた。
普通にうまい。
「あなたも本来はそうなるはずだったのですが、私の上役の判断で消滅に待ったが掛かりました」
「そりゃまたどうして」
すると女神ガフの弁舌はぴたりと止まり、糸目の中で視線が彷徨ったような気がした。それからやや間があってガフが言う。
「し、しのびなかったからだそうです」
嘘くさい。
「本当のとこを言え」
「わっひょう!?」
足の裏を指先でちょいとくすぐってやるとこいつは素っ頓狂な声をあげ、一秒経たずにその真相を白状した。
「面白すぎたからだそうです! 足を滑らせた拍子にトイレの便座に頭を打ちつけて死んだ様子が、近頃気分が沈みっぱなしだった上役に笑顔をもたらしたので! せめてもの礼にと特例を出したんです!」
生涯においてお寒い男のレッテルを受け続けた俺だったが、とうとう死ぬ間際に他人を笑わせることが出来たとはな。
なんだか感動映画のオチみたいな話だが、笑いの発生キーワードは『便座』だという。こんな間抜けな話があるか?
むしゃくしゃをどこかにぶつけようとした俺は女神の足をしかと掴み、しばらく足裏をいじり続けていたのだが、しばらくするとなにやらヤバい感じに震えはじめたので手を離すことにした。
しばらくゼーハーと息を吐いていた糸目の美女が澄ました顏をして本題へと戻る。
「ま……また人間に生まれ変わりたいのでしたら、あなたは<人間善行ポイント>を稼ぐ必要があります。人として当たり前の道徳を尊び、美しき生を送り、人々に尊敬されるような清い日々を送ってください。そうすればそのうちポイントが貯まり、あなたは望みどおりの素晴らしき来世を迎える資格を得ることが出来るでしょう」
「つまり人生の素晴らしさとやらを体現しろってか。言いたいことは分かったよ」
よりにもよって人生という名のエンドレスマンネリループにうんざりしている俺にそんなお題が与えられようとはな。
こういう場合にふさわしい言葉は『不適任』、あるいは『ミスマッチ』。
「そうです。やっと素直な返答がいただけて私は嬉しいです」
そうかい。
実を言うと俺はほぼほぼ投げやりになっていて話半分も聞いちゃいなかった。
このまま放っておいても消滅しちまうなら、やっぱり頑張っておけば良かったと思うような後悔を含む諸々の感情は一切合切が無くなるのだから、いまさら必死こいて頑張る意義だって勿論ないだろうよ。
内心で頬杖ついて遠い目をしている俺の中には、前向きな熱意といったポジティブなエネルギーはこれっぽっちもありはしなかった。
では代わりに何があったか? それは未知の予感への昂りだ。
生前では尻尾さえも見ることの出来なかった非日常。
そいつがようやく今、目の前に現れ始めている。……ような気がした。
口元が緩みそうになるのをこらえ、俺は真面目ぶったフリをしてガフを見る。
「それで俺はどこでその善行ポイントとやらを積めばいいんだ」
まさか地球だったりしないよな?
前回と同じ場所だけは勘弁してほしい。
「安心してください。舞台はこちらで用意してあります」
いつの間にやら取り出していたリモコンを女神が操作し、こたつの遥か真下に広がっていた雲が倍速で流れ消えていく。
そして現れたのは教育番組で目にするような大自然の光景だった。
緑豊かな丘に灰色の山の峰、雲海を越えた先の砂漠の大地や魚が縦横無尽に泳ぎまくる海中の映像。
圧巻だった。俺は驚嘆を胸に覚え、こいつが仕込みでなく神の一人なのだとようやく信じそうに……おい、映像のグリッド線が見えてるぞ。編集するならしっかりやれ。
映像も終盤に差し掛かると大規模な都市の数々が映りこみ、どれもこれもが地球は現代世界の建築様式とは大きくかけ離れたものだった。
古都ヨーロッパや江戸を微妙にズレた解釈をしたような街並みだったが、意外なことに俺の胸は未知への期待に心が湧いてしまった。
しかし惜しい。
このどこからどう見てもめちゃくちゃにダサい、映像の四方八方からスライドインをしながらに自己主張をかましてくる明朝体のダサフォントを用いた紹介テキストが無ければ本当に良い仕事だったんだが。
「ま、ざっとこんな感じの場所です。楽しそうでしょう」
「生前よりは面白そうだ。ちょっとワクワクする」
「喜んでくれて何よりです。時間も押していますし早速参りましょう。何か質問があれば今のうちですよ」
糸目を俺へと向けた女神ガフがそわそわとし始める。
落ち着きのなさから察するに、どうやら新たな旅立ちの時らしい。
この女の性格からすると俺に黙って不意打ちをかましそうな気配さえあるから、聞きたいことはぱっぱと聞いておこう。
「この世界には魔法とかあんの?」
「ありますよ」
「魔物とか居る?」
「それはもう山ほど」
「ってことは勇者も?」
「真贋はともかくとして、結構な数がいますね」
「魔王も――」
「居ます。あなたの望むような要素は大概ありますのでどんと構えてください」
「そうかい。嬉しいね」
これだけあれば退屈することはなさそうだ。
「じゃ、また後で。素晴らしき人生を楽しんでください」
女神ガフは相変わらずの細っこい糸目を俺へと向け、最後にそう言った。
そして再度のホワイトアウト。
………………
…………
……
以上が俺的セカンドライフあるいは人生二週目へと至るプロローグである。
散々にお待たせして申し訳ない。
俺の第二の生、善行を積む日々における最初のイベントを紹介しよう。
女神の居座る意味不明こたつ空間を脱出して目を覚ました時。
俺は筋骨隆々な現地人の群れに囲まれていた。