世の理を超えたその先に、その10
その男は、来る日も来る日も街頭で道行く人々に訴えていた。
血液が足りない、今この時も輸血を必要とする人がいる。
採血の時間はほとんどかからない、待ち時間もない、少量の献血も可能。
大都市にもかかわらず、彼の訴えに耳を傾ける者は少ない。
半日声を嗄らしても、1人も献血に訪れない日もある。
男がこの職に就いてまだ数年だが、同僚からは、昔は良かったなんていう声をよく聞く。
一昔前までは、巷の健康ブームもあって、ラジオ体操と共に、参加してくれる人がまだかなり多かった。
それが様変わりし出したのは、ちょうどエイズウイルスの出現辺りからだ。
それまで献血手帳にスタンプが貯まるのを励みに、事後に提供されるジョ〇を飲んで通ってくれた人達が徐々に減っていき、代わりにエイズや梅毒、肝炎なんかの検査目的の人達が増えた。
事前に文書若しくは口頭で、そういう目的での献血をお断りしていても、本人に黙っていられれば、分かりようがない。
事実、以後何件も献血された血液からそれらの抗体反応が出て、その度に、それら全ての廃棄を繰り返してきた。
エイズに対する偏見が、当時はかなり強かったこと、またその当時はそれらの検査に保険が適用されなかったことが、心当たりのある者を、病院での検査から遠ざけていた。
さらに、当時の検査技術では、かなりの漏れが発生し、かつ約2か月という長い日数を経ないとはっきりと識別できなかったため、知らぬ内にウイルスに汚染された血液を使われ、二次感染に陥る患者もかなりいた。
そういったことが、献血という行為そのものにまで、悪い印象を与えてしまったことは否めない。
途上国の中には、血液は売れるという認識がある国も存在するため、外国の方にも、無償のボランティアに拘る日本のシステムは、あまり評判が良くないのかもしれない。
その男には、前科があった。
男は以前、外科医をしていたが、とある件で有罪判決を受け、その職を辞し、個人の病院を畳んでいる。
それは、無許可で臓器移植を行ったというもの。
本来なら、法に定められた様々な要件をクリアしなければならないが、男はそれを全て無視し、ある1人の少女に臓器を移植したのだ。
男には、嘗て1人の娘がいた。
重度の内臓疾患を患い、幼くして死別したが、そのことをずっと引きずっていた男の病院に、ある日似たような病に苦しむ1人の少女が入院してきた。
そして、何という天の配剤か、その少女と適合条件が完全に一致する少年が、男の病院には入院していたのだ。
その少年は、交通事故に遭い、もう1か月も入院していたが、ほとんど助かる見込みはなく、今にも死にそうな状態であった。
彼の家庭は貧しく、入院費や治療費は滞納され、無償で治療をしているような状況であった。
男は、少年の死期が間近に迫ったある日、その親を呼び、相談を持ち掛ける。
『少年が脳死状態になったら、臓器を提供してくれないか。その代わり、これまでの医療費を全て無料にする。それに、僅かだが謝礼も出そう』と。
細かい法律も知らず、金に困っていた彼の親(少年を轢いた相手は無資力で、保険にも加入していなかったため)は、その申し出に飛びついた。
また別の日、今度は少女の両親を呼んだ男は、彼らに丁寧に状況を説明した。
このままでは、彼女はあまり長くは生きられないであろう。
現在の臓器移植法は(2010年の改正前)、本人の書面での意思表示が必要不可欠であり、それが民法の遺言可能年齢に準じて15歳以上でないとできないため、実質15歳未満の臓器提供がこの国ではできず、小さな子供は多額の費用(数千万から1億円以上)を出して、海外での移植を受けるしかない。
だが幸いなことに、自分にはその提供者に伝手がある。
この際、移植を受けてはみませんかと。
少女の両親は、ごく普通の一般家庭ではあったが、我が子の病のために事前に情報収集をしていたせいで、移植に関する知識が僅かにあった。
臓器提供は順番待ちが普通であり、適合条件の他に優先順位もある。
移植希望すら出していない自分達に、なぜそんなにうまい話がくるのか訝った。
