#015 冒険(トラブル)の始まり
しめじの言葉があの後にどう続いたのかは分からなかった。
消える寸前にかろうじて見えた唇の動きから、どのような発音があったのかと正確に察するような読唇術の心得は俺にはなく、ならばと想像をめぐらせる他にはない。
エリ。
この音に続く文字とは何だ?
「……エリンギ?」
んなアホな。
考えた自分が笑うんだから世話ないよな。
しめじの本名がエリンギだなどと、ナンセンスが一周回ってむしろ味を出していると言える。
ま、この辺りは後でいくらだって考えることが出来るのだから、後回しにしたって全然構いやしない。寝る前にちっと頭をひねるには丁度良い問題だしな。
目下のところ、俺が最優先に解決すべき問題は他にある。
体の端から徐々に転送されていくという現代日本じゃおよそ経験できそうにないイリュージョン現象を我が身をもって体験した俺がその後にどうなったかと言えば、どことも知れない街のどうやら路地裏に立っていた。
片手に開きっぱなしの本を持ち、もう片手には二つの金バッジ。
『ちょっと待ってくれ!』とでも言いたげな微妙にあわてたようなポーズで立ち尽くす俺。
薄暗い路地の奥で突っ立っているところを誰にも見られなくて良かった。
軽く客観視をしただけでも満場一致で頭の可哀想なやつの姿だったからな。
しかし見るも殺風景な場所だ。
表通りから聞こえる喧騒の声は細くて遠く、湿った石畳の上でスズメによく似た小鳥がきょんきょん鳴いている。
一体どこなんだと半ば途方に暮れつつある俺が不意打ちのタックルをかまされたのはそんな時だった。
「おハムざあああああんっ!」
「うおおおおっ!? 何だ!? だれ……なんだ、ただのガフか」
「なんだ、じゃないでずよおおお!」
「やめろ! まとわりつくな!」
「うぅうぅううう……」
俺の腰を細い両腕で力の限りにホールドし、悲痛な鳴き声を漏らす女神候補に落ちた女。
一応は女性なので(つーか女神である)こういったことを正直に言っていいのかと、タワシで擦られるぐらいには俺の良心が痛むのだが、ガフの顏は鼻水と涙で見るも無残なありさまだった。
先にも言ったが、こいつがマジに神の一人なのかと思うと俺の気持ちは下降の一途をたどるものでいて、つまり今後の人生で信仰を得ることはないだろう。
「ひとっ、びとりで! どうしようかって途方に暮れてたんでずよおおお! わだじひどりでこんな場所に飛ばされで、ごれからどうじようっで、ああああっ何でわたじがこんなああああ! 上に帰りたいでずううう!」
ただでさえ土作業で汚れていた作業着が止め処なく流れる女神の体液でどろどろである。
なんてみっともない顏をしてやがる、と言いたかったが俺は口をつぐんだ。
俺とこいつはどことも知れぬ土地へと突然に飛ばされたのだ。
予告も無ければガイドアナウンスも無し。東西南北どことも知れん。
境遇を嘆く気持ちはまあ分かるし、ガフは天上から下界に突き落とされてまた転送をされるという、女神にあるまじきたらい回しの憂き目に遭っているのだから、そのショックたるや相当のもんだろうよ。
とりあえず鼻水拭け。
だがしかし。
俺という人間は今この場において、緊迫感とか緊張感なるシリアスなシーンに必須な諸々がいまいち欠けていた。
そりゃ何故かといえば。
「ああああああっ! もっ、もうどうじでいいか分かりまぜぇえん!」
俺の腰部分をホールドしてやまない、ガフの腰のあたりへと視線を真っ直ぐに向ける。
そこにはうっすらと浮かぶ赤いライン。――……際どい下着。
純真だとか無垢なイメージのある清廉な白いワンピースに、まさか際どい真紅の紐パンを合わせるとはな。
やれやれ、顔に似合わず意外と大胆な野郎だと賞賛を送る。
「なにが言っでぐだざいよおおおぉぉお」
一秒ほど思考する俺。
「――……ナイス紐パン。似合ってたぜ」
腰を万力のごとくに締め付けられ、内臓が一気に加圧された。
「おごえっ!?」
「なんで知っでるんですかあああ!」
ただでさえ酷かった泣きっ面が俺の一言で50%マシぐらいになっちまった。
人が珍しく良い顏して褒めたってのになんて野郎だ。
悲哀のただよう細い背中と、うっすら透けて見える赤い下着に視線を落としているうちに俺もなんだか暗い気持ちになってきた。
村では目覚めると同時に導線が敷かれていたようなもんだったから良かったものの、由縁も知らぬこの土地でどう動いていいのかさっぱり不明。行き先も不明。金も無い。
「しめじは『必ず見つける』と俺に言っていたが、そもそもの地理が分からんからな」
不安の二文字が書かれた巨大な紙が貼りつけられ始めていた俺の背中をちょいちょいと誰かが引いた。
まさか官憲か?
