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創造神の嫁探し  作者: 下手の横好き


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番外編、4人目の妻

 「先生さようなら」


「さよなら。

気をつけて帰ってね」


有紗ありさ先生、さようなら」


「さよなら。

夜更かしばかりして、風邪ひかないようにね」


もうすぐクリスマス。

週末の授業を終え、明日からの楽しい時間に、心躍らせて帰って行く生徒達。

3階の校舎の窓から、部活に励む生徒達を見ながら、ゆっくりと職員室に向かう。

都内でもトップクラスの進学校でありながら、幼稚舎や小学校からエスカレーターで進学してくる生徒が大半を占めるこの学校は、お金持ちの家の生徒が多いせいか、受験一辺倒のぎすぎすした雰囲気とは程遠い。

どの生徒も、学生生活を楽しみながら、自分がやるべきことをしっかりとこなしている。

勉強とアルバイトばかりだった自分の学生生活を振り返り、羨ましく感じることもあるが、彼(神様)のおかげで長年の懸念であった奨学金の返済から解放され、気持ち的にも随分楽になったせいで、過去の努力が今の自分を作っていると納得できるようになった。

職員室の扉を開け、まだ大勢の同僚が残っている室内を通り抜け、自分の席に座る。

書類仕事に精を出そうとした時、後ろから声がかかった。


香月こうづき先生、ちょっといいですか?」


振り向くと、1年下の男性が立っている。


「はい。

何でしょう?」


「先生は、明日の飲み会、参加するんですか?」


「・・いえ。

いろいろと予定が入っておりまして・・」


「・・そうですか。

残念です」


かなりがっかりしたようにそう言ってくる。


「香月先生は駄目だよ。

なんたって今まで1度もそのての集まりに参加したことないんだから。

それに、ガードが堅いし競争率も高いから、誘うなら人に見えない所でやらないと、他の教師達に目を付けられるぞ」


年配の教師が苦笑いしながらその男性に忠告する。

男性が慌てて周囲を見回すと、あちこちから静かに自分を注視する視線に出くわして、すごすごと己の席に戻って行く。


「持てる女は辛いわね」


隣の席の先輩教師から、いつものように小声でからかわれる。


「そんな。

只の参加確認じゃないですか」


「またまたぁ。

・・でも、あなた最近少し変わったわよね」


急に真顔になって、そう言ってくる。


「そうですか?」


「ええ。

何ていうか、女性らしくなったわ。

あ、御免なさい。

勿論、今までがそうじゃなかったという意味じゃなくて、雰囲気が柔らかくなって、・・そう、ちゃんと男性を視界に入れている感じ」


「・・私、そんなにタカビーでした?」


「そうじゃないけど、今までは、男を”男として”見ている感じじゃなかった気がするの。

その辺の石ころとまでは言わないけど、何ていうか、こう、単に性別が違うだけの存在である、みたいな」


言われてみれば、確かにそうかもしれない。

親戚中をたらい回しにされていた子供の頃は、そこの人達に迷惑をかけないようにとしか考えてなくて、いちいちその人達の顔すらろくに見ていなかった気がするし(今考えると、それがたらい回しにされた原因よね)、高校に入って、奨学金を借りられるようになってからは、1人暮らしを始めて、勉強と、学校から特別に認めてもらったアルバイトざんまいの生活で、それこそ、他の人を気にする余裕なんてなかった。

大学に合格し、地方から都会に出てきて、給付と貸与の2つの奨学金を得ながら、さらにその2つのことに励んだ4年間は、サークル活動はおろか、友達すら作れなかった。

名門私立校の数少ない正規雇用の職を得て、アルバイトからは解放されたが、奨学金を前倒しで返済していた身には、あらゆる贅沢は敵であった。

心が荒んでしまわないように、年に何回か、大好きなお寿司を食べに行くのが、唯一の贅沢だったかな。


「・・我ながら、地味な人生を送ってきたと、今、実感しました」


「でしょう?

あなた、凄い美人なのに、化粧っ気もろくになくて、服装も教師としては完璧だけど、女としては地味だし、一体何を楽しみに生きてるのか、興味があって、よく見てたのよね。

それが、2か月ほど前に、珍しく有給取って休んだ後くらいから、突然変わったから、驚いていたの。

ねえ、何があったの?」


「え?

・・あの、口では説明するのが難しい、素敵な出来事がありまして、その後、急に視界が開けたように感じるんです。

なんかこう、自分の中にあるスイッチみたいなものが、誰かに押されたみたいに感じられて・・」


『ハハーン』


先輩教師が何だかしたり顔で自分を見てくる。


「・・何ですか?」


「いえ、べつに。

ただ、私から見れば、今のあなたの方が断然素敵よ。

これから益々、男性からのお誘いが増えると思うけど、頑張ってね」


「何をですか?

全く」


溜まっている書類を片付け始めながら、心の片隅では、最近はいつも彼のことを考えている自分を、少し持て余してもいた。




 クリスマスイヴ。

1か月も前からデパートが飾られ始め、年末商戦で賑わう街を、若いカップル達が弾むような足取りで歩いてゆく。

冬にしては温かい日差しの中を歩く自分の目的地は、そんな華やかな場所ではなく、一種独特の熱気に包まれた、郊外の競馬場である。

勿論、お洒落して、デートに使う男女もいるから、都心の商業地とはまた別の華やかさがあるが、自分には、気のせいかもしれないが、馬たちを見る彼ら(彼女ら)の目に、異様な迫力を感じてしまう。


 あれから、毎週のように競馬場に来ている。

途中で開催地が変わり、そのことを知らずに1度だけ、馬が走っていない場所で途方に暮れたことがあるが、それを教訓に、今では行く前にネットできちんと調べている。

ただ、競馬場に来るのは、馬券を買うためでも、馬を見るためでもない。

あれ以来、馬券は1度も買っていない。

もともとギャンブルとは無縁の生活だったし、彼のおかげで奨学金を完済し、それでもなお600万もの大金が手元に残った今の自分は、お金に不自由していない。

そんな自分がなぜここまで来るのかと言うと、もう1度、彼に会う可能性に賭けているからだ。


 あの夜、彼と別れてから、随分後悔した。

何でもっと強引に迫らなかったのか。

せめて、また会う約束くらいしておけばよかったのに。

そう自分を責めて、涙を流した後には、決まってもう1つの考えが頭に浮かんでくる。

あれはたった1度きりの奇跡。

困っていた自分に、優しい神様が、気まぐれに手を差し延べてくれただけ。

これ以上望むのは我が儘というものだわ。

2つの内なる声に、何度も何度も今後の決断を迫られ、結局、彼を諦めきれずに、彼と出会った場所に足を運んでいる。

街を歩いていて、黒ずくめの格好をした人が視界に入ると、無意識に立ち止まってしまう。

人違いで、何度か謝ったこともあれば、そのせいで、逆にナンパされそうになって、慌てて逃げたこともある。

これまで幾度となく繰り返されてきた男性からのお誘いを、煩わしさを感じながら無下に断ってきた自分が、たった1度だけ、ほんの数時間ほどを共に過ごしただけの相手を必死に探し回っている。

今日もまた、彼の姿を求めて、全てのレースが終わる時間まで、人で溢れたこの場所を、あてもなくさ迷う時間が始まる。

一体、何をやっているのかしらね。

自分で自分に半ば呆れながら、ゆっくりと、人込みの中を歩き出した。



 その日、和也は珍しく競馬場まで足を運んでいた。

あれ以来、この世界でのお金を効率よく稼ぐべく、土、日の各1時間程度を馬券の購入に充て、毎回数千万程の利益を得ていたが、顔を覚えられるのを避けるため、全国各地の馬券売り場を転々とし、わざわざ競馬場まで来ることはなかった。

だが、今日はクリスマスイヴ。

この世界で信じられている神様の1人に関係の深い日であり、今年はたまたま非常に大きなレースが催される日と重なったため、優に10万を超える人が集まっているので、人間観察が好きな和也は、馬券購入の傍ら、それを楽しむことにしたのだ。

いつもより早めに来たせいもあり、既に8000万程稼いだ後、本命のメインレースに手を出そうとして、窓口に並ぼうとした足が止まる。

とある男の思考が流れ込んできたせいである。

暫くそれに耳を傾けた和也は、そのレースの馬券を購入することを諦め、観客スタンドに向けて歩き出す。

そして、その最上段の席で、その時が来るのを静かに待つのだった。



 その男は、今日のメイン競争が引退レースでもあった。

40年に及ぶ騎手生活にピリオドを打ち、引退後は競馬の仕事に係わらず、田舎に帰って静かに余生を送るつもりでいた。

男のこれまでの成績は、決して良いと言えるものではない。

通算427勝。

年間に10勝程度しかしていない。

新人騎手としてデビューしたての頃は、かなりの好成績をあげ、マスコミなどに持てはやされたが、ある重賞レースで、その年のダービー馬候補の1頭に騎乗し、スタートで出遅れた上、勝たねばならない重圧から、かなり強引なレース運びをして、ゴール手前の直線で馬が骨折し、自身も落馬、左手と左足、あばらを数本折る大怪我をしてしまう。