男は、少年の件と自分の身の上を正直に話した。
彼女と同じような年頃の娘を、似たような病で亡くしたこと。
その後暫く、気力の失せた自分を見限って、妻が出て行ったこと。
自己満足故の行為であるから、今回の移植に伴う責任は、全て自分が負う。
少女には一切の経緯を知らせず、あなた方も聞かなかったことにして欲しい。
そう言って頭を下げた。
少女の両親は、このままでは助からない娘の命と、目の前で頭を下げる医師が犯そうとしている罪の重さとを秤にかけ、娘の命を選んだ。
自分達は一切を知らないのだから、臓器の提供先に支払う謝礼も、この医師が自腹で負担することになる。
何もかも彼に押し付けて、その上娘の命まで救ってもらえることに、彼らは心の中でひたすら感謝し、その時はただ、無言で頭を下げ続けた。
手術は無事成功し、然したる副作用もなく回復した少女を見届けると、男はスタッフ達に多めの退職金を支払い、病院を閉めて、自首をする。
裁判では、終始弁明をせず、単に自己の技術を試したかったという理由で押し通し、懲役2年の有罪判決を受けた。
控訴もせず、服役を終えて刑務所から外に出た彼を、真っ黒な身なりの1人の少年が出迎える。
いきなり、『一服するか?』とタバコを差し出してきたが、それを受け取らないのは彼も分かっていたらしく、すぐに引っ込め、代わりに一言呟いた。
『また後で会おう』
男には、この時何のことか分からなかったが、数年後に、それが理解できるようになる。
赤十字で献血の仕事に従事していた男の下に、ある日1通の黒い封筒が届く。
差出人に全く心当たりのない男は、その文面の1番下に付け足すように記されていた文言に、遠い日の記憶を呼び起こされる。
『今度はタバコではなく、職を勧めよう』
男は、脳裏に浮かんだ朧げな少年の顔に導かれ、半信半疑ながらも、海を渡る決意をするのであった。
男が到着した場所は、イ〇ドの国境に近い、とある村であった。
空港からここまで移動してくる間に垣間見た、さびれた田舎の風景とは異なり、かなり広いその村は、整然と街並みが整えられ、建てられている家屋も皆比較的新しい。
所々に学校や職業訓練所などの施設もあり、街ゆく人々の姿からも、既にこの村が機能していることが窺われる。
出迎えられたスタッフに、この村についての丁寧な説明を受けた男は、驚愕に目を見開いた。
その内容が、あまりにも現実離れしていたからだ。
何とこの村は、住民から定期的に血液を供給してもらうために造られていた。
現在の村の人口は約1000人。
村の住人は主に難民や貧困家庭などから逃れてきた者達によって構成されているので、今後更に増える予定だと言う。
正常で良質な血液を常に供給してもらうため、住民の健康状態には特に気を配り、清潔で心地よい環境下で、栄養バランスの取れた日に3度の食事と、必要な衣類、生活必需品が定期的に支給される。
ここにいる間は住居も割り当てられ、上下水道もきちんと整備されているため、トイレや入浴にも困らない。
元居た場所によっては、入浴の習慣がなかったり、トイレを必要以上に不浄なものと考える者もいるので、その辺りの教育もしっかりと施し、常に身だしなみには気を付けてもらう。
初めはなかなか慣れなかった者でも、次第にその心地よさに目覚め、進んで気を配るようになった。
就学年齢の子供達は無償で学校へ通い、そこで語学と算数、世界の諸地域の習慣を学び、大人たちは数種の職業の中から好きなものを選択して、訓練校でその技術を習得する。
これまで彷徨い、虐げられ、ろくな生活も送れなかった者達にはまさに夢のような暮らしであるが、善意だけで運営されているわけではないので、その入村には厳格な条件がある。
先ずはゲート審査。
和也によって常設された門を通り抜け、赤く光った者の入村は許されない。
これについては一切の例外が認められず、もし無理やりにでも入ろうとすれば、数機のドローンによる、射殺を含めた厳しい措置が取られる。
