番外編、異国の地にて、その2
『前略
妹よ。
俺は今、農業に従事している。
あれから、奇跡のような出会いに恵まれ、以前とは比べ物にならないくらいの素晴らしい職場で、日々、土と格闘している。
朝日と共に目覚め、陽が落ちる頃には仕事を終えて、満天の星空を眺めながら眠りに就く。
まるで、懐かしい母国での生活のようだ。
それでいて、給料は手取りで20万円もくれる。
手取りでだぞ!
新築の、綺麗な寮の個室に住み、飯は社長夫妻と一緒に、彼らの家で腹一杯ご馳走になる。
いくら食べても、社長の奥さんは笑顔でご飯を山盛りにしてくれる。
そして驚くことに、飯代は只だ。
俺は今、猛烈に働く意欲に満ちている。
金のこともあるが、何より彼らの役に少しでも立ちたい。
働いて働いて、喜んでくれるその笑顔が見たい。
遅くなったが、2か月分の仕送りを送る。
それと、別便で、おまえの欲しがっていたこの国の浴衣を送る。
今年の祭りに間に合わなくて御免な。
では、また連絡する。
ああ、それと、奇妙な戦友ができた』
「どうしたの、浮かぬ顔をして?」
久しぶりに和也と2人で花月楼に泊まりに来た紫桜は、手伝いに来た菊乃の顔に、僅かな曇りがあるのを目ざとく見つけ、そう尋ねる。
本来ならエリカ達も一緒に来る予定であったが、エリカがたまには2人の時間を楽しんだらと気を利かせてくれて、マリーもこの間女王のお供で来たからと、やはり遠慮したので、紫桜1人で和也と共に訪れたのである。
ちなみに、有紗はまだ異世界に来たことがない。
もう少し、心の準備が欲しいそうだ。
一体、異世界をどんな場所だと思っているのであろうか?
和也は到着早々、志野や影鞆達に挨拶に行っていて、今ここにはいない。
「・・あの、後で御剣様にお詫びしようと思っているのですが、実は、任されている養鶏場の鶏が、1羽行方不明になっていまして・・。
島中探したのですが、どうしても見つからないのです。
島の人間なら、あそこの鶏に手を出すことは決してないので、何処かにはいるはずなのですが・・」
「鶏?
・・ああ、あの人が自ら変な餌をやりながら、可愛がっていたやつね?
そんなに気にしなくてもいいんじゃないかしら?
いつもはどうしてるの?」
「御剣様の結界が張ってあるので、取り立てて何もしてはおりません。
朝、卵を頂いて、その際に少しお掃除をして、お水や餌を入れ替えて、お昼になったら、元気かどうか様子を見に行って、夕方には、ちゃんとみんな揃っているか確認して、夜に異常はないか見に行く程度です」
「・・・そこまでしてるの?」
「たいしたことではありませんよ。
御剣様から"特別に"お預かりした大切な養鶏場です。
もっと気を配ってもいいくらいです。
・・なのに、1羽足りないなんて御剣様がお知りになられたら・・・」
心底申し訳なさそうに、俯いてそう告げる菊乃。
「・・ねえ、あなた、今誰かいい人がいるの?」
「はい?
いい人ですか?
えーと、それはどんな意味なのでしょう?」
「誰かとお付き合いしているのかと聴いているのよ。
あの人の他に、好きな男性ができた?」
「・・・そ、そんな、滅相もない!
誰もいませんよ。
それに、もしそんなことになったら、ファンクラブ憲章に違反したとして、除名されてしまいます」
「ファンクラブ憲章?
何なの、それ?」
そう尋ねられた菊乃が、突然、胸を張って答える。
「『いついかなる時も、私達は御剣様だけを想い、瞼に刻んだその凛々しいお姿を忘れず、いつの日か、約束の地に赴かん』
・・名誉会長であるミューズさんと、副会長のアンリさんが考えた、私達ファンクラブ会員の大切な決まりごとです」
「・・・あなたに、特別に、彼に謝罪する機会を作ってあげる。
今夜、わたくし達が露天風呂に入っている時、あなたも入りに来なさい。
そこで、あの人に話をするといいわ。
わたくしが執り成してあげる」
「ええ!!