自分は運よく半年程で復帰できたが、前足を複雑骨折したその馬は安楽死処分となり、その馬が競馬界の大物の所有であったことから、以後、騎乗依頼ががた落ちする。

数年が経ち、少しほとぼりが冷めた頃には、今度は自分が直線で思い切り馬を追えなくなっていた。

大事な馬を死に追いやった自身の行為を悔やむあまり、馬に負担のかかる乗り方を一切できなくなり、当然、レースでも勝ち星が増えず、騎乗依頼はさらに落ちていった。

だがその代わり、調教での騎乗が激増する。

馬に無理をさせず、大事に、丁寧に乗ってくれる男は、レース前の仕上げの騎乗にうってつけであり、人気騎手が直前の調教に乗りに来ることは稀であったため、毎週のように複数のトレセンで馬に調教をつけていた。

厩舎の人間からは、調教師への道を何度も勧められたが、自己の傲慢さで馬を死なせたことへの贖罪から、引退後は、競馬に係わることから身を引くつもりでいる。

自分が何度も調教をつけてきた馬を、レースの時にはテン乗りの騎手に持っていかれることは日常茶飯事であったが、男はそれで満足であった。

そして瞬く間に時は過ぎ、引退を迎えようとした自分に、懇意にしている厩舎の調教師が、1頭の馬をあてがってくれた。

その馬は、3~4歳でG1を2度制覇するも、その後の落馬事故で心理的に弱くなり、極端に他馬を気にするようになって、馬込みに入ると本気で走るのを止めてしまう悪い癖がついていた。

そのせいで、以後はレースで勝てなくなり、この馬も、今日のこのレースで引退が決まっている。

そんな男と馬が臨む引退レース。

それは、その年の競馬を締めくくる総決算となる、有〇記念。

超満員のスタンドから、大勢のファンが見守る中、今、そのスタートが切られようとしていた。


 ガシャン。

ゲートが開き、一斉に馬たちが飛び出す。


『よし、スタートはまずまずだ』


中団より少し前辺りを、馬にストレスを与えぬよう、大外を回りながら、足をためる。

体内時計が例年よりやや遅い流れだと教える中、スタミナには自信のあるこの馬に、ハナを切らせるかどうか迷う。

このレースの本命馬たちは、どれも差し馬だ。

瞬間的なスピードでは、ピークを過ぎたこの馬では敵わないだろう。

馬込みに入れられない以上、後方でじっと我慢して、4コーナーで最内をつくこともできない。

直線の短いこの競馬場なら、この馬のスタミナ次第では勝機がある。

男はそう決断し、向こう正面辺りでハナに立ち、馬のリズムを尊重しながらレースを進める。

後続を5馬身くらい離して逃げる男の馬が、最後の直線の手前に差し掛かる。

後ろから徐々に聞こえてくる他馬の足音を意識しながら、勝てるかもしれないと高揚して、鞭を取り出そうとした、まさにその時、男の脳裏に、死なせてしまったあの馬の姿が思い浮かぶ。

鞭を取る手を止め、いつものように、直線を馬に任せて走り抜けようとした男。

・・その時、男の後ろから、他者には認識できない蒼き風が吹き抜ける。

風を感じた男の視界に、ゆっくりと金色に輝く道が伸びていき、その前方を、忘れもしない、あの馬が、自分を導くように駆けていく。


『!!』


男の目に、涙が滲む。


『自分を許してくれるのか?

もう、痛くないのか?

・・俺だって、もう1度、・・もう1度、おまえと一緒に思い切り走りたかったんだ!!』


鞭を取った男の、鋭い左鞭が1発入る。

パーン。

騎乗している馬が、闘志を燃やして全速力で直線を駆け抜ける。

ゴール板はおろか、視界には、金色の道とあの馬だけしか見えない空間の中を、男は、自らの馬と共にひた走る。

その1完歩1完歩が、スローモーションのように感じられる時の中、金色の光を浴びながら、これまでの想いを乗せて、あの馬を追い続ける男。

やがて、前を走る馬の姿が見えなくなり、男の視界が現実の光景を映し出す。

自分の前に、どの馬もいないゴール板を通過する。

人気薄の馬がきて、静まりかえった競馬場の中、勝者だけに許されたウイニングランの途中、ゴーグルを外した目に腕を当て、男泣きする騎手。

その姿に、馬券の結果に関係なく、スタンドから、さざ波のように、拍手が沸き起こるのであった。


 和也は、それを見届けると、口元に浮かぶ僅かな笑みと共に、レース場に静かに背を向ける。

無理やり勝たせたわけではないが、力を貸した以上、このレースの馬券は購入していない。

早めに帰り始めた人の群れに紛れて、この場所を去る和也であった。



 『・・今日も駄目だったわね。

こんなに人が多くては、かえって探しづらいし』


途中で何度か休憩を挟みながら、彼を探すこと約4時間。

歩き疲れて入った喫茶室では、なぜか他の人達からちらちらと視線が送られてくるし、知らない女の子から、『モデルさんですか?』なんて言われたりする。

意味がわからなくて、愛想笑いでごまかしたら、かえってキャーキャー騒がれて、慌てて外に逃げた。

今までも、ちょっと油断すると、男性からよく声をかけられたが、最近は、女性からも似たような目に遭うことが多くなってきた。

休日は、溜まっている家事をしたり、家でのんびりしていたのに、このところ、彼を探して出歩いているせいかしらね。


『帰りましょう』


日が暮れるのがめっきり早くなった冬景色の中を、電車に揺られ、都心へと戻る。

陽が沈み、闇に覆われた都心の街並みは、イヴを祝うイルミネーションで輝いて、腕を組み、肩を寄せ合うカップル達で賑わいをみせている。

そんな彼らを少し羨ましそうに眺めながら、足は自然とあまり人通りのない、静かな場所へと進んで行く。

繁華街から遠ざかるにつれて、聞こえていたクリスマスソングが次第に途絶えていき、肌寒さが増していく。


『そういえば、今夜は雪の降る地域もあったわね。

ホワイトクリスマスかあ。

若い頃は何とも思わなかったのに、今頃になって、何でこんなに寂しく感じるのかしらね』


あてもなく歩いていた道が、住宅街に差し掛かる。

クリスマス用に綺麗に飾られた家々から、時折聞こえてくる笑い声。

高校で1人暮らしを始めた時から、誰かと共に過ごした経験のない彼女には、無縁の世界。

誕生日も、クリスマスも、そしてお正月も、自分を祝うというよりも、バイトでお金を得るために、誰かを祝う側にいた。

教師という今の仕事は、生徒達の成長を間近で見ていける、とてもやり甲斐のある仕事。

学校と家とを往復するだけで満足だった毎日に、ある日突然訪れた、運命とも思える、彼との出会い。

それによって自分の心に生まれた波紋は、静かに、ゆっくりとではあるが、確実に増え続け、大きくなっている。

なのに、この寂しさ、辛さを、癒してくれるであろう存在は、皮肉なことに、たった1人しかいない。

どんなに寂しくても、どんなに辛い時でも、他の人では心が反応しない。

彼以外には、自分の心の隙間を埋めることができない。


『もしかして、神様って、本当はいじわるなのかしら』


あの時の優しい彼を思い浮かべ、その笑顔に向けて、厭味の1つも言いたくなる。


『・・なんてね。

あの時、彼に会わない方がよかったなんて、少しも思えないのだもの。

仕方ないわよね』


最近ではあまり見かけなくなった、個人の写真スタジオ。

お休みなのか、明かりの消えた飾り窓の中で、モノクロの写真たちが、様々なカップルの幸せな姿を今に伝えている。

ふいに、ガラスに映る自分の顔と目が合う。

その瞳からは、幾筋もの涙が、零れ落ちていた。



 和也は、その姿を遠く離れた場所から眺めていた。

競馬場で、ある男の半生を垣間見た際、ついでに開いた思念の海のチャンネルに、真っ先に彼女の強い想いが飛び込んできたからだ。

本来なら、そこに漂う思念は、怒りや悲しみといった、どちらかといえば負の側面の強いもの程よく響く。

喜びや嬉しさなどの感情は、余程耳をすませない限り、聞こえてこない。

同様に、誰かを愛する気持ち、恋焦がれる想いなども、めったに聞こえてはこないのだ。

なのに、彼女が自分を捜し求めるその想いが、他のどの思念よりも強く響いてきた。

この時、和也は彼女に会うのを躊躇った。

紫桜を娶ってから、まだ二月ふたつきも経っていない。

エリカからは、気にせずどんどん増やしていいと言われているが、紫桜は少し焼き餅を焼く。

それに、この世界は、自分が長年憧れてきた世界。

表立って堂々と魔法が使えない、ある意味最も厄介な世界であり、その女子力が、他と比べてずば抜けて高い星でもある。

単に外形的な美しさであるなら、この星にはない様々な要素を内に含んだエリカや紫桜たちの方が、かなり上をいくであろうが、女性の美しさはそれだけではないし、何より、文明が発達し、人権が尊重されるこの世界で、伸び伸びと暮らす女性達は、他の星ではあまり見られない、良い意味でのしたたかさを兼ね備えている。

