離脱
逃げ出したのは私。だけど、職場を変えることまではしなかった。
その気になれば、私の居場所などすぐに突き止められるだろう。私は心のどこかで、彼らが探してくれるのを待っているのかもしれない。
ここまできても、少しだけ期待するのをやめられない自分が情けない。
「美緒!!」
その日は、思ったよりも早くやってきた。
彼らではなく「姉」が私の職場へと訪ねてきたことによって。
「姉さん、どうしたの?」
「どうしたじゃないわよ」
やや興奮気味の姉を連れ、近くの喫茶店へと連れて行く。
自由な社風といえども、身内がこうやって騒いでいてはやはりいい顔はされない。
「どうしてなの?」
「どうしてって?」
興奮気味にやってきたものの、淡々と注文をする私を前に、姉はしばし黙りこくる。私も内心動揺しているのだけれど、それを彼女に悟らせることはない。
意を決して、姉は目の前の飲み物には手をつけずに言い募る。
「黙って出て行ったりして」
「出て行くって言ったでしょ?」
「そんな!!あんな風に言い捨てるように言っておいて、言っただなんて」
「それでも、何も言わなかったじゃない。出て行けとも出て行くな、とも」
実の姉と対峙しているだけだというのに、ひどく喉が渇く。
震える手を押さえつけるようにしてグラスをとり、オレンジジュースを一口、口に含む。
緊張、していたりするのかもしれない。
「母さん倒れたわよ」
挑むような目つきで事実を突きつけられる。
「そう……。でも姉さんがいればいいでしょ」
「そんなわけ、ないででしょ。美緒のこと心配している」
ストローで氷をかき混ぜながら、姉さんの顔を見つめる。そこには本当に心配している表情だけが浮かんでいる。同時に、姉がトラブルを起こすたびに、臥せっていた母親の姿を思い出す。私が原因でそんなことが起こるだなんて、とても不思議な気分だ。
「姉さんさえいれば、あの人たちは満足なんだから、それでいいじゃない」
「何を言ってるの?さっきから。美緒だって大事な娘じゃない」
何もかも後回しにされ、いや、気に留められることもなく過ごしてきた過去がよみがえる。透明のような存在なのに、彼らの思う私でなければ許されなかった。
進学も就職も大暴れして好きな道を勝ち取っていった姉に対して、私は、期待はかけられないけれども選択の幅が全くないという進路を提示され続けてきた。
それに関しては、姉を見習って死ぬほど嫌がったり反抗したりして意思を通さなかった、つまりは、自分で決定したという思いがあるから、それを姉に八つ当たりすることはしないけれども。
だけど、これから先、姉の影に回って暮らすのはごめんだ。
私は私だ。
これからの人生はすべて自分で選択したい。
親の気を引きたくて、親が潜在的に望んでいるような未来を選び取るようなまねはしたくない。
結局、そんなことをしたところであの人たちの愛情も関心も、今目の前にいるこの人だけに注がれるものなのだから。
「死ぬまで日陰で暮らせってこと?」
うっかり出た本心。
こんなことを姉に向かって言うつもりはなかった。
自分のせいだ、と内省しているつもりで、私は朗らかな姉を恨んでいるのだろうか。
「日陰って……」
「だって、そうでしょ?何をやっても言っても私はいつだって後回し。褒められることもなければ怒られることもないなんて、存在を無視されているのと同義でしょ」
カランとグラスの中の氷が鳴る。
「そんな……。美緒のことだってちゃんと」
「授業参観も個人面談もパスされたけどね」
手のかかる姉に精一杯で、私にさく労力はなかった、というのは建前で、根本的に私に興味がなかったのだと思う。大人になってみれば、それが親子の相性というものかもしれない、と気がつきはしたけれど。
寂しい、と一度だけ呟いた言葉は、母が眉根を寄せることでどこかへと消えていった。それまでも受身だった私は、さらに期待することすらやめてしまっていたのだ。
それなのに、ひょんなことで訪れた、親子三人暮らしにうっかり希望を持ってしまった自分が恨めしい。
「それは、信用しているから、だから、側にいないと」
「面倒くさいことは全て私にまかせて自分はいいとこ取り?」
少し目にかかる前髪を振り払う。
私とは、周囲に与える印象が異なる彼女を注視する。
ふんわりとした雰囲気に、似つかわしくないほど意思が強い瞳。そのアンバランスさも姉の魅力の一つだろう。私をないがしろにするくせに、姉を紹介しろとねじ込んでくる同級生が少なくない程度にはいたはずだ。
だからというわけではないけれど、彼女の持つ柔らかな容姿というものにどれだけ憧れたかわからない。
絶句してしまった彼女に、追い討ちを掛けるように続ける。
「あれ以上あそこにいたら、絶対結婚相手まで決められるでしょうね。姉さんがそうなったのだから、私はちゃんとしないとって。これ以上あの人たちの言いなりになるのはごめんなんだけど」
「は?そこまで勝手なことしないでしょ、あの人たち」
今この場で能天気なことを吐けるこの人をある意味尊敬する。
「私がどうして、高校大学就職と、選んできたのかわからないの?」
彼女の目を見据える。
本当に、わからないのだろうか。
「それだって、ほんとうに嫌なら反抗すれば……」
言っていて自分の矛盾に気がついたのか語尾に向かって小さな声になっていく。
押し付けて、コントロールする癖のある両親に、ことごとく反発していたのは自分だと。資金を人質に縛るようなまねまでされたのに、思い通りになったことしか覚えていないのかもしれない。
「だから家を出るんでしょ」
沈黙が下りる。
静かにグラスをテーブルの上に置く音が聞こえる。
伝票を手に取り、立ち上がる。
呆然と座ったままの姉に一言だけ声を掛ける。
「親子三人仲良くね」
私はあの家にとって、異分子なのだから。
これからは私の役を彼女が担えばいい。
――私はもう十分。
もうもどらないのだと決めたのだから。