言い逃れ出来ない状況に冷や汗を覚えつつ、油を差していないロボットみたいにギギギと振り向くと視界いっぱいに桃色の毛があった。
「ここ、どこなのかしらね」
桃色の狐耳にくりっとした丸い目。
「うちの近所じゃなさそうだけど。ハムは見当つく?」
「……何でシャーリーまでここに居るんですかねえ」
左右にぴろぴろ揺れる狐耳娘に聞けば、俺が姿を消した次は彼女が転送を喰らう番だったという。
本人は胸を張って武勇伝を語る、みたいに調子の良い感じで特に気にもしていないように語っているがオヤジさんは気が気じゃないだろうな。
無事に彼の許まで送り届けなくては物理的・精神的にも俺の想像を上回る仕打ちを受けそうな塩梅だ。
「ガフさん、ねえ、泣き止もうよ。顏がぐしゃぐしゃだよ。ほら、あたしの服で鼻かんでいいから」
「うぅううぅ……んんん!」
遠慮も無しに豪快に鼻をかむ女神の頭を撫でまわすシャーリー。
見よ、これぞ慈しみと愛情の神たるに相応しい者の姿である!
なんてな。
神の役職を譲り渡すことが出来るんならガフは今すぐ代われ。
そうすりゃ女神信仰は皮算用でも三倍増は間違いないからな。
「とりあえずここから移動するか。泣きじゃくってる女にまとわりつかれている所を見られて、しかもそいつが路地裏ってのを見られたら気まずいし弁明も出来ん」
「泣いでまぜん……ずび……」
「刹那でバレるウソをつくのはやめろ」
三人でぞろぞろと通りへと踏みだし、未だ状態異常:混乱の残る俺たちを待ち受けていたのは……ヨーロッパな街並みであった。
石畳にレンガ造りの建物に往来人の身なりに煙突。
ファンタジーといったらこれだよな、的な街並みである。
しかしまあ、ゲームの類で散々見慣れていたもんだから驚きは思ったよりも少なかった。
そりゃ自分の足で立つとまた感慨深いものはあるのだが、先にも言ったとおりに『ファンタジー』っつったらコレが定番であるからして。
ここがインドやら古代アステカ文明的な趣きなら心底面を喰らったろうけどさ。
第二の故郷と呼ぶほどに近しいわけではないが、勝手知ったる近所を歩くような心持なので当面の困惑が薄らいだことは間違いないね。
「村とはまるで違うな」
とコメントをひとつ。
街の規模は分からんが昨日までの生活環境よりははるかに都会だ。
「ねえ、ハム。ここがどうかなんて、その辺のオッチャンかオバチャンに聞けば分かるんじゃないの?」
「そりゃ止めといた方がいい。記憶喪失かと思われて心配そうな顔を、」
「すいませーん! ちょっとお聞きしたいんですけどーっ!」
「ちょっとぉ!?」
俺が言い切る前にピンク亜人ガールは丁度目の前のパン屋で世間話をしているおばさん二人組を目掛け、ミサイルよろしくな速度で猛然と駆けて行った。
当たり前の話で主婦二人は面を喰らっていた。
が、なんと驚き、シャーリーがどんな魔法的な言葉を口にしたのかは分からんが二言三言で打ち解けた雰囲気が漂い始めているではないか。
恐るべきコミュニケーション能力……。
元気よく別れの挨拶をし、たかたかと戻ってきたシャーリー曰く。
「ここは<フータ>って名前の街だって。地図を見たいって聞いたら近くに本屋があるからそこで見なって教えてくれたよ」
「ありがとな」
一歩前進だ。
「ところで物凄い打ち解け速度だったがなんて言ったんだ?」
「『記憶喪失になってここがどこか分からないので教えてください』って言ったら親切にしてくれたよ」
「……そうか!」
素直が一番なんだなあ!