人付き合いに未だ不慣れな自分が、とてもこの世界でやっていけるとは思えない以上、彼女を通してこの地に拠点を築くには、時期尚早とも思えた。

それに、自分が考えている、この世界で効率よくお金を稼ぐ手段には、どうしても、彼女のように信頼でき、かつ、無条件で協力してくれる存在が必要なのだ。

ここで彼女に近付けば、何だか彼女の想いを利用するみたいで、気が咎めもした。

だが、各地での換金を終え、もう1度だけ彼女の様子を眺めてみると、自分を想い、暗い夜道で独り涙を流している。

和也は、彼女の今後の人生を追ってみる。


『!!』


歳を重ねてゆく中で、春は桜を見ながら自分かずやのことを考え、夏には蝉の声が盛んな校舎の窓辺で自分を想い、秋には自分との僅かな思い出に浸りながらイチョウ並木を歩いて、冬は降りしきる雪を眺めながら、己の冷えた心を癒している。

桜舞い散る学校で、潮風の心地よい海辺で、紅葉の燃えるような山里で、湯煙の漂う温泉宿で、いつでもたった1人で、自分かずやのことを考えている。

どこかの家で、独り眠るように命尽きるその時まで、ずっと自分のことを忘れずに、想っていてくれた。

あの時、つい見かねて、彼女と接点を持ったのは間違いだったのか?

まさかこれ程までに、自分に想いを抱いてくれるなんて、考えもしなかった。

彼女は聡明で、そしてその容姿に見合う、美しい心を持っている。

報われぬ自分への想いを抱えながら、ひねくれることなく前を向き、自分に出会ったその時のために、ずっと己を磨き続けた。

・・・駄目だ。

これを見てしまった以上、知らぬ振りはできない。

こんな彼女を見捨てたら、自分が自分でいられなくなる。

それに自分だって、あの時彼女に告げた言葉は、決して偽りではないのだ。

そのぎこちない唇の感触に、なぜか、奇妙な相性の良さをも感じていたのだ。

ミューズの時もそうだが、自分は、行動するために人の中に舞い降りた。

徒に周囲に人を増やすことで、その者達の心変わりを恐れるより、真に自分を想ってくれる者達を信じて、前に進むべきだ。

さあ、ゆこう。

彼女が待っている。



 気温が下がってきたせいで、冷え切った頬を伝う涙が、とても温かく感じる。

ハンカチでそれを拭う彼女の目に、ガラス越しに自分を見つめる人の姿が映し出される。


『!!!』


大きくその目を見開く彼女。


『・・ああっ。

声が出ない。

振り向きたいのに、もし少しでも目を離してしまったら、あの時のように、姿を見失ってしまうかもしれない。

もうそれだけは嫌。

それだけは、・・絶対に嫌!』


身体を震わせ、ガラス越しに自分を見つめたままの彼女に、和也は声をかける。


「そこの綺麗なお姉さん、よろしかったら、少し自分の話を聞いてみませんか?」


彼女の身体の震えがいっそう大きくなるが、まだガラス越しにこちらを見たままだ。


「そこのスーツ姿の凛々しい綺麗なお姉さん、よろしかったら、少し自分の話を聞いてみませんか?」


彼女が大粒の涙を流しながら、やっと返事を返してくれる。


「・・いいわよ。

でも、忙しいから、ちょっとだけね」


そう言うや否や、いきなり振り向いて、和也の首に両腕を回し、抱き付いてくる。

力の限り自分を抱き締めてくる彼女の気持ちが落ち着くまで、暫し、2人で無言の時を過ごした。



 「・・そういえば、君の名前もまだ聴いていなかったな」


身体の落ち着きを取り戻しはしたものの、相変わらず自分を放そうとしない彼女に、こちらからそう声をかけてみる。


「・・香月有紗と申します。

・・あなた様は?」


自分の首元に埋めた頭を上げずに、顔を伏せたまま、そう言ってくる彼女。


「御剣和也という」


「・・今日は私に会いに来てくださったのですか?

それとも、ほんの少し立ち寄られただけなのですか?」


自分かずやの返事が怖いのか、首に回している彼女の腕に、再度力がこもる。


「この前と話し方が違うが、自分に敬語を使う必要はないぞ。

・・勿論、君に会いに来たのだ。

よければ、共に食事などどうだろうか?」


『・・よかった。

私のために、わざわざ時間を作ってくださったのね。

・・嬉しくて、また泣いてしまいそうだわ。

私、こんなに泣き虫じゃないはずなのに』


「・・喜んで。

是非、ご一緒させてください」


やっと顔を上げた彼女は、まるで異性から初めて告白された少女のように、とても初々しかった。




 (とある街の、路地裏のフレンチレストラン)


クリスマスイヴ。

それは本来なら、このてのレストランにとっては、1年で最も忙しい時期の1つでもあるはずの日。

若い学生達が、付き合い始めた相手のために背伸びをし、着飾った大人のカップルが、大事な人との素敵な時間を過ごすために集う、日常とは、一線を画する場所。

しかしながら、なぜかこの店には客がいない。

昼のランチタイムに少し入りはしたが、夜に訪れようと思う客は、今のところいないようである。

真新しい外観の、小奇麗な店であるにもかかわらず、それはなぜなのか?

・・その原因は、この店の立地条件と価格設定にあった。


 この店のある場所は、銀座や恵比寿、六本木といった、お洒落な繁華街とは異なり、どちらかというと、そういった繁華街に挟まれた、下町にある。

また、そう遠くない場所に、神楽坂のような高級料亭や老舗の割烹店が軒を連ねる場所があり、若者や富裕層の視線から外れがちだ。

さらに、もう1つ、大きな問題があった。

コース料金が、他の同規模の店と比べても、かなり高いのである。

最低1万円。

最も高いコースは、2万5000円もする。

フレンチの名店といわれる店の中でも、これ以上の価格設定をしているところは、極限られている。

それらの店は、いずれも長い時間をかけて客側に評価され、その店に訪れることが、客にとってのステータスにもなっている名店ばかりだ。

この店のオーナー夫婦はまだ若く、しかも、店を出してからまだ間もない。

これでは、客側から距離を置かれるのも、仕方のないことではある。

だが、決してオーナー夫婦が強欲というわけでもなければ、世間知らずというわけでもない。

問題は、夫婦の内、ソムリエでもある妻が、その祖父から譲り受けたワインなのである。


 彼女の祖父は、大手の総合商社に勤めていて、その仕事が、ワインなど、酒類の輸入に係わるものであった。

とりわけ、数十年前のバブル景気に乗って、欧州の高級ワインが飛ぶように売れたことから、当時は世界各地のワイナリーにも自ら足を運び、様々な研鑽を積んだ人物でもある。

そして、よくあることだが、それが個人の趣味にまでなってしまう。

超一流企業に勤め、部長職まで登りつめた彼の年収は1800万を超え、バブル時の預金金利は年6%もあったことから、ワインのコレクションにも熱が入り、ロマネコンティーをはじめ、多くのビンテージワインにも手を出した。

8000万近い退職金の、その半分以上をつぎ込んだ彼のコレクションは、個人ではかなりの部類に入り、生前は、時々雑誌の取材も受けるほどであった。

彼の妻は、家庭をろくに顧みず、自分の趣味にばかりお金をかける夫に早々に見切りをつけ、彼の定年を待たずに離婚した。

その子供である父も、30代の若さで交通事故に遭い、母と共に亡くなっている。

よって彼女は、子供の頃から祖父に育てられ、たった2人きりで10年以上暮らしてきた。


 彼女は、祖父のことが嫌いではない。

確かに自分の趣味には時間もお金もかけるが、人間的には良い人であったし、きちんと生活に必要なお金はくれた。

それに、思春期の難しい年頃の少女には、必要以上に係わってこない祖父は、ある意味理想であったし、中学を卒業して、大人になってくると、よく2人でワインを開けて、静かな時間を過ごしたものである。

