第10話
ナナシ
「おぉ、すごいな…」
目の前に広がる温泉を見てまずそんな言葉が出た。エリカさんに魔王城を案内してもらい温泉まで来たのだが、そこは自分の知る風呂場ではなかった。自分が覚えているのは土魔法で地面に穴を掘り、そこにお湯を流した即席の風呂場だった。今目の前にあるのはそんなみすぼらしい風呂場ではなかった。石造りの露天温泉である。何度か色欲領と怠惰領の温泉に入った事があったが、そのつくりに似ていた。床には木材が敷き詰められていて、ほのかに木材の香りがするので何とも言えない気持ちになる。
「お、ナナシも来てたんだな」
「どうだい、以前と比べて見違えるようだろう」
温泉に浸かって星空を眺めているとクロウとジルさんが入ってきた。
「いやぁ、驚きましたよ。皆ですし詰め状態になっていたのが懐かしいです」
「ああそうだろう。色欲領や怠惰領の温泉、後人族の大陸にある温泉を参考にしているんだ。床に敷いてある木材は天使族の大陸から取り寄せたもので…」
そういってジルさんが自慢げに説明をしてくれる。驚かせようと思っていたんだろうな。実際驚いた。ここまで立派になっているとは思いもしなかった。
「俺はあの頃の皆で騒いでいた風呂も好きなんだな」
クロウはそういいながら笑っている。その気持ちはわかる気がする。皆ですし詰めになりながら入り、どうでもいい話題で盛り上がっていた。喧嘩もあったが、皆笑顔で生き生きしていたと思う。色々なことを語り合った。不満ごとや苦労話、悩みごとであったり自慢話であったり。恋愛話もした。大変だったからこそ皆が笑いあいながら、話しあいながら乗り越えてきた。
「いろいろ話したよなぁ。ジルさんがアリスさんに吹っ飛ばされたのが今でも鮮明に思い出せますよ。」
「む、まだ覚えているのかね…。」
「あれはすごかったんだな。アリスさんが見たことないぐらいにキレてたんだな。」
「ああ、あれから怒られないように気を遣うようになったな…」
アリスさんはおっとりしているように見えるが、身体能力は並みの魔族と比べても高い。当時監視係を務めていた彼女は、問題行動をしたものに対して笑顔のまま首をつかんで吹っ飛ばすのだ。特にジルさんに対しては、夫婦なんだから遠慮はいらないという理由で容赦なかった。ああ、怖かったさ。
オホホホホと笑いながらジルさんの顔面を殴打しているんだ。恐怖も抱く。
「あの時だな、魔族ってすごいなって思ったの」
「…まあ人族ではそんなことにはならないだろうな。お淑やかというんだったか。人族の女性は大人しいのだろう?」
「さぁ、皆が大人しいってことはないと思いますけど。冒険者やっている女性もいるみたいだし。まぁ、大人しいって感覚がそもそも違うのかもしれないが。少なくとも顔を殴打する女性を大人しいとは、人族は言わないと思います。」
「確かに種族間で感覚の違いはあると思うんだな。だったら逆にお転婆は人族ではどういう感じなんだな?」
「そうだな、人族ではお転婆は活発なイメージを持っているな。外で遊びまわっているような感じだ。」
「魔族ではいつも殴り合いをしているイメージなんだな。」
「うへぇ、ワイルドだなぁ。」
魔族では力を崇拝するような考え方を持っている者が多くいる。純粋な力であったり、魔力であったり、とにかく他者よりも優れている面を磨こうとするものが多くいる。
「でもあれだな。ジルさんやクロウは力こそ全てって考え方はしないよな」
「それはそうなんだな。そもそも争いが苦手なんだな」
「まぁクロウ君はそうだね。基本的に子供のうちは力への執着が強いが、大人になっていくにつれて発想も柔軟になっていくからね。」
そんなものなのか。確かに若い魔族は喧嘩っ早い者が多かったように思う。
「そういえばナナシも一度喧嘩したんだな。あの時は驚いたんだな」
「そうだったね。あの時は驚いたものだ。周りも驚いていたぞ。生身の人族がよく魔族相手に喧嘩をしたものだと噂にもなっていた」
「げ、そうなんですか?」
それは勘弁してほしい。今思い出しても恥ずかしいものだ。冷静に考えると魔族相手に身体能力で勝てるはずないのに、頭に血が上って向かっていった。案の定ボコボコにされて気を失ったんだったか。
「今思い出しても恥ずかしいものがあるな。」