この村は2国間の国境付近にあり、もともとあまり治安も良くはない場所であったため、その土地を買い取る際、共に治外法権も得ている。
当該国の政府からすれば、貧しい難民を受け入れてくれ、他国との紛争地帯の一部を任せることで、無用なトラブルを避けられるメリットがあり、しかも御剣グループとの太いパイプができる。
毎年一定額の税収も得られるため、何の不利益もなかった。
次に書類及び口頭審査。
この村では、個人の内心までは問わないが、村の運営に差し障る、一切の宗教的行為や禁忌を認めない。
例えば食事では、大勢の人に同一の、栄養バランスを考慮して作られたものを食べてもらうため、信仰する宗教により食べられないものが多い人には、予め入村をお断りする。
ここは個人が自由な経済活動をして暮らせる場所ではない。
その力がある者は、最初から受け入れない。
あくまで自力では生活できない、信仰や主義よりも、日々の安定した暮らしと、生きていく力を蓄えたい人のための場所なのである。
だが勿論、集団生活を乱すようなものではなく、他者に迷惑をかける類の行為でもなければ、自宅で何をして暮らそうと、部屋を壊したり汚さない限り、黙認された。
最後に健康診断。
事前の2つの審査にパスすると、専門医による様々な検査が行われ、何の異常や病原菌も見つからない者だけがここに住める。
何らかの反応、若しくは異常が検出されれば、アフリカに新たに建設された医療センターへと送られ、そこで治療を受けて完治すれば居住資格を得られる。
もっともその場合、わざわざ戻らず、そのままアフリカに居住するという選択も可能だ。
全ての検査結果が出るまでは、村にある専用施設での暮らしが保証され、そして晴れて住人となる資格が与えられた者達には、その家族構成ごとに、適した広さの家が貸し与えられる。
村人の義務は主に2つ。
15歳以上の者は200ml、20歳以上なら400mlの献血と健康診断を、2か月に1度、必ず受けること。
もう1つは、就学年齢の者なら学校に、大人であれば職業訓練所に通うことだ。
この村に滞在できる期間は最長で10年。
18歳以下の孤児以外は、期間内に自立しなければならない。
この村はあくまで彼らにとって仮初の地であり、終の棲家ではないのだ。
期間内に目的を見つけて独り立ちしてもらうために、敢えて食事の種類や娯楽の類を制限しているわけでもある。
どうしても職が見つからない者達には、御剣グループが、多少賃金は安いが安定した作業所を紹介したり、同様な移民達の世話をするスタッフに採用したりして、その後の面倒をみる。
たとえ時給にして900円程度でも、それまでゴミの中から使える物を拾って小銭を稼ぐしかなかったような者達からすれば、諦めていた夢への足掛かりとなる、十分な額なのだ。
住む場所は、グループ職員が使える専用の巨大マンションの一部屋を無料で借りられるので、家族を養うのにも困らない。
生活費の中で、最もウエイトの高い住居費が只なだけで、人はそれなりに豊かに暮らせるのだ。
乏しい娯楽を補う意味では、村に建てられた図書館に、主に日本語と英語、中国語にドイツ語の書物が数多く並んでいる。
漫画やアニメの本もあり、子供達がここで学んでいる言語を活かして楽しめるよう、工夫されているようだ。
村の各家には音楽の聴ける設備も備え付けられ、家族と共に過ごす時間や、眠りに就く前の一時を、過去に受けた心の傷を癒しながら、穏やかで優しいものとしてくれる、数々の名曲が流れ続けている。
大まかな事情を呑み込んだ男は、スタッフから分厚いマニュアルを渡され、専用の住居へと案内される。
ゆっくりと風呂に浸かり、ここに来るまでの疲れを癒した男が、渡されたマニュアルに目を通していると、夜遅い時間にもかかわらず、ドアホンが鳴る。
入り口に備え付けられた監視カメラを覗くと、自分をここへと導いた、あの時の少年が立っている。
慌ててドアを開けた男に、その少年は声をかけた。
「少し話がしたいので、中に入れてもらえるか」
男はこの時まじまじと少年の顔を見たが、どう見てもまだ高校生くらいにしか見えない。
一体何者なのか?