あの、それって、私も御剣様とご一緒に入浴するということですよね?
よろしいのですか?」
「・・ええ。
あれから、もう3年以上経つわよね。
なのに、あなたときたら、あの人を忘れるどころか、ひどくなる一方なんですもの。
流石に、見ていられないわ」
他の、彼の妻達と共に過ごしてきて、自分が嫉妬深い方だと認識するに至った紫桜ではあるが、菊乃には同情を通り越して、哀れみさえ感じてしまう。
以前、あの人にも言ったことだが、このままでは本当に、死ぬまで独り身を通してしまうだろう。
異性に興味がないならそれでもいいが、彼女の場合は、そうではない。
「有難うございます!!
・・あ、でも、申し訳ありませんが、やはり無理でした」
喜んだと思うと、いきなりまた、しゅんとする菊乃。
「どうして?」
「ファンクラブの鉄則にあるのです。
『抜け駆けは禁止』・・と」
「・・・もういいわ。
その娘達も呼びなさい。
それならいいのでしょう?」
「よろしいのですか?」
「ええ、もう好きにして頂戴」
こめかみを押さえながら、紫桜が言う。
『和也さんも、1度思い知ればいいのだわ。
何人もいたいけな娘をその気にさせて、能天気に構えているのですもの。
これって、まさに"天罰"よね』
ちなみに、リセリーは、この時はまだ教皇としての即位前で、いろいろと勉強中の身であったため、ファンクラブには在籍していないし、その存在も知らない。
だが後に彼女の知るところとなり、ミューズ達が『呟きの書』の写本を頼んだ際に、それを根に持たれて、随分と渋られた。
結局、ミューズが、この時その目に焼き付けた、和也の裸身を忠実に表現した掌に収まる小さなブロンズ像を作成し、それを代金として先渡しすることで、彼女の了承を得る。
この像は、ミューズ自身の物も含めて全部で4体作られたが、残りの2つを誰が所持しているかは、推して知るべしである。
満天の星空の中、灯篭の明かりだけを頼りに、和也と紫桜が2人で湯に浸かっている。
ちょろちょろと流れ落ちる源泉の湯と、穏やかなそよ風が時折木々の葉を揺らす音だけが辺りに満ち、お互いに何も話さずとも、人生の大半を連れ添ってきた夫婦のように、独特の雰囲気を醸し出していた。
ただ、2人きりで湯に浸かる時には、必ず和也の腕を抱えて、その腕に抱き締められるようにして浸かることが好きな紫桜が、何故か今日は和也から少し距離を置いている。
「今日は菊乃の姿が見えなかったが、何か聞いているか?」
和也がこの島に来ると聞けば、何を押しても手伝いと称して彼に会いに来る彼女が、今日に限って姿を見せない。
辛い過去を乗り越え、本当に明るく笑うようになった菊乃の顔を見ることも、和也がこの島に来る主な理由の1つなのだ。
「女には、好きな男の前に出るのに、いろいろやりたいことがあるのよ。
もうすぐここへ来るから、心配しないでも大丈夫よ」
紫桜が、さらりととんでもないことを言ってくる。
「何?
この場所にか?」
星空から彼女に視線を移した和也が、驚いたように聴いてくる。
「ええ。
彼女、あなたに謝りたいことがあるのですって。
だから、腹を割って話ができるよう、ここへ来るように言ったの。
・・お友達と一緒にね」
「友達?」
今は雪月花にいる白雪以外に、菊乃がそんなに親しくしている者がいるだろうかと、和也が考えを巡らせていた時、脱衣所との境の扉が開かれ、3人の女性がこちらにゆっくりと歩いてくる。
「おまえ達・・」
それぞれの顔に見覚えのある和也は、肩の力を抜くと同時に、少し呆れる。
「うら若い女性がたしなみを忘れてはいかんぞ。
そういう姿は、同性の前や治療行為以外は、本当に心を許した相手にしか、晒すべきではないのではないか?」
大切な娘を見やる、父親のような表情で、小さな手ぬぐいで申し訳程度に下腹を隠しただけの3人に、やんわりと注意する和也。
それを聞いた紫桜が、呆れたような、腹を立てているような声で言ってくる。
「事故とはいえ、わたくしの裸を盗み見たあなたが、一体何を言ってるのよ。
それに、彼女達のことを、もっとよく見てごらんなさい。
真っ赤になって、震えているでしょう?