俺は深く考えることを放棄し、既に2リットル分の体液を流出していそうなガフの手を引いて書店へと向かった次第である。
異世界だからといって書店がエキセントリックなデザインであるわけでもなく、どこまでも普通の内装だった。
ちょっとは期待していたんだがそりゃそうだよな。
客は普通の人間だらけで戸棚の並びもまあ普通。
背表紙を飾る、魔法関連やらモンスター図鑑・飼育方法といった文言は新鮮だったが今は優先すべきことを優先しよう。
地図コーナーの前に立ち、指先で国別の地図をいくつか探る。
フロリア。ヴィントゴア。フィレニオ。シンダール。
知らん名前ばかりだ。
当然っちゃ当然なのだが、ここにはアメリカのアの字も無ければ、日本の日も無い。
「そういや俺たちの村はなんて名前だったんだ?」
ついでに国名も知らん。
「<ミコス村>よ。<ウーレ王国>の……これこれ」
シャーリーが背伸びをして<ウーレ王国領内地図>と題された大判の一冊を取り出した。彼女はぱらぱらと指先でページをめくり、見つけたよ、と言う。
見覚えのある国の形。なるほど、これがそうか。
「しかし本当に領内の隅っこも隅っこだな」
「誰も来ない田舎だしね。それで次はこの<フータ>って街の名前を探さなきゃ」
「手分けして探すか。ガフは……使いもんにならん」
「あいあい」
背後ですすり泣きを聞きつついくつかの国内地図の索引を眺めた。
それから体感で十分ばかり。
見当たらない。一体どうなってんだ?
「……何かお困りですかね」
見るに見かねたのか、ワカメみたいな髪形の店員がおずおずと聞いてきた。
この街がどこなのか調べていた、とバカ正直に答えるのは気が引けるのだがここは恥を捨て、シャーリーに倣って素直にいくとしよう。
「実は記憶喪失になりまして。この街がどこの国の所属なのか知りたいのですが、どうにも見当たらないんですよね」
「ええと……?」
やはり怪訝な目である。
このアホは何を言っとんだ的な視線がちらりと突き刺さるが、そこは書店員。
彼は<シンダール王国領内地図>と題された書を手に取り、
「こちらも一緒にご覧になると理解の助けになりますよ」
と親切そうな笑顔で<ルヴェリア世界全図>なる座布団みたいに巨大な本を取り出し、俺の手に預けると書棚の彼方へと去っていった。
「<シンダール王国>……? 待てよ。俺たちの村は<ウーレ>って国にあるんだろ?」
「そのはずよ」
「なんか嫌な予感がする。まあ……地図を見てみりゃ分かるか」
ところで、こういう場合の悪い想像ってのはどうして大概が的中するんだろうな?
俗にいうテーブルトークRPGに使用されるような凝りに凝ったイラストの<ルヴェリア世界全図>に確かに<シンダール王国>という国は存在した。
ただし、<ウーレ王国>とは大海を隔てた別大陸に、だ。
「……おい、どうなっとんだこれは」
「あたしがおかしくないんなら、ここって外国じゃない?」
「見間違いかも知れん。一度本を閉じてもう一度見よう」
「そんなわけないに決まってるけど付き合うわ」
「よし……」
「「せーの」」
シャーリー、絶句。ついでに俺も絶句。ガフは無言。
どっからどう見ても遠方の大地だ。
中国からアメリカぐらいは離れていそうな塩梅である。
試しにもう一度めくる。
変わらない。
「やはり、か……」
「神妙な口振りで言ったって現実は変わりませんよ、おハムさん……」
何度ページをめくったところで何も変わらず、ただ太平洋もかくやと言う大海原を隔てた別大陸に居るという現実はそのままであった。
現状をもう少し詳細に語るのであれば、ここ<フータの街>も<シンダール王国>において中々の辺境の地にあるのだが、ここまで来たら多少条件が悪くなろうとそう変わらんし、心のダメージも少ない。
「ま、来ちゃったもんは仕方ないでしょ」
桃色の毛束に指を突っ込み、気持ちよさそうに頭を掻きつつシャーリーが言う。
脳みそのどこをどういじくればこんな前向き発想を獲得できるんだ?
彼女は電球のように明るく、ポジティブな顔を俺へと向けて、
「突っ立って考えが浮かばないんなら、動くのが一番いいわよ。何かしら行動を起こせば何か変わるって!」
俺は溜息をひとつ。彼女ではなく、呆然としていた俺宛だ。
「そうだな。じゃ、まずはどうしていいか調べるとするか」
「おうともおうとも」
ほんと、滅入る気持ちを一息で吹き散らす、良い笑顔だな。