あまり多くは語らないが、時々ポツリポツリと飲んでいるワインについての蘊蓄うんちくを傾けるのを聞いたり、逆に自分の愚痴を聞いてもらったりしながら、ゆるやかな時間を楽しんだ。

そんな祖父が膵臓癌で死に、唯一の相続人である自分が、その家と彼のワインコレクションを引き継いだが、相続税を払う段になって青くなる。

都内の自宅だけで優に相続税の控除額を超え、そのワインコレクションはというと・・・何と約1000本、時価にして7000万以上あった。

祖父が生きていた頃は、自宅に鍵のかかった部屋が2部屋あり、その部屋には祖父の許可なく入ることはできなかった。

常にエアコンがつけられ、温度や湿度が厳しく管理されていた部屋。

その死後、初めて足を踏み入れた1部屋には、とんでもないワインたちが、ずらりと並んでいたのだ。

その中でも圧巻なのは、1971年のロマネコンティーで、市場価格は約370万、オークションに出せば、その何倍にもなるだろう。

その他にも、1985年のものもあり、こちらは約200万くらいである。

彼女に課せられた相続税の総額は、約5000万円。

自宅とワインを除けば、預貯金は1000万程度しかなく、完済するには、そのどちらかを売りに出す必要があった。

だが、自宅を売れば、そこでまた税金が取られる上、住むところがなくなり、何よりワインの保管場所を失う。

かといって、ワインだけは売りたくなかった。

いや、売ることには異存はないが、その売り方には拘りたかった。

オークションなどで、顔もわからない誰かに、どんな理由で買われるのかも分からないまま、通常の商品のようにポンと売り渡したくはなかったのだ。

高級ワインは、飲んで楽しむというより、投機目的で買われることの方が多い。

毎年僅かしか生産されず、飲まれれば数を減らして2度とは増えない高級ワインは、昔から格好の投資対象であった。

お金を作るだけなら、勿論、さっさと売ってしまった方がいい。

税金の問題だけでなく、その保管にもかなりの神経を使う。

だけどこのワインたちは、彼女には単なるワインではなく、祖父との思い出でもあるのだ。

10年以上、たった2人きりで過ごしてきて、お祝い事や、月の綺麗な夜、静かに降り積もる雪の日、夜桜を眺めながらと、いろいろと理由をつけては、祖父が選んだワインを共に楽しんできた。

高価な品だからという理由ではなく、そのワインの造り手や歴史に思いを馳せながら、本当にそのワインの味を楽しんだ祖父。

高校に入ってからは、自分にも内緒で飲ませてくれたが、決して彼の感性を押し付けることなく、自分の感想を大事にしてくれた。

彼女が高校を卒業し、調理の専門学校に進んだのも、将来は、ワインを扱う飲食店を開きたいという夢があったからだ。

そして、その死後、初めて入った部屋で、数々の高級ワインと共に、大切に保管されていた5本のワイン。

そのワインたちは、5大シャトーのものではあるが、とりたてて当たり年というわけではない。

そして、どれもみな同じ年のものである。

ワインの下に小さな付箋が貼ってあった。


『〇〇の生まれた年』


そこには、彼女の名前が書いてあった。

・・その小さな文字を見た時、彼女は不覚にも涙を流した。

祖父の葬儀でも泣かなかった彼女が、この時は、自然に涙を流せた。

祖父との様々な時間を思い起こし、不器用ながらも自分を大事にしてくれた彼に、心の中で誓った。

『このワインたちは、私が大切に守っていきます』と。


 彼女には、専門学校で付き合い始めた男性がいた。

1つ年上で、将来はプリフィクススタイルの気軽なレストランを開きたいと、卒業後の3年間、様々な洋食店でアルバイトをし、料理の腕を磨いてきた人物である。

その彼と共に開いた店が、当初予定していたプリフィクス形式ではなく、本格的なフレンチレストランになってしまったのは、ひとえに、あの部屋に保管されていたワインたちのせいだ。

それらを目にした彼が、『自分が開こうと考えている店で、これらのワインを出すのは無理がある。ワインを処分したくないのなら、店のスタイルを変えるしかない』と、彼女の気持ちを汲んでくれて、1年余計に開店準備に費やし、その分で、フレンチの修行に出てくれた。

彼女はその間、店となる物件を探す傍ら、ソムリエの資格をとることに専念し、彼と正式に籍も入れ、結婚した。

だが、いざ店を開いてみると、開店当初こそ、1日に数組の客が入ったが、それ以降は夜の予約はさっぱりで、昼のランチに1~3組程度の入客があるだけだ。

ワインリストも2種類用意し、会計を担うと思われる相手にだけ、金額入りのリストを手渡す配慮をみせたが、それを見た客からは苦笑いされるだけで、ほとんどの客は、1杯1500円程度のグラスワインを飲むだけであった。

開店から一月ひとつきが経ち、大幅な赤字を出した2人は、とうとう彼女の自宅を売る決心をする。

店を選ぶ際、大量のワインを保存できる地下施設があることを最低条件に挙げていたので、彼女達が払える家賃ではこんな下町しか借りられなかったが、その分、保管場所は確保できている。

不動産屋に相談した際に、大体の売却金額を伝えられたが、滞納している相続税と、その延滞金、所得税などを支払うと、1000万も残らない金額だった。

今の自分達には、開店資金として新たに借りたお金が500万ある。

その借金を返すと、当座の生活費くらいしか残らない。

節約のため、結婚式すら挙げていない2人だが、家を手放せば、住む家も借りねばならない。

祖父の思い出であるワインたちを守ることが、この2人をかなり追い詰めていた。


 「相談があるの」


イヴの夜、客のいない店の中で、彼女は夫に告げる。


「何だい?」


「・・ワイン、手放そうと思うの」


「いきなり何を・・。

これまで、そのワインのために頑張ってきたんだろう?」


「そうだけど・・。

でも、このままじゃ借金が膨らんでいくだけだわ。

あなたに無理をきいてもらってまで、この店を開けてはみたけれど、稼ぎ時であるはずのイヴの夜さえ、お客さんは来ない。

みんな、店の格に合わないワインのせいだわ」


「・・全てがワインのせいではないよ。

僕の料理の腕が悪いせいもあるさ」


「違うわ!

あなたは元々もっとカジュアルな店を目指していたのだもの。

本格的なフランス料理に戸惑って当たり前よ。

それにその料理だって、修業先の名店のシェフから惜しまれていたじゃない!

あと2~3年修行すれば、かなりの腕になるって。

・・私も悪いのよ。

市場価格が2万円のワインなら、こういう店で出すだけで4~6万円になる。

そんなことも忘れて、祖父のワインをみんなに楽しんでもらおうとした。

今時一体どのくらいの人が、僅か1食に10万円以上のお金を使えるというの?

祖父が生きたバブルの頃ならともかく、今ではそんなこと、一握りのお金持ちくらいしかできないわよね。

・・それにね、もうあなたが苦しむ姿を見るのが辛いの。

あなた、自分の料理をワインの格にまで引き上げようと、私が寝た後、こっそり店に来て、練習しているでしょう?

この間、夜中にトイレに起きた時、車がないからもしやと思ってタクシーでここに来てみたら、あなたの車があった。

閉店後も、お客さんが来なくて残った食材を、悲しそうに見ているの、知ってるのよ?

私達が最初に目指していた店は、お客さんの笑顔が溢れる、気楽なお店。

ワインのことは確かに残念だけど、祖父との思い出が消えるわけではないし、あなたとの生活にはかえられないわ。

・・売りましょう。

そして借金をきれいに返して、店も新しくやり直しましょう?

あなたがやりたかった、プリフィクスのお店にして」


「・・君はそれで本当にいいのかい?

経験年数が足りなくて、まだワインエキスパートでしかないけど、ソムリエに憧れていただろう?

あのワインたちは、手放せばもう2度とは手に入らない。

只のワインではない。

晴れてソムリエになった時、君のソムリエとしての経験を、遥か高みにまで引き上げてくれるワインたちだ。

そして何より、おじいさんの形見でもある。

・・本当に、いいのかい?」


「・・いいわ」


ゆっくりと目を閉じ、何かを無理やり押し殺すかのように、彼女は呟いた。


「・・ん?

どうやらお客さんが来たようだよ?」




 「ここですか?

・・新しくて、綺麗なお店ですね」


あの後、2人きりで静かな街を少し歩いて、途中でタクシーに乗り、この店の前までやって来た。

彼は手に、あの時一緒に買った、大きな鞄を1つ持っている。


「フレンチの店のようだが、酒は大丈夫か?」


「もう、誰に聞いているのかしら?

私は大人ですよ?」


「いや、年齢的にはそうだが、これまで酒を飲む機会がなかっただろう?」


『!!