勿論、寒いからではないのよ?
大好きな人に、恥ずかしさを我慢して、自分を見てもらおうと精一杯頑張っているのよ?
あなたが彼女達にかけてあげるべき言葉は、言わなければならない言葉は、そんな薄っぺらなものでは決してないはずよ!!」
紫桜には珍しく、激しさを伴った物言いに、和也は、心細げに立つ3人に向け、再び声をかける。
「・・先ずは湯に浸かれ。
まだ暖かいとはいえ、そのままではいいかげん寒いだろう」
穏やかに苦笑する和也からの言葉に、3人はほっとしたように身体を弛緩させ、それぞれがかけ湯をしてから、静かに湯に身体を沈めていく。
「すまなかったな。
おまえ達の気持ちを全く知らないわけではないが、常にうぬぼれないよう自分を戒めている身には、おまえ達の姿は、少し眩し過ぎたのだ。
だからつい、心にもないことを口走ってしまった。
・・ミューズ、その後はどうだ?
店は順調か?
・・アンリ、いつも美味いパンを有難うな。
時々、売り物が一瞬で消えて、お客に叱られるようなことはないか?
・・菊乃、暮らしを楽しんでいるか?
何か自分に話があるようだが、遠慮せずに言ってくれていいぞ?」
かの時、彼女達を魅了した優しい笑顔で、身体に染み渡るような素敵な声色で、1人1人に話しかける和也。
3人の顔が、お湯の熱さではないもので、一瞬にして真っ赤になる。
「御剣様、お心遣い有難うございます。
今日は厚かましくも、お二人の時間にお邪魔して、申し訳ありません。
私が将来、心血を注いで挑むべき作品には、どうしても御剣様の、ありのままのお姿を知る必要があったのです。
お店の方は、御陰様でとても繁盛致しております。
全て、御剣様に頂いた、あのお言葉によるものです」
ミューズが嬉しそうにそう口にする。
「ありのままの姿?
・・・それを表現する時は、是非とも腰布を希望する」
「フフッ、御剣様ったら。
善処致しますね」
「御剣様、ご無沙汰致しております。
私のパンを、美味しいと言ってくださるそのお言葉だけで、何よりの励みになります。
パンが一瞬で消えることは、今やお店の名物みたいなものですから、どうぞご心配なく。
今日は恥ずかしかったですが、皆に背中を押されて、思い切ってご一緒させていただきました」
アンリは以前より、大分明るくなった気がする。
仲の良い友人達ができて、それが彼女に心の余裕を与えているのかもしれない。
「アンリ、皆で御剣様とご一緒しようと話し合った時、真っ先に賛成したのは、あなたではなかったかしら?」
ミューズがニヤニヤしながらアンリをからかう。
「それを言うならあなただって、何も御剣様の全てを拝見する必要はないでしょ?