黒い封筒の差出人であるから、御剣グループの関係者なのは分かるが、その封筒が会長しか使用できないことを知らない男には、彼の正確な身元は知る由もない。
「あなたは一体どなたなのですか?
御剣グループの関係者だということは理解できますが、何故あの時、私が刑期を終えて出てくることが分かったのでしょう?
私をここへお呼びになったことには、どんな意味がおありなんですか?」
自分と親子程も年の離れた相手に、自然と敬語が出てくるのは、少年が放つ雰囲気のせいだ。
何時ぞやタバコを勧められた時とは、まるで顔つきが異なる。
あの時は若干自分を揶揄するような感じがしたが、今の彼は真面目そのもので、侮れない威厳のようなものがある。
少年を中に通すことも忘れ、つい疑問ばかりをぶつけてしまったのも、己の心に生じた畏怖のせいだろう。
「あまり他者に聞かれるのは不味い。
中に入れてもらいたいが」
少年からの再度の要求に、男は慌てて彼を招き入れる。
「すみません。
今、お茶をご用意致します」
少年を真新しい部屋のリビングに通すと、男は備え付けのメーカーでコーヒーを淹れる。
香り立つ湯気の音を聞きながら、男は少年の対面に腰を下ろした。
「それで、私にお話とは?」
控え目に尋ねてくる男に、少年は静かに語り出した。
「自分の名は、御剣和也。
一応、グループの会長をやっている。
ほとんどお飾りだがな」
『!!!』
世界に名だたる巨大グループの会長が、まだ成年にも達していない、こんな少年だったとは。
男は内心の動揺をひた隠しにして、何とか平静を取り繕う。
「先にあなたの質問に答えよう。
あなたが刑務所から出てくる日時を知っていたのは、勿論事前に調べていたからだ。
あなたのことは、裁判が始まる前から気にかけていた。
きっと、何の言い訳もせずに、刑に服すのだろうと。
助けた少女のことを思えば、そうする理由も理解できる。
少し歯痒いがな。
・・正直、あの国の刑法は、世間の実情に即していない条文が幾つもある。
4つも前の時代に作られたものを、そのまま使っていることも多いから当然だが、票にならないことはしない政治家はともかく、学者達の動きが鈍いのは気になる。
今ある条文の研究ばかりではなく、積極的に改正を唱えていかなければ、時代から取り残されていくばかりのような気もする。
それを補うべく、多額の税金を投じて作られた裁判員制度も、素人意見を参考にすると言いながら、結局は過去の判例に縛られて、市民が何か月も頭を悩ませた末に出した結論を、上級審でいとも簡単に覆している。
社会の成熟性を俟つなんて言いながら、市民活動の結果でしか腰を上げないようでは、国民審査で適当に×を付けられても、文句は言えまい。
まあ、彼らにも言い分があるだろうから、この問題はこのくらいにして本題に戻ろう」
恭しく差し出された珈琲に口を付け、その余韻を楽しんだ後、再び話始める和也。
「あなたをここに招いたのは、先の事件の他に、街中で声を嗄らして献血を訴えていた姿を哀れに思ったせいもあるが、本来の理由は別にあり、あなたなら、それを理解して力を貸してくれると考えたからだ。
ここはイ〇ドの国境付近にあるが、この国は大国として頭角を現しながら、未だに古い価値観や慣習に囚われてもいる。
女性の地位は相対的に低く、それに纏わる不愉快な出来事も多い。
例えば人身売買。
隣国の不幸につけ込んで、本人達の同意を得たならまだしも、騙したり、薬を飲ませて眠らせたりして攫ってきては、まだ年端も行かぬ少女たちに無理やり客を取らせている。
避妊具さえ付けさせないから、客からエイズなどの性病を移された挙句、運よく国に帰れても、今度は性病を持ち帰ったと自国民に非難される。
彼女達に一体何の非がある?