・・やっぱり、そうなのね』


「少しくらいなら平気です。

フフッ、必要以上に飲ませる気なら、きちんと最後まで面倒みてくださいね?」


「・・とりあえず、入ろう」


扉を開けると、まるで待ち構えていたかのように、若い女性が出迎えてくれる。


「いらっしゃいませ」


「予約をしていないのだが、大丈夫だろうか?」


「はい、大丈夫です。

お二人様でございますか?

・・では、コートをお預かり致します」


自分が頷くと、すぐに有紗がコートを脱ぐのを手伝い、そのままハンガーにかけてくれる。

自分はいつもの格好なので、コートは着ていない。

寒空の中を歩いてきた身としては、少し貧相に見えたかもしれないが、女性は表情1つ変えなかった。


「お鞄もお預かり致しましょうか?」


「いや、これはいい」


「かしこまりました。

それでは御席にご案内致します」


テーブルが6つしかなく、ゆったりと互いのテーブルとの間隔が取られた店内を、女性に先導されて、壁際の隅へと案内される。

女性がまず有紗の椅子を引き、彼女が座ると、今度は自分の椅子を引いてくれる。

礼を述べて座ると、間もなく、ゆったりとした動作で、メニューを渡される。

ワインなどのドリンクメニューと、料理用のメニュー。

自分達に考える時間を与えるため、静かに離れていった女性を見送り、メニューを開く。

何気なく有紗の方に目をやると、少し驚いたような顔をしている。


「どうした?」


「・・私、こういう場所は初めてで・・・。

・・その、少し、値段に驚いてしまいました」


恥ずかしそうに、小声でそう囁いてくる。


「支払いは当然自分が持つ。

好きなものを何でも頼むといい」


「有難うございます。

でも、メニューの内容が、半分くらい分かりません。

お任せしてもいいですか?」


「分かった。

何か嫌いなものはあるのか?」


「取り立てては。

強いて言えば、あまり臭いのきついものは苦手ですね」


「では、お互い初心者らしく、ここはコース料理を頼むとしよう」


「え?

あなたもあまり慣れていないのですか?」


「こういう場所に来るのは初めてだし、このての場所で、女性と2人きりで本格的な食事を楽しむのも、これが初めてになる」


『嬉しい。

好きな人と初めてを共有できるなんて、たとえそれが何であれ、幸せなことなのね』


「よかった。

私、あんまりマナーとか詳しくないので、間違えても、見逃してくださいね」


にこにこしながら、とても嬉しそうにそう告げてくる。


「大丈夫だ。

基本さえ押さえれば、あとは場の雰囲気を楽しむだけでいい」


「お決まりになられましたか?」


こちらがメニューを閉じて、テーブルの上に置くと、先程の女性が近付いて来て、そう声をかけてくる。


「料理はこのコースを2つ。

それから、ワインは、これと、これだ」


和也がメニューを開き、女性だけに見えるように、注文する品を指差していく。


「!!!」


『嘘。

ちゃんとホスト用の、金額の書いてある方を渡してあるわよね。

この2つは、店に箔がつくように、売れないのを見越して書いてあるだけなのに。

見間違いかしら。

きちんと確認しておかないと』


「お客様、こちらの、ロマネコンティーの1971年と、モンラッシェの2002年でよろしいのでしょうか?」


「そうだ」


「・・大変失礼ながら、この金額ですと、ご使用可能なカードが限られておりますが、お会計を先にお願いしてもよろしいでしょうか?」


「現金で払う」


「!!

・・申し訳ありません。

少々お待ちいただけますか?」


「分かった」


女性が奥へと下がり、有紗と2人きりになる。


「・・一体どうしたの?」


「少し値の張るワインを頼んだからな。

申し訳ないが、ちょっとここにいてくれ。

話をしに行ってくる」


「はい」


和也が、持参してきた大きな鞄を持って、女性の後を追っていく。

程無く、厨房の前で、彼女の夫と思われる男性と、2人で話をしている場面に出くわす。


「すまない。

少しいいだろうか?」


自分の姿に気付いた男性の方に、とりあえずそう声をかける。


「お客様、お待たせ致しまして申し訳ありません。

何か御用でしょうか?」


「彼女を混乱させてしまったようなので、説明に来たのだ。

少し自分の話を聞いてもらえないだろうか?」


「・・それはかまいませんが」


「実は、自分はワインを目当てにここに訪ねてきたのだ。

ある人物から、この店のオーナー夫妻が素晴らしいワインコレクションを所有していると聞いたのでな。

それに、失礼ではあるが、開店当初から、あまり奮わないとも聞いている。

それで、できればこの店のワインを、買い取らせてもらえないかと思ったのだ。

あなた方が所有しているワインの時価は、約7000万だと聞いている。

店で出すなら、その2~3倍はするだろう。

だから自分は、あなた方のコレクションの内、最も貴重な部類に入る、300本を買いたい。

そしてそれを、この店に来た時、あなたの料理と共に味わいたい。

支払いは、今日、この場で済ませる用意がある。

ワインを買ったからといって、この店から持ち去るわけでもない。

ここで管理してもらい、その時の料理によって、どれを選択するかもそちらの判断に任せる。

・・どうだろうか?」


黙って自分の話を聴いていた彼女達夫婦が、顔を見合わせる。


「失礼ながら、お客様、それは随分とこちらに都合の良いお話に聞こえます。

数千万ものお金を現金で払いながら、ワインの引渡しも求めず、そのチョイスもこちら任せとは・・・。

300本ものワインとなれば、飲み切るだけでも相当のご来店数が必要になります。

こちらとしては夢のようなお話ですが、流石に、おいそれとは承諾致しかねます。

できましたら、初めてお越しになられた店に、なぜそこまでしてくださるのかを、お尋ね致したいのですが」


男性の言葉に、女性の方も頷いている。


「・・世の中には、様々なことにお金をかける者がいる。

己の趣味や嗜好、人生哲学、矜持、そして、大切な人との思い出に。

そうして多額の資金が費やされたものを、あとに残された者達が引き継ぐ時、そこにはいろいろとやっかいな問題が生じうる。

故人との繋がりが深ければ深い程、その思い出が詰まった品を手元に置いておきたいと考える者は多いが、保管場所や資金の面で、断念せざるを得ない者もまた多い。

あなた達は、おそらく多額の相続税に直面していると考えた。

その費用を工面するために、大事なワインを意思に反するかたちで処分せざるを得ないのではないかと。

だから、せめて自分達かずやたちと共に楽しむという、なるべくあなた方の意思に沿うかたちを提案したのだ。

この店のシェフの、その将来性が楽しみであることは、人づてに聞いている。

ならば、その不安や焦りを少しでも取り除き、長い時間をかけて花開いたその料理の腕を、楽しんでみたいではないか」


『『!!』』


「勿論、売りたくないワインがあれば、その銘柄は除外してかまわないし、やっぱりオークションで高く売りたいと考えるなら、ここで引き下がる。

ただ、その場合でも、食事だけはしていきたい。

今夜は、大切な存在となる者との、記念すべき時間なのだ」


オーナー夫婦がお互いに再度顔を見合わせ、意思の疎通をしたかのように、頷き合う。


「・・お客様のご提案をお受けしたいと思います」


「有難う。

では、こちらの支払い能力に不安もあるだろうから、先に今日飲むワインの料金だけでも支払っておこう」


そう言って、彼らと共にレジカウンターまで行き、手にした鞄の中から、1000万を支払う。


「・・有難うございます。

領収書の宛名は如何なさいますか?」


「・・御剣、で頼む」


「かしこまりました」


「残りのワインたちについては、2~3日後に手続きに訪れるので、その時までに、料金の明細票を準備しておいてくれると助かる。

支払いは口座振込みにするから、その番号も頼む」


「はい」


「あ、それから、念のために言っておくが、若く見えるが、自分はもう大人だぞ。

ちゃんとお酒を飲める歳だからな。

当然、帰りはタクシーを使う」


「フフフッ、・・お客様、今更でございますよ」


笑顔に見送られ、自分の席まで戻る和也。

その後姿を、穏やかに見つめる2人。


「・・まさかこんなことになるなんてね。

これで君の家も、ワインも、どちらも諦めずに済む。

イヴの夜に、神様が贈り物をくれたのかな」


「・・ほんとね。

まだ若いし、初めはあまり信用できなかったけど、あなたのことをきちんと理解してくれているみたいだし、考え方のしっかりした、素敵な人だわ。

・・あなたの次くらいにね」


「はは、有難う。

今日はもう店を閉めて、あの2人だけの貸切にしよう。

大金も置いてあることだしね」


「そうね。

私も、ワインの準備をしないと。

とうとう、あのワインを開ける時がきたのね」



 「待たせてすまない」


「大丈夫、戻ってきてくれる保証があるなら、いくらでも待てます」


「・・自分はそんなに君に好意を持ってもらえるようなことをしただろうか?」


「ええ、勿論。

嬉しくて、泣いてしまいました」


「・・君のことを、改めて尋ねてみてもよいか?」


「私の何が知りたいですか?