以前特別に見せてもらった下絵には、鎧姿の御剣様が描かれていたのだし」
アンリの反撃を受けて、ミューズが言葉に詰まる。
「お二人とも、御剣様の御前ですよ。
言葉でどう言い繕うと、御剣様がその気におなりになれば、全てが明らかになるのですから」
菊乃が仲裁に入る。
「それは分かっておりますが、少しは包み隠すのが、大人の女性というものです。
まあ、私達も誘ってくださった恩に免じて、あなたが"大喜び"で連絡してきたことは、黙っておいて差し上げますね」
ミューズがそう笑顔で告げると、アンリも続く。
「何事においても、正直なことは良いことです。
あなたも早く御剣様に謝罪をなされた方が良いのでは?」
その言葉にはっとして、菊乃は身体の向きを変え、湯船の中で正座して、真面目な顔で和也に告げる。
「御剣様、本日は御剣様にお詫びしたいことがございまして、紫桜様にご無理を言い、謝罪の場を設けていただきました」
菊乃の様子を見て、和也の表情も少し引き締まる。
「何があった?」
「実は、お預かりしている養鶏場の鶏が、1羽見当たらないのです。
島中探したのですが、どこにもいなくて。
私の管理不行き届きです。
どんな罰でもお受け致します。
本当に申し訳ありません」
菊乃が、湯に顔が浸かりそうなくらい、頭を下げる。
「・・・すまん。
それは自分のせいだ。
奴には、ちょっとした仕事を頼んで、異世界に行ってもらっている。
管理しているおまえには、事前に伝えておくべきであった。
こちらこそ、申し訳ない」
和也の言葉に、驚いて頭を上げる菊乃。
「異世界、ですか?」
「そうだ。
つい先日、とある人物を助けてな。
まだ仕事に不慣れなその者を補佐する意味で、向こうに行ってもらったのだ」
「そ、そうでしたか」
まさかその鶏が、念話を用いて人と会話ができるようになっているとは夢にも思わない彼女は、和也が言っていることが今一つ理解できないが、大事な鶏が無事でいたことに、ひとまず安堵する。
「よかったです。
いなくなったわけではないのですね」
「よくないわよ」
紫桜が口を挟む。
「和也さん、菊乃はね、本当に熱心に鶏の世話をしているのよ?
いなくなったと知って、随分探し回ったようだし。
それもこれも、皆あなたから任されたことだからなのよ?
口で詫びるだけじゃなくて、何か、彼女の余計な苦労に報いるべきではなくて?」
「いえ、そんな。
私が好きでしていることですから」
「・・菊乃、おまえの夢は何だ?」
先程から、何かを考えていた和也の、厳かな声がする。
「え?
夢、ですか?
・・そうですね、今はとても幸せなので、この幸せがいつまでも続くことですかね。
御剣様のお側で、紫桜様達やファンクラブの方々、お世話になった方々に囲まれて、これからも楽しく暮らしていきたいです」
「自分はな、おまえには、これ以上辛いことを経験させたくはなかった。
酷い仕打ちを受けたおまえには、人として、残りの人生を謳歌し、次なる生に向けて、安らかな眠りに就いて欲しかった。
だから、彼女達のように、リングを渡さなかったのだ」
ミューズやアンリの方を、ちらりと見やる。
「永遠の時を得て、親や友人達と死に別れ、決まった仲間以外は己の周囲から消えていく苦しみ。
それに耐え続けろとは、自分からは言えなかった。
・・だが、もしおまえが望むなら、彼女達と同じ道を用意しよう。
我が眷族の一員として、迎え入れよう。
おまえはどうしたい?」
大きく目を見開いた菊乃が、震える声で答える。
「御剣様の眷族に加えてください。
・・ずっと、ずっとそう望んでいました。
何時かは私も、約束の地に行けることを・・。
どうか、どうかお願い致します」
両手を口に当て、はらはらと涙を流す菊乃。
和也が湯から右の掌を出し、そこに光が集まる。
そして、光が収束した後に生まれたリングを、彼女の手を取り、右の薬指にはめてやる。
「ああ・・」
感無量で、涙が止まらない菊乃。
「よかったわね」
紫桜が優しく微笑む。
「おめでとう。
これで皆で約束の地に行けるわね」
「おめでとう。
本当に嬉しいわ」
ミューズとアンリも彼女を祝福する。
「有難う。
頑張ってファンクラブの活動を続けてきたおかげかもしれません」
手を取り合って喜ぶ3人を見ながら、和也は、やれやれといった表情で彼女らを見ていた紫桜に、念話で尋ねる。
『約束の地とは、何処のことだ?』
『そのくらい自分で考えなさいな。
それと、今日のことは、貸しよ?
