足りない穴を埋める
「帰ってきちゃった」
なんとなく、昔に戻ったようにおどけてみせた。
真正面から「離婚」という重い言葉を切り出せず、なんでもないことのように軽く口にのせる。
そんな私の態度にも関わらず、妹はやっぱり冷静に受け止める。
にこりともせずに。
――もうちょっと、笑えばかわいいのにな。
そんな思いを口に出せるはずもなく、へらりと笑う。
妹の、美緒の顔はどちらかというと美人顔だ。露骨に比べる人はいなかったけれど、それでも自分にはない彼女の顔立ちにコンプレックスを感じていた。
大人しくて、あまり笑わない妹は、どちらかというと遠巻きにされていたように思う。いじめられていた、でも、無視をされていた、でもなく、ただたんに同年代には少し高嶺の花だったのかもしれない。それを姉の私に悪く吹き込む人間もいたけれど。
そんな彼女とは対照的に、囲まれていることが好きだった私は、いつも笑っていた。そうすればそれなりにトモダチは増える。何をするにも中心にいて、それが楽しかったのは事実だ。
本当の友達がどれだけいたかはわからないけど。
何の相談もせず突然離婚する、などと宣言をしても、両親ともに何も言わなかった。
父なんか明らかに嬉しそうだ。
もともとこの結婚には微妙に反対していた父は、それ見たことか、と思っているのかもしれない。
根本的に、私のやることを両親は信用していない。
その点、三つ下の妹は完璧だ。親に心配掛けることなく進学も就職もスムーズにこなし、就職してからも親元にいて両親を手助けしている。
見習わなくちゃね、などと能天気に思っていたことが全て裏目に出ていたなんてことは、後になってさんざん思い知らされた。
「あら、多紀君いらっしゃい」
二年間主婦をしていたとはいえ、あまり得意ではない料理の手伝い、とは名ばかりの洗い物をしていた自分は気がつかなかったけれど、幼馴染の多紀君が我が家にやってきていた。
小さいころから知っているせいか、彼に対しては弟のような印象しか受けない。それでも、大学を卒業して社会人になった彼は急激に“男の人”になった様な気がした。
「こんにちはー、里緒さん」
はにかんだ笑みを見せる彼とは対照的に、あくまで無表情の美緒。
この二人はなかなかお似合いだと思うのだけど、浮いたうわさのひとつも聞かない。
美緒は、彼女はどう思っているのだろう。
「へっへっへー、今日は里緒さんの手作りだよーん」
ほんとは、ほとんど手を出してないけど、見栄を張ってしまう。
おいしそうに食べる多紀君とお父さん。こんな顔を見せられるのならもっとがんばればよかった。
「美緒もこれぐらい料理ができたらいいのに」
「そうだな、もう少し母さんの手伝いもしないと」
そんな言葉にちくりと良心が痛む。
私が何もしていないことを知る母親もそ知らぬ顔だ。
そしてなにより、私は美緒のことが気になった。
無表情な顔を少しだけひきつらせて、その言葉を聞き流していた。
言い訳一つも、抗議の言葉一つも口にはしない
いつだってそう、彼女は自分の気持ちを表に表さない。すべて飲み込んで我慢してしまう。
私が色々なことをしでかして彼女にまで両親の気が回らなかったせいだろうか、美緒はとても手のかからない子供だった。
そして、今も手のかからない娘。
食器を片付けながら彼女が呟いた一言が気にかかる。
「私この家をでていくから」
確かに彼女はそう言った。
何のことを言っているのかわからなくって、私も両親も言葉を掛けるタイミングを失った。
何も言えなかった私たちを残し、彼女は自分の部屋へと帰ってしまう。
「父さん、美緒出てくって……」
「はは、冗談だろ?あの子がそんなことするわけない」
「冗談って、冗談でそんなこと言う?あの子が」
そのまま皆で黙りこくる。
妙な沈黙。
「それに、父さんも多紀も変なほめ方しないでよ。美緒の方がはるかに料理がうまいでしょ?お手伝いもするし。今日の料理なんて、私食器を洗っただけだよ」
「そう、ね、そういえば、あの子はなんでもできるねぇ」
のんびりと母がそれに追随する。
「そう思ってたら、どうしてさっき言わないの?って私もそうだけどさ」
少しずつ、何かがズレているようなそんな怖さを感じる。
「美緒は何も言わないから」
母がそう呟いた後、そのまま何も言えず、ただリビングにじっとしていた。
翌朝、美緒と話をしようと早く起きるはずだったのに、寝坊をしてしまった。
だらしがないのはナカナカ治らないらしい。
軽くノックをして返事がないので、そっとドアを開ける。
そこには、ベッドとカーテン、備え付けの家具だけを残した殺風景な部屋が存在した。
「ちょっと母さん、美緒の部屋、あれなによ!!!」
あわてて階下の母さんのところへ飛び込む。
「里緒、なに大声で騒いでるの」
あくまで鷹揚に構えている母の手を無理やり引っ張り、美緒の部屋まで連れて行く。
先ほどと同様に殺風景な部屋を目の当たりにして、さすがの母親も絶句する。
「出てくって言ってた」
昨夜の彼女の言葉が蘇る。そう言った、そう言ったけれども。
母がその場にへたり込む。
現実が受け止められない。
時のたつのも忘れて、二人してその場に呆然としたまま何もない部屋を見つめていた。
彼女が本気だったのだと、身をもって知るのは、その夜のこと。
多紀君が我が家へやってきて「今日出て行く」と、彼女が言っていた、と伝えられた瞬間だった。
「なんで!!」
そのまま絶句してしまう。
ただ日本に帰ってきて、今までまかせきりだった親孝行の真似事なんてものをやってみて、それで、それで!!
そこまで考えたところで愕然とした。
喜ぶ両親とは対照的な無表情の妹の顔。
私が彼女の居場所を奪ってしまったのだろうか。
従順だった妹の突然の反抗に、母が倒れてしまった。
私だったら慣れているのだろうけど、口答え一つしたことがない彼女の行動には耐性ができていないのだろう。
「何考えてるかわかんねーやつだけど、今日という今日はほんとにわかんねー。せっかく里緒さんが帰ってきて家族水入らずだっていうのに」
「私……、のせいかな」
手が震える。どうしていいのかわからない。
無表情な中にも、わずかに変化した妹の感情を思い出そうとする。
昔から嫌なことがあっても、それを口に出して言ったりすることがなかったから。
だから私たちは安心していたのだ、彼女は大丈夫だと。
彼女にも感情があるということを忘れてしまっていたのではないか?
無意識に唇を噛んでいたらしく、口の中に血の匂いが広がる。
そっと手の甲に押し付ける、滲んだ血の跡。
彼女はもうここに戻らないかもしれない。