名前は・・先程お伝えしましたね。

年齢は・・・もうすぐ25です」


そう言いながら、少し下を向く。


「あ、でも、今まで節制してきたので、お肌はまだ若いと思います」


「?」


「職業は、高校の英語教師をしています。

年収は・・・」


「まるでお見合いの席のような会話だな」


和也が苦笑いしながらそう告げる。


「先程も言ったが、自分にそんなに丁寧な言葉を使う必要はない。

なぜ君が急に敬語で話したがるのかは分からないが、あの時みたいに、もっと普通に話してくれ。

その方が、自分としても嬉しい」


「・・失礼になりませんか?」


「何故だ?

見た目なら、自分かずやの方が若く見えるのではないか?」


「いえ、そういうことではなくてですね・・。

・・本当に、普通に喋ってもいいのですか?」


「そうして欲しい」


「分かりました。

では・・・家族はいないわ。

高校の時から、ずっと1人で生きてきた。

お付き合いしてる人はいないし、したこともないけど、・・したい人なら、いるわ」


そう言って、自分の目を見てくる。


「お待たせ致しました。

こちらが、ご注文のワイン、モンラッシェの2002年と、ロマネコンティーの1971年になります」


給仕役の彼女が、ワインのラベルを和也に見せる。


「赤はおそらく寝ていると思われますので、デカンタにお移ししてもよろしいですか?」


「任せる」


「かしこまりました」


彼女がとても緊張した表情で、非常にゆっくりと、ワインのコルクを抜いていく。

栓を抜き終えた途端、周囲に溢れる芳醇な香り。

デカンタに移す作業も、細く、緩やかに、ガラスを伝うように行われる。

程無く作業を終え、今度は白に取り掛かる。

こちらは、手馴れた動作で、丁寧に、素早く開けられる。


「試飲をなさいますか?」


「是非」


自分の斜め前に置かれた白用のグラスに、2㎝程注いでくれる。


「・・如何なさいました?」


和也がグラスに手を伸ばさず、じっとしているので、彼女がそう聴いてくる。


「申し訳ない。

言葉が足りなかったようだ。

先ず最初の一口は、あなたに」


「!!」


後に控えるロマネコンティー程ではないが、このワインでも市場価格は約20万、この店では50万で出している。

普通の人が飲める金額ではないし、その希少性故、自分だって、今後口にできるかどうか分からない。

ソムリエを目指す者なら、誰もが飲んでみたいと思うワインなのだ。


「・・有難うございます」


和也の気持ちに感謝し、テイスティングを施す彼女。

その香り、味わい、そして余韻に、暫し酔いしれる。


「とても素晴らしいワインです。

ごゆっくり、お楽しみください」


和也がワイン通と判断したのか、品種などの説明を一切せずに、新たに用意したグラスに注いでくれる。


「帽子は被っていないし、跪きもしないがな」


「フフッ、そうですね」


笑みを深くした彼女は、有紗のグラスにもワインを注ぎ、下がっていった。


「ワインって、こんなに素敵な香りがするのね。

・・飲んでみてもいい?」


「勿論。

この2つは、ワインの中では最高峰のものだ。

その味を、しっかり覚えておくといい」


こちらの会話や、食事の進行に合わせて、絶妙なタイミングで料理が運ばれてくる。

そしていよいよ赤の登場。

デカンタからグラスに移す彼女の手が、若干震えている。


「こちらも君に試飲を頼みたい」


「・・お客様、本当によろしいのですか?」


先程も驚いたが、このワインだけは別格だ。

リストに記載された金額は800万円。

今このグラスに注いだ分だけでも、40~50万はする。

店にはこれ1本しかないし、もう2度と、手に入れるつもりはない。

世界中のソムリエの中でも、これを口にできた者は、数える程しかいないだろう。


「初めからそのつもりで購入したものだ。

あなたの今後にプラスになるワインだと思う。

是非、飲んでいただきたい」


「・・感謝致します」


和也に一礼し、姿勢を正してグラスを手に取る。

飲むというより、舌で転がすように味わう彼女。

瞳を閉じ、その香りと味に神経を集中している。

やがて、ゆっくりと一呼吸した彼女は、心なしか、目が潤んでいた。


『祖父はこのワインを飲んだのかしら。

コレクションするだけで、自分ではあまり貴重なワインを開けない人だったから・・。

やっぱり、ワインは飲んでこそよね。

できれば2人で飲んでみたかったな。

あの人なら、これを飲んだら何て表現したかしらね』


「・・先程といい、本当に素晴らしい体験をさせていただきました。

心よりお礼申し上げます」


「元は君のワインだ。

自分はただ、橋渡しをしたに過ぎない。

喜んでもらえたなら、何よりだ」


店内の照明を浴びて淡く輝く、磨きぬかれたワイングラスに注がれる、深紅の液体。


「すごく複雑な香り。

飲むのが惜しいくらいね」


「ああ。

半世紀という長い時間を、時のゆりかごに揺られながら、まどろんでいたワインだ。

その眠りから覚めた今、一体何と言っているかな」


えもいわれぬ芳香に包まれながら、グラスを傾ける和也。

有紗と2人、静かで、心地よい時間が過ぎていく。

全ての料理を堪能し、珈琲が運ばれてくる。


「残りのワインはお包みしてよろしいですか?」


赤白共に3分の1ほど残されたワインの処理を、彼女が和也に尋ねてくる。


「いや、ワインはここに置いて行く」


「・・あまり時間を空け過ぎますと、折角の味と風味が損なわれてしまいますが・・」


「その残りは、あなたと旦那さんの分だ。

今度はもっと時間をかけて、2人でゆっくり楽しんで欲しい。

・・今夜くらいは、いろいろと思い出に浸るのも、悪くないのではないかな」


「・・ですがお客様、それではあまりに・・」


「最初に言ったではないか。

自分達と共に楽しもうと。

あの言葉は、そういう意味だ」


感極まった彼女は、ただ無言で頭を下げることしかできない。

帰り際、彼女から話を聞いたシェフにも見送られ、2人に何度もお礼と頭を下げられながら、店を後にする。

いつの間にか、粉雪が舞っていた外の世界で、有紗の吐く息が、白く夜空に溶けていく。


「随分とお礼を言われてたけど、そんなに高価なワインだったの?」


「そうだな、何をもって高いと言うかにもよるが・・初めて飲んだ酒の味はどうだった?」


「とても美味しかったわ。

つい飲み過ぎてしまうくらいに。

・・少し酔ってしまったかも」


「そうか。

では、家まで送ろう。

今タクシーを・・」


大通りにタクシーを呼びに行こうとした和也の、そのジャケットの裾が有紗に抓まれる。

そのことに気が付いた和也が振り向くと、有紗は下を向いたまま、黙っている。


「どうした?」


「・・今日は、クリスマスイヴよね?」


「そうらしいが」


「世間では、恋人達やカップルが、愛を確かめ合う日だとも聞いたわ」


「・・・」


「・・私達、周りからはどう見えるかしらね?

年の離れた姉弟?

それとも、教師と教え子の禁断の関係かしら」


相変わらず下を向いたままだが、その表情はどこか切なげで、悲しんでいるようにも見える。


「私、サンタさんを信じたことはないの。

早くに両親に死なれて、クリスマスはおろか、誕生日にさえ、プレゼントを貰ったことがないから。

・・でもね、神様は信じることにしたの。

この間、とっても嬉しいことがあったから。

・・もうすぐクリスマス。

この世界で敬われている神様が、地上に救いの手を差し延べにこられた日。

私が信じる神様は、私を救ってくださるかしら。

私の願いを叶えてくださるかしら。

今夜は2人きりで過ごしてみたい、そんな、私の初めての願いを」


「君が信じる神様か・・。

この世界には沢山の神様がいるようだからな。

誰かは分からぬが、君の願いが叶うよう、自分も祈っておこう」


「・・はぐらかしているのかしら?

それとも、はっきりと言わせたいの?

私が信じる神様は、全身黒ずくめの、ちょっと意地悪で、凄く優しい、少年のような人。

女性を口説く文句は稚拙だけど、一緒にいる内に、どんどん心奪われていく、麻薬のような危ない人。

1度知ってしまったら、最早忘れることすら許されない。

・・あなたのことよ。

私が初めて好きになり、その全てを信じることにした、たった1人の男性。

今夜はあなたと、いえ、あなたに、・・抱かれてみたいわ」


ずっと俯いたままだが、最後の言葉を紡ぎ出す際、裾を抓んだ指先に、僅かに力が籠められる。


「・・そんなに分かり易かったか?」


「ええ」


「今後は気を付けるとしよう」


和也が、雪の舞い散る空を見上げる。


「・・自分は、まだ君に話していないことも沢山ある。

君の今後を決定づけてしまう、とても大切な話だ。

それらを告げぬまま、刹那的に君を抱いてしまうことには、やはり躊躇いがある」


「なら、何処かに部屋を取らない?