自分は、人の営みに極力干渉しないようにしているが、時々怒りで我を忘れそうになる。
・・他にもいろいろある。
生理がタブー視され、一般的な市民の所得も低かったことから、最近までは、生理用品さえまともに買えず、汚いぼろきれなどで代用した結果、命を落としかねない感染症に苦しんだ女性達。
生理が始まると、それを理由に学校にさえ通うことを諦めていた少女達。
ただこちらは、妻を愛し、女性達のために偏見と闘い続けた1人の勇敢な男性によって、かなり改善されてきた。
地元の海を愛し、人生をかけてプラスチックゴミと闘う男性もいる。
人に失望する時もあるが、人に希望を貰う時もある。
それは、まあどの国でも同じだな。
・・日本にも問題は山積みだ。
議員は票の為、役人は自らの天下り先に資することしか税金を使いたがらない。
議員なんかは選挙の際にいろんなことを口にするが、それは実現すれば国の借金を大幅に増やし、自らの懐は痛めないものばかり。
しかも、当選すればそんなことはきれいさっぱり忘れる者も多い。
未だ豊かな日本を頼って、自国の迫害から逃れてきた者達を、いとも簡単に切り捨てる。
力も持たず、少数でしかない彼らは、自分達の利益にならないからだ。
不法移民というだけで、収容所に何年も拘束され、自傷行為をするまでに心が壊れる者。
父親を収容され、残された母親と共に、貧困に喘ぎながら隠れるように暮らす子供達。
そんな彼女らを、何故哀れに思わない?
己の身内に置き換える発想ができないからか?
ОDAなどという、その国の誰がどう使うかも定かではない、しかも指導者が変わる度に要求されうるものに何百億もの資金をポンと出すなら、彼らを保護し、職や教育を施してやった方が、遥かに日本のためになる。
人の善意によって育てられた芽は、何時か必ず美しい花を咲かせるものなのだから。
・・ここは表向き、正常な血液を常に確保するための施設と銘打っているが、本来は、行き場のない人々や心が折れそうな者達に、一時の安らぎと自信を取り戻させるための場所でもある。
だから、ここの村長となるあなたには、金銭的な利益より、もっと大事なことを優先してもらいたい。
椅子にふんぞり返って指示を飛ばす者ではなく、自らの足で歩き、己の目で見たことを大切にする人物になって欲しい。
あなたなら、それができると信じる」
和也の長い話を聴き終えた男の脳裏に、亡くなった娘の最後の言葉が蘇る。
『お父さん、もっと生きたかった。もっといろんなことを・・・お父さんと・・してみたかった・よ』
酒に溺れても、どうしても忘れられなかったその言葉が、男の人生を突き動かす。
「分かりました。
自分なりに精一杯、村の人々の力になりましょう」
涙を流しながら、和也にそう誓う男。
満足げに頷いた和也は、男に右手を差し出す。
それを握った男の体内に、不思議な感覚が溢れるが、すぐに記憶から消え去る。
「ここで得た血液は、アフリカの医療センターと、御剣グループの製薬会社へと送られ、その治療や様々な研究に用いられる。
うちのグループは今、人工臓器の生成にも着手しているから、あなたの娘さんのような悲劇は、いずれ少なくなるだろう。
医療センターを任せている男、名を隅田というが、彼も熱い志を持った、実に有能な男だ。
あなたが送ってくれる血液を、決して無駄にはしないだろう。
何か困ったことがあれば、社長秘書の立花に連絡するといい。
彼女も非常に優秀だから、大概のことはこなしてくれる。
この村をよろしくな」
コーヒーの礼を言って立ち去る和也を見送り、男は1人、リビングで思考に耽る。