後できちんと返してね』
湯の中で和也の手をギュッと握りしめながら、艶やかに微笑む紫桜であった。
「クックドウドルドー(起きろ、戦友)」
長閑な畑作地帯に、朝日と共に響き渡る鳴き声。
目覚まし時計を必要としない、タヤンの1日が今日も始まる。
冷たい水で顔を洗い、歯を磨いて、身支度を整えた頃、社長宅で食事の用意ができたことを知らせる、電話のワン切りがある。
田舎の夜は早いので、夕食からかなりの時間が経った彼のお腹は、いつでもいいぞとスタンバイしている。
出汁のきいた味噌汁、ふんわりして、僅かに甘い玉子焼き、鯖の煮つけ、浅漬けのお新香、ぱりぱりして香ばしい海苔をおかずに、朝から3杯もの大盛りご飯を平らげる。
近頃お腹の大きくなってきた女将さん(彼は社長の奥さんのことを、こう呼んでいる)に代わり、食べ終えた人数分の食器を流しまで運び、それを手早く洗う。
その後、鶏舎の鶏に餌と水をやり、産んだ卵を回収して、掃除をする。
掃除が雑だと戦友から文句が出るので、決して手は抜けない。
それからやっと、午前の仕事に取りかかる。
地域住人の高齢化と共に、ますます拡大していく畑。
自分達では維持できなくなった畑を社長に売り、忙しい時にだけ、手伝いに来てくれる人々が増えた。
彼がここに来た時は、確か10ヘクタールくらいだった畑が、1年後の今では、14ヘクタールにまでなっている。
それまではなかった、田んぼも手に入れた。
社長に畑を売った人達の評判がかなりよく、売買契約もとてもスムーズに進むらしい。
何でも、買い取り資金を借り入れる銀行が、社長からは利息を取らないらしく(ここ数年で急に勢力を伸ばしてきた、巨大グループの傘下らしい)、本来なら銀行に支払うはずの金利分の1割を、売買代金に上乗せして売主に渡しているのだとか。
そうして買い取った新たな畑では、様々な取り組みがなされている。
先ずは土作り。
一定区画ごとに、混ぜる肥料や養分を変え、その作物に最適の土を探している。
品種改良もやり始めた。
ただこちらは、遺伝子の組み換えなどで、かえって人体に悪影響を及ぼさないよう、最新の研究成果を発表した論文記事などを参考にしながら、かなり慎重にやっている。
田んぼに関しては、まだ知識が浅く、人手が足りないため、とりあえず自分達が食べる分だけにしたようである。
それでも、進む温暖化に向けて、2~3種類の品種を植えているあたりは、流石としか言いようがない。
またこれ以降、年に1~2回、バキュームカーが数台やって来ては、休耕地に向けて、中の泥水を放出していくのだが、一体何処からやって来るのかは謎である。
作業後、戦友と共に泥水が放出された場所に行くと、時々、ザリガニや泥鰌の子供、小魚などか飛び跳ねているので、それらを捕まえて、用水路に放してやる。
こちらが膝まである長靴をはいて、ゆっくりと歩を進める中、鶏のくせに、スイスイ歩いていく奴が妬ましい。
奴、今ではかけがえのない友として、戦友の呼び名で呼ぶ鶏との出会いは、自分がここに来てすぐの頃にまで遡る。
思えば、かなり衝撃的な出会いであった。
「ここで働いてもらう際に、守ってほしいことを予め伝えておくね」
社長にそう告げられ、今日がここでの労働初日となる俺は、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、全神経を集中させる。
「先ず、挨拶をきちんとすること。
知人に会った時、朝昼晩の挨拶をしっかりとして欲しい。
知らない人に、向こうから声をかけられた時にも、同じように挨拶すること。
これは単純そうに見えて、実は非常に大切なことなんだ。
僕達はここに来てまだ10年弱。
この村に根付くには、もう少し時間がかかる。
ましてや君は、こう言っては失礼かもしれないが、外国人だ。
一見長閑に見えるようでも、閉鎖的な田舎の村では、外から来た者は必要以上に警戒される。
随分前に、何処かの町で、外国人が無差別に人を殺す事件が起きてから、それまでちょっとした外出時には鍵をかけないでいた村人達の中にも、施錠の習慣がついたと聞く。
勿論、君自身が悪い人間だと言っているわけでは決してないんだよ?
ただ、人というものは、物事をひとまとめにして考える癖がある。
農業というものは、自然との共存であるばかりでなく、地域との共生でもあるんだ。
だから、少しでも早く皆さんに受け入れてもらえるよう、お互いに、挨拶はしっかりしていこう」
「はい!」
「うん、いい返事だ。
あとは、少しずつだけど、勉強をしてもらうことになる。
うちは完全有機栽培だから、農薬に頼らない分、いろいろと手間がかかる。
作業の手順、時期、肥料の配合など、作物ごとに微妙に異なるから、資料として渡す分に目を通し、分からないことは、どんどん質問してね」
「頑張ります」
「最後に、君はこの国の運転免許を持っていないよね?