「でも嬉しかったんだな。俺のためにあそこまで怒ってくれたことが。」
「友人が馬鹿にされたらそりゃ怒るさ。」
そうだ。あの時はクロウが丁度失恋した時だ。それを笑う者達がいた。容姿などを理由に、根も葉もない噂を広めようとしていた。
「何の力も持たない人間が魔族と喧嘩したんです。笑われたんじゃないですか?」
「いや、噂と言っても悪い噂ばかりではないぞ。よく立ち向かっていったと褒めている者もいた。実際私もそう思うぞ。友のためによくぞ立ち向かったと。まぁ向こう側も日ごろから素行の悪い者達だったからな。」
そういえば彼らは今頃はどうしているんだろうか。確かクロウと同じ年代だったはずだ。クロウは俺と3つ違うから22歳ぐらいか。
「そういや彼らは今どうしているんです?」
「それぞれの道を歩んでいるぞ。店を経営している者、冒険者をしている者。そうそう、今回の祭りに参加する者もいるからちゃんと仲良くするんだぞ」
「げ、マジですか…」
「うん、マジ。」
「はぁ、分かりましたよ。いがみ合うのも面倒ですし、向こうが仲良くしてくれるのであれば仲良くしますよ。」
「ああ、それは大丈夫だと思うよ。今では礼儀もしっかりしているし、あの時の事も反省しているようだよ。」
「へぇ、それは意外です。」
「まぁ、会った時にわかるよ。」
「分かりました。」
若干気まずい面もあるが、いつまでも引きずるのもな…。クロウに対してされた事にキレただけだし、今嫌っているかと言われると、そうでもないしな。ま、今から気にしてもしょうがないな。まともになっているらしいし、会ってからひとまず謝って、それから普通に接することにしよう。
「それはそうとナナシ君、メイドのエリカとは上手くいっているかい?」
それを聞かれて思い出した。そうだ、聞こうと思っていたのだ。
「上手くいっているも何もないですよ。驚きましたよ。俺にメイドはいらないでしょう。エリカさんは何も言わなかったんですか?」
「君が人族であるという事かい?」
「そうですよ、普通嫌がると思うんですけど。いくら怠惰代表に選ばれているとはいえ、人族に仕えるのは力を重んじる魔族的に屈辱だと思うんですけど」
「そうだね、そういうメイドがいない訳ではなかった。だが彼女は違ったよ。仕える人が決まったら全力でその主人に仕えるからね」
「ああ、成る程。そんな感じですね。でもそんだけ有能なら他の所が雇うと思うんですけど。」
「それはまぁね、実際メイドとしてのスキルが高いので引っ張りだこではあったんだが、対人スキルがねぇ…」
「あぁ…」
それはそうだろうな。あんな無表情でいられたら息も詰まるだろう。
「それでも気に入った貴族が雇ったんだが問題が起きてね」
「問題?」
「あぁ、彼女が問題を起こしたわけではないんだが、雇った側に問題があってね。」
あぁ、成る程。なんとなく予想できた。
「彼女に対して性的な暴行を働こうとしたんですか?」
「あぁ、その通りだ」
ジルさんは苦い顔をする。胸糞悪い話だ。あれ、でもそうなると…。
「あれ、じゃあなんでまたエリカさんはメイドやってるんです?普通トラウマにでもなりそうですけど」
「あぁ、それはね。彼女に対して全く歯が立たなかったんだよ。手を出そうにも全て防がれては手の出しようもないだろ。」
「……」
「ただ、プライドを傷つけられた貴族が悪い噂を流したものだから彼女には働き口がなかったんだよ。城にはそんな偏見を持つ者はいないからね。丁度いいから君のメイドをしてもらうことにしたんだ。」
「成る程。ってことはあの人めちゃくちゃ強い?」
「ナナシ、間違っても怒らせてはダメなんだな。メイドの中でも随一の戦闘スキルなんだな。」
あっぶねえ。怒らせる前に知っててよかった。
「まぁ、ナナシ君がそんな事をしないことは信頼しているからね。安心して任せられるよ。」
「任せられるって、それはどっちの意味でです?」
「もちろん、どちらもだよ。」
恐らくエリカさんの事を気にかけてほしいという事だろう。エリカさんに俺を任せるという意味も含まれているのだろうが。
しかし参った。そんな自信満々な顔をされたら、その信頼を裏切るわけにはいかないじゃないですか。
「はぁ、分かりました。仲良くやっていきますよ。」
ジルさんとクロウが苦笑している中、諦めたように答えた。