老いて声が出なくなるその時まで、街角で声を嗄らすはずであった自分に、ある日突然訪れた幸運。
マニュアルによると、村の人口の約3分の1は、まだ小さな子供だ。
娘のためにしてやれなかったこと、娘と共にできなかったことを、この村の子供達とやっていきたい。
娯楽が少ないようだから、いろいろ試してみるのもいい。
ラジオ体操、盆踊り、七夕行事にお月見やお花見。
日本の美しい伝統や行事を通して、子供達に夢を育んでもらいたい。
男の目に、再び涙が浮かんでくる。
今日は久々に、娘がまだ元気だった頃の、懐かしい夢を見られるような気がした。
男はこの後、その生涯を閉じるまで、この村のために力を尽くした。
壮年の時は日本の伯父さん、老いてからは日本のお祖父さんと、子供達から親しみを込めてそう呼ばれ、大人達からは信頼の眼差しと共に村長と頼られて、忙しいながらも非常に充実した時を過ごした。
何故か、男はこの村で話される言語の全てを理解できたが、男の頭の中では、過去に習得したものとして処理され、それを不思議に思うこともなかった。
ある時、村に日本人の親子連れが訪ねて来る。
その者達は、男を見ると涙ぐんで深く頭を下げ、それから若い女性の方が、男に丁寧にお礼を述べ始めた。
自分はあの時、あなたに助けていただいた少女だと。
お陰で無事に成長し、今は2児の母でもあると。
男が驚いて年配の夫婦の方に目を向けると、確かにあの時の面影がある。
彼らはもう1度深く頭を下げると、ここへ来るまでの経緯を話してくれた。
新聞で有罪判決を受けたことまでは知っていたが、その後の足取りまでは把握できず、お礼に伺う機会を逸していたこと。
先日、1通の黒い封筒が届き、そこにあなたの所在が書かれた文書と飛行機のチケットが同封されていたこと。
ここまでは御剣グループのスタッフに送り届けてもらい、明日の飛行機でまた帰ることなど。
至れり尽くせりで、お礼を述べる機会を設けていただいたことに感謝している両親の脇から、娘が再び言葉を紡いでくる。
『あなたのお陰で、私は今、素晴らしい人生を送れています。
あなたのしたことは、日本の法的には罪でも、私にとっては本当に有難い善行でした。
学校に通い、友達と過ごす時間を与えられた喜び。
彼女らと、笑い合い、お喋りをしながら楽しめた映画や音楽、学校行事。
素敵な人に巡り合え、結婚できた嬉しさ。
その全てにおいて、あなたに感謝の言葉を捧げてきました。
本当に、本当に有難うございました。
あなたが刑務所の塀の中で過ごした2年、その時間を、私は決して無駄にはしませんでした。
あなたが失った時間と名誉に対して、何も償うことができない私ですが、どうしてもこのことだけは、直接あなたにお会いして、お伝えしたかった。
やっと、やっと言えました。
有難うございます』
溢れ出る涙が、女性の言葉に偽りがないことを証明している。
男は、嗚咽をこらえて何も言うことはできなかったが、日本に準えて植えた桜の、穏やかな風に揺れるその蕾が、まるで男の気持ちを代弁しているかのように、そっと花開くのであった。
男の死後、和也はその魂を、輪廻の列に並ぶ、とある少女の魂の隣に配置した。
本来なら、それらは互いに意思を交わすことさえ非常に稀であるのだが、その2つの魂は、まるで仲の良い親子のように、転生の門を潜るその時まで、親し気に語り合っていたという。
物語の補足説明になりますが、御剣グループが購入した土地には、和也によって、気候や地質に若干の加護が与えられ、周辺の地域より過ごしやすい環境とか、作物が育ちやすいなどの変化が訪れます。