そこであなたの話を聞かせて。

その結果、たとえ何も起こらなかったとしても、決してあなたを責めたりしないわ。

・・私の部屋に招待してもいいんだけど、今、散らかっているから」


『掃除はきちんとしてあるけど、下着なんかの洗濯物が干してあるから・・』


「・・わかった。

どこか希望はあるか?」


「お部屋の?

・・職業上、ラブホテルは困るけど、それ以外なら何処でもいいわ。

場所よりも、あなたといられることが重要なのだから」


「いくら女性に疎い自分でも、こんな夜にそのような所へ連れて行ったりはしないぞ。

白状してしまうと、自分にはまだ、この世界での住所が存在しない。

フロントで記載を求められるだろうが、それには君のを書いてもらうことになるからな。

勿論、部屋の料金は全て自分が持つ」


そう言って、まるで何かを検索しているかのように、ほんの僅かな時間、目を虚ろにする和也。


「よし、では行こう。

身体が冷え切らない内にな」


有紗の髪についた雪を、優しく払い除ける。

黙って頷き、和也の左腕に、自身の腕を絡ませて歩き出す有紗。

次第に人通りが少なくなっていく街を、タクシーを求めて歩く2人であった。




 『あと2時間か』


超一流ホテルのフロントに立つその女性は、自身の仕事が終わる時間を気にしながら、家に1人で待っている娘のことを考えていた。

来年高校に上がる1人娘は、クリスマスイヴの今日も、そしてクリスマス当日の明日も、自分が帰る夜遅くまで、たった1人で過ごしている。

数年前に病で夫に先立たれ、それ以降、家計を支えるために働きに出た彼女は、夫の長い闘病生活で貯金が底をつき、これから重みを増していくであろう娘の学費のために、正月やクリスマスなど、あまり他の人が入りたがらない日に率先して仕事に出ることで、僅かな割り増し手当を得ながら、職場での地位を保っていた。

最近は、こういった比較的単純な事務系の仕事は、どんどん機械化が進み、以前よりかなり人数が減らされている。

彼女が勤めるこのホテルは、世界的なチェーンを誇る超一流であり、セレブ相手に、機械では難しい細やかな気配りが求められるため、まだそれほどの深刻さはないが、安心はできない。

2人いるフロントの内の1人が休憩に入っているため、今は自分しかいない。

家で家事を手伝ってくれながら、受験勉強に励んでいるであろう娘に、プレゼントはおろか、ろくなご馳走すら作ってやれないことに、心痛めていた。

そんな物思いに沈んでいた彼女の前に、1組の客が来る。


「当ホテルにようこそ。

ご予約のお客様でいらっしゃいますか?」


「いや、予約は入れていない」


今日はクリスマスイヴ。

スタンダードな部屋は勿論のこと、少し高めのデラックスルームでさえ、奮発した客のおかげで、その全てが埋まっている。

唯一空いているのは、料金の1番高いロイヤルスイートのみ。

だがここは、必ず事前予約が必要な上、1泊の料金が150万もする。

目の前に佇む客は、凄い美人を連れた若い男性。

サングラスのせいで、はっきりとした年齢は分からないが、おそらくまだ二十歳前。

芸能人か何かだろうか。

職業上、その外見で客を判断する怖さを十分認識してはいるが、真冬にもかかわらず、コートも着ていない少年のような彼に、この部屋を案内してもよいかどうかの判断が難しい。

規定通り、予約なしでは無理だと切り捨てて、満室だと告げれば済む。

ふと、彼が連れている女性に目がいく。

男性より、明らかに年上のように見えるが、こういう場所にあまり慣れていないのか、彼の後ろで、恥ずかしそうに下を向いている。

その表情はとても嬉しそうでいて、かつ、はにかんでいるようにも見える、初々しさに溢れたものだ。

・・いいわね。

私にも、あんな頃があったのかしら。

・・そうよね。

さりげなく料金を見せて、それで判断してもらうくらい、いいわよね。

彼女を見ていると、何だか応援してあげたくなるんだもの。


「・・そう致しますと、只今はこちらのお部屋以外は、全てご予約を頂いておりまして・・」


男性だけに見えるように、さりげなく料金表を提示する。


「有難う。

この部屋をお願いする」


「・・かしこまりました」


マニュアル通りのお辞儀をしながら、内心でひどく驚く。


『どこかの御曹司なのかしら』


優雅さを失わず、できるだけ急いでチェックインの準備をこなす。

事前予約を受けていない以上、同僚が休憩から戻る前に、自分がその書類を作成する必要がある。

宿泊シートには女性の方が記入し始め、手持無沙汰の男性とサングラス越しに視線が合う。


「前金として、これを預けておく」


そう言って、苦笑しながら200万円をカウンターに載せてくる。


『え、もしかして、私が一瞬ツ〇メを疑ったのが分かったのかしら』


その考えを決して表情に出さないように、努めて事務的に預かり票を作成し、お渡しする。

女性が記入を済まし、ルームキーを受け取った男性が、静かな足取りでエレベーターホールへと消えていく。


『素敵な夜になるといいわね』


女性の後ろ姿にそう内心で声をかけ、急いで予約票を作成しだす彼女であった。



 最上階のフロアには、部屋数が3つしか存在しない。

その内の1つ、通路を隔て、フロアの片側を全て占有している部屋の扉を開く。


「・・何これ、一体部屋数がいくつあるの?」


北欧製の高価な家具で統一されたリビング、大人数で楽しめるダイニング、自分の部屋全体よりも大きいバスルーム、ベットルームが2つ、簡単なフィットネススペースなど、その広さ、豪華さに、唖然とする有紗。

『掃除が大変よね』などと、場違いな感想をも抱いてしまう。


「人気のホテルのようだし、ここしか空いていなかったのだ。

・・とりあえず、珈琲でも飲まないか?」


備え付けの珈琲メーカーの準備をしようとすると、有紗が我に返って告げる。


「あ、御免なさい。

私がやるわ。

手を洗いたいから、少し待ってくれる?」


コートをクローゼットに仕舞い、踵の低いヒールを脱いで、スリッパに履き替える。

洗面所で手早くうがいと手洗いをした彼女は、ソファーでくつろぐ和也の脇を抜け、慣れた動作で珈琲を入れた。

その間、ルームサービスとホテル内の施設の案内を見ていた和也が、席を立ち、どこかに電話をかけていた。

部屋の中に、珈琲のいい香りが漂い始める。


「はい」


有紗が、デミタスのカップに入れた珈琲を運んでくる。


「有難う」


先ず香りを楽しみ、少量を口に含む。


「・・それで、大事な話って何かしら?」


自分も珈琲に口をつけながら、対面に腰を下ろした有紗が尋ねてくる。

何気なさを装っているつもりなのか、その視線は少し下を向いている。


「・・少し長い話になるが、とりあえず最後まで聞いてくれると助かる」


珈琲カップを置き、和也は語り始める。


「自分は確かに神と呼ばれる存在だ。

もっとも、こちらの世界で信仰されている、他のどの神様とも違うがな。

長い間、自分は只の傍観者でしかなかったが、人の営みが羨ましくなり、孤独を癒してくれる温もりを求めて、とある世界に降り立った。

そこで何人もの人々に出会い、自分の妻になってくれる者まで現れて、その者達のためにいろいろと励んでいる内に、効率的にお金を稼ぐ必要が生じて、あの時、あの場所で、君に出会った」