もし君が望むなら、3週間くらいの合宿で取らせてあげることも可能だけど、どうする?」
「・・それは、今は遠慮しておきます」
「お金のことなら、こちらの経費として落とすから、心配ないよ?」
「いえ、今の自分は、他に覚えることが沢山あるし、自分が教習所に通えば、その分、お二人の負担が増します。
今は即戦力とはいかなくても、少しでも使える人材が欲しい時だと思っています。
教習所に通う分の時間を、ここで精一杯働いて、少しでもお役に立ちたいです」
御剣にここに連れてこられるまでに、それらしい施設は見当たらなかった。
おそらく、通うにはそこに泊まり込むか、かなりの時間をかけて、ここから通学するしかないのだろう。
田舎町だから、長い目で見れば、免許を持っていた方が何かと便利だろうが、御剣と約束した以上、一刻も早く、彼らの期待に応えなくてはならない。
以前の職場と異なり、逃げ出す必要もないだろうから、ある程度の不便さを我慢すれば済む。
「・・君は本当に真面目だね。
その気持ち、とても有難いよ。
実は君がそう言うだろうからと、御剣さんから預かり物がある。
後で渡すね。
では、今日から頑張って欲しい。
一生懸命働いて、美味しい野菜や果物を、御剣さんに届けよう」
「はい、頑張ります!」
こうして俺の農場生活が始まったわけだが、あちこち動き回りながら、忙しく作業する俺の近くに、常に同じ鶏がうろちょろしていることに、まもなく気付くことになる。
最初は偶然かと思ったが、流石に3日も続けば確信が持てる。
薄茶色の、綺麗な毛並みを持つ鶏で、他の鶏より一回り大きい。
俺が熱心に作業している間は、その辺の虫や雑草を啄んでいるが、少し休憩していると、じっとこちらを見てくる。
別にさぼっているわけではないので、疚しいことは何もないのだが、何となく落ち着かない。
無駄と知りつつ、ちょっとだけ文句を言ってみた。
「何見てんだよ。
そんなに外国人が珍しいのか?」
『はあ?
そんなわけあるかよ。
ご主人様の命で、仕方なくおまえの面倒をみてやっているのさ』
まるで誰かが話しているように、自分の脳に直接響いてくる。
『!!』
びっくりして周囲を見渡すも、広い敷地には、自分とこの鶏以外、誰もいない。
『何を驚いている。
鶏が話すのがそんなにおかしいのか?』
「そりゃおかしいだろう!!」
思わず大声で叫ぶタヤン。
『何故だ?
俺も生物である以上、ある程度の知能を持っている。
ご主人様によって強化されてはいるがな。
人間のみが会話ができると思い込んでいるのは、おまえ達のエゴにすぎぬ』
「・・俺の名はタヤン。
試しに3歩ほど歩いてみろ」
『貴様もしかして、俺を鶏頭だと馬鹿にしているのか?
いくらご主人様の命といえど、そのような態度では困った時に助けてやらんぞ?』
「ご主人様って一体誰のことだ?」
『それは言えぬ。
ただ、とても偉大でお優しいお方だ。
おまえのような者にまで、情けをかけられるのだからな』
タヤンには、鶏が鼻で笑ったように感じられた。
「鶏の分際でいい度胸だ。
俺が世間の厳しさを教えてやるぜ」
ファイティングポーズを取りながら、シュッシュッと、鶏を威嚇するタヤン。
彼は子供の頃、少しだけムエタイをかじったことがある。
その途端、目に見えぬスピードで、腹に鶏の足蹴りをくらう。
「グハッ」
『遅いな。
拳が止まって見えるぞ』
「何だと!?」
今の攻撃は、自分には全然見えなかった。
こいつ、できる。
気を引き締めたタヤンが、再び構える。
暫し睨み合う2人。
そこへ、社長の声が響いてくる。
「おーい、そろそろ昼飯にしよう」
「・・社長に助けられたな」
『それはこちらの科白だ』
昼飯と聞いて、仕方なく構えを解くタヤン。
何でもないように社長の所へ走って行くと、何故か困ったような笑顔の彼に言われる。
「もしかして、ホームシックかい?」
「え?
どうしてですか?」
「・・なんか鶏と会話したり、仲良く遊んでいるように見えたから。
僕でよければ、相談に乗るよ?」
「・・いえ、大丈夫です。
すみません、ご心配をおかけして。
ときに社長、あの鶏は何時頃からここにいるのですか?」
そう言って、件の鶏を指さすタヤン。
「ああ、あの鶏ね。
あれはつい最近、御剣さんが連れてきたんだ。
何でも、彼が飼っている鶏の内の1羽で、最近ストレスを感じているようだから、広い場所で、のびのびとさせてやりたいのだとか。
面倒な世話はいらず、他の鶏と同様に扱ってくれていいというので、暫く家で預かることにしたんだ。
なかなか綺麗な鶏だろ?
気に入ったのかい?」
「・・いえ、べつにそういうわけでは。
前から気になってたんですが、こんなに無造作に放し飼いにして、猫とかにやられたりしないんですか?」
そう尋ねられた社長の顔が少し引きつる。
「・・ここで働いてもらう以上、君にも知らせておく必要があるから話すけど、このことは誰にも内緒だよ?」
社長が小声でそう告げてくる。
「はい」
「うちの農場全体をね、上空の監視衛星が見張っているらしいんだ。
農場の敷地内に無断で入ろうとするものは、たとえそれが人であれ動物であれ、その衛星に備え付けられたカメラによって瞬時に解析され、不法侵入者だと判断されれば、すぐに最寄りの警察署に連絡がいく」
「・・マジですか?」
「マジ、それも大マジ。
ほら、うちは君が来てくれるまで、2人だけだったろう?
こんな広い農場では、夜中に泥棒に入られても気付かないし、田舎とはいえ、お金があると知られれば、何かと物騒でもあるからと、御剣さんが知り合いの警備会社に頼んでくれたらしいんだ」
「らしいとは?」
「正直な話、詳しいことは僕にもよく分からないんだ。
ここをうちが買い取るまでは、ほとんどが彼の所有地で、僕達は借りていただけだし、買い取った今でも、警備料金は彼が支払ってくれているから。
以前、こちらが払いますと申し出たんだが、知り合いが格安でやってくれているからと、やんわりと断られた。
監視衛星を使うくらいだから、格安とはいっても、そんなに安いはずはないんだけどね。
彼には本当に頭が上がらないよ。
・・ああ、猫の話ね。
うちが飼っている鶏の数は、それ程多くはないし、その全てを毎回区画を決めて放しているから、そこにだけ注意をしていれば、問題はない。
具体的には、太陽電池で動くドローンが1台あって、それが監視衛星からの電波で自動で飛び回り、猫なんかが襲ってきた時は、内蔵されている電気銃で撃退してくれるんだ。
死なない程度の電圧にしてあるから、スタンガンにやられたみたいに、一時痺れて動けなくなるだけで、作業が終わった頃には回復して、そこらにいる野ネズミなんかを狩って帰ってくれる」
「・・初めて見た時、長閑でのんびりとした所だと思いましたが、実はかなりハイテクだったんすね」
聞き終えて、半ば呆然としてそう告げるタヤン。
「ははは、全部、御剣さんのおかげさ。
僕達は、いつでものんびりと作業し、まったりと暮らしているよ」
勉強熱心な彼らが、そんなわけないだろうと思っていると、突然、社長の携帯が鳴り響く。
『一体何してるの?
お味噌汁が冷めちゃうじゃないの!』
ここまで聞こえる声で、女将さんが社長に文句を言っている。
「飯にしよう。
妻が待っている」
苦笑いの社長が、少し慌てて言ってくる。
「はい!」
飯と聞いて、元気よく答えるタヤン。
『フッ、現金な奴だ』
社長の前なので、脳内に響いてきた鶏の言葉を、何とかスルーする彼であった。