『自分の妻になってくれる者まで現れて』の箇所で、有紗の肩が僅かに反応する。


「正直、あの時は、その場限りの出会いだと思っていた。

きっと、自分のことなどすぐに忘れてしまうだろうと。

・・だが、今日あの競馬場で、自分を探してさ迷う君を見てしまった。

君の未来を覗いた時、様々な場所で、いつも1人で自分(かずや)のことを想っている、君の姿を見てしまった。

何がそこまで君の心を捉えたのかはわからない。

しかし、あの姿を見てしまった以上、自分に知らないふりはできない」


余程の光景だったのか、和也が深い溜息をつく。


「自分には、君を迎え入れる意思がある。

だがその場合は、君にある仕事を押し付けてしまうことにもなる。

それは長い時間、君を縛り付けることに繋がる。

自分に抱かれるということは、我が妻の1人になるか、眷族の1員になるかの2択しかない。

自分には、その場限りの情事や、快楽のみを追求する関係というのは無理だ。

・・不老不死。

それはとても魅力的で、明るい未来しかないように聞こえる。

その1面があるのは否定しないが、極限られた仲間達を除けば、周囲の者は、いつか死に絶えてゆく。

果てしない時の流れの中で、出会いと別れを繰り返し、大切な者達を看取っていく辛さと苦しみに慣れねばならない。

助ける力があるにもかかわらず、差し延べられた手を取らぬ痛みに耐え続けなくてはならない。

・・君に、その覚悟はあるか?」


視線を下げていた有紗が、和也の最後の言葉に反応し、鋭い視線を向けてくる。


「あります!」


膝の上に載せていた、珈琲カップの皿ごとテーブルの上に戻した彼女が、真正面から和也を見据えてくる。


「・・あの日、あなたと別れた後、何度後悔したか分からない。

あなたに出会ったことで、私の中で何かのスイッチが入ったかのように、あなたのことだけが、常に頭から離れなくなった。

あなたが傍にいなければ、それまで普通に見えていたものが、全て色褪せて見える。

これまで1人で生きてこられたのに、あなたのいない私の部屋は、寂しさと悲しみに満ちた、牢獄でしかなくなった。

・・責任取ってよ。

同情でもいい。

ハーレムの末席に置いてくれるだけでいい。

お願いだから、私を見捨てないで。

あなたの言うことなら、ただ1つを除いて、何でも聞いてあげるから」


最後の方は、溢れる涙を堪えようともせずに、そう告げてくる。


「そのただ1つのこととは何だ?」


「そんなの決まってるわ。

あなた以外の人を愛せということよ!」


美人に本気で睨まれると迫力が違うと耳にしたことがあるが、今の状況はまさにその言葉の通りである。

紫桜も相当なものだったし、エリカに至っては、怖くて試す気にもならない。


「・・分かった。

君を受け入れよう」


有紗が抱き付いてくる。


「念のために聴いておくが、妻と眷族のどちらを選ぶ?」


「どう違うの?」


「伴侶のいない女性の場合は、共に歩むか、自由に道を選ぶかの差でしかない。

勿論、眷族を選んだ場合でも、求められれば、可能な限りそれに応える」


「・・かなり年上だから、姉さん女房になってしまうけど、できればあなたの妻になりたいです」


恥ずかしそうに小声でそう告げてくる。


「ああ、まだ言っていなかったが、たとえ妻を選んでも、どのみち自分と共に歩むためには、人ではいられない。

先ず眷族化してから妻に迎え入れるが、その際に、容姿はその者が最も美しい時に固定される。

その盛りを過ぎていればそこまで戻り、未だ到達していなければ、それまでは成長する。

君の場合は、どちらだろうな?」


「・・・それを早く言ってよ!!

ずっと気にしてたんだからね」


「そもそも、容姿など、どうとでもなる。

その者本来の姿は眷族化の際に固定されるが、若く見せたり、逆に老いて見せることすら訳無い。

君にはどのみちそのままの姿で暫く仕事をしてもらうのだから、あまり気にせずともいいではないか」


「女にはね、いろいろと都合や憧れがあるものなのよ。

口説き文句と一緒にもっと勉強しなさい」


顎に手を添えられ、唇を奪われる。


「それで、何の仕事をすればいいの?」


息苦しくなったのか、激しく貪っていた唇を放し、そう尋ねてくる。


「先ずは、この世界における、自分の保証人を頼みたい。

ここは表立って魔法が使えないから、何をするにも厄介な手続きを要する。

自分の身元は偽造するが、銀行や証券の口座を開いたり、マンションや事務所を買ったりする際に、君の名を時々借りたい」


「どうしてそんなことするの?」


「勿論お金を稼ぐのだ。

力を使って作ることは簡単だが、それではインフレを招くだけだ。

その世界の経済に悪影響を及ぼさぬために、お金は自分で稼ぐことにしている」


「・・だからわざわざ競馬で稼いでたのね。

今考えると、神様がお金を稼ぐために奔走しているなんて、少し変よね」


あの時のことを思い出しているのか、その顔に笑顔が浮かんでいる。


「・・やり方としては少し狡いかもしれないが、短時間に大量のお金を稼ぐには、競馬やカジノなどのギャンブルは丁度いい。

あくまでも、自分のように、必ず当たりが分かる者だけに当てはまることだがな。

それに、君という実在の大人を得て、今後はもっと大規模にお金が稼げる」


「そんなにお金が必要なの?

既に億単位で持っているでしょう?」


「悲しいことに、この世界で人助けをしようとすると、何かとお金が必要になる。

各地で頑張っているボランティアの者達のように、労働力を提供する道もあるが、それでは救うことのできない者も大勢いる。

よって自分は、金銭面での人助けをしようと考えている」


自分も、そのお金によって救われた有紗は、和也の言いたいことが何となく理解できる。


「人を大切にしない世界に未来はない。

人が出会うことで、そこに友情や愛情、信頼が生まれて、やがてそれらは強い絆となって地域に根付いていく。

人が人を信じ、情を育てていくためには、ゆとりが必要だ。

精神的には勿論のこと、経済的にも余裕がなければ、人は内向きになり易く、他者へと目を向けるのが難しくなる。

だが、富の偏りが著しいこの世界では、富める者はさらに富み、貧しき者が這い上がる機会さえも奪っていることが多い。

会社などの経営者にも、自分達の利益ばかりを優先し、きちんと社員に還元しない者もいる。

お金を稼ぐためならば、平気で人を騙す者さえ増えてきた。

その国の法に違反していなければ、改善するのが難しく、明らかに違反していても、行政がそれに手を焼いているのなら、自分が自分のやり方で、意欲と熱意があっても這い上がる術を持たない者達に、ささやかな贈り物をしていきたいのだ。

・・手伝ってはくれまいか」


「分かったわ。

あなたの妻として何でも協力するから、他にも何かあったら、遠慮なく言って」


「ゆくゆくは、学校や会社なんかも作るつもりだから、その責任者もよろしく」


「え?

ちょっと待って。

私、今、教師として働いてるんだけど」


「別に名前だけだから、かまわないのではないか?

職業規定に反するならば、そこを辞めて、自分が作る学校で教えればいい」


「簡単に言ってくれるわね。

一応、この国有数の名門校なのよ?」


「自分が作ろうとしている学校は、この国一番を目指すぞ。

小中高の一貫教育で、学生の半分以上は推薦で取る。

最初の内は、自分が国中から探した、学ばせたいと考える生徒だけを入れるのもいいかもな。

生まれや現在の境遇は問題ではない。

必要なのは、自ら学び、学生生活を実りあるものにしたいと願う、その強い意欲のみ。

貧富の差を言い訳にせず、やるべきことをやれる意志の強さのみ。

そんな学生達のために、よく学び、部活などを楽しんだ上、交友を育む場を設けてあげたい。

学費などいらない。

教材費も施設管理費も取らない。

修学旅行すら無料(ただ)でいい。

そのために、お金を稼ぐわけでもあるのだから」


「・・本気なの?」


「当たり前だ。

歳をとって貫禄が出た君を理事長にして、自分は生徒として通うのもいいかもな。

1度、学生生活とやらを送ってみたかったのだ」


「・・殴ってもいい?」


「何故だ?」


「私だけお婆さんって、それひどくないかしら」


「あくまで魔法で他人にそう見せるだけだから、自分やその眷族達には、本来の君の姿で見えるぞ。

まあ、君に特殊性癖があって、何十も年の離れた少年を、可愛がってみたいというのであれば、特別な魔法をかけて、自分にも暫くの間、そう見えるようにすることも可能だ」


「・・本気で殴ってもいいかしら?」


「何故怒る?

自分はべつにそういった嗜好を否定してはいないぞ。

それに、これはある意味必要なことなのだ」


「何がよ?」


「限りある命で生きる社会では、そこに相続という制度が生まれる。

自分はこれから多くの富を築いていくが、不老不死を主張できない以上、その富を受け継いでいく者が必要になる。

自分には今、子供を作る意思はない。

ならば、眷族の誰かに一時的にそれらを管理させ、その者が人としての寿命を迎える頃に、また新たな眷族へと受け継がせ、管理させるしかない。

この世界では、年齢と共に容姿が移り変わる。

いつまでも若く美しいままでは他者に疑念を抱かれる。

ある程度は、重ねた年月に容姿を合わせるのは、仕方のないことなのだ」


「・・私にずっとその役をやらせるわけではないのよね?」


「勿論だ。

1度お願いしたら、その次は本来の姿に戻って、自分と学生生活を楽しんでもいいし、こことは異なる世界で、自分と旅をするのでもかまわない。

まあ、眷族があまり増えなければ、数百年に1度くらいは、またお願いすることになるがな」


「今何人くらい奥さんがいるの?」


「君を除くと3人だな」


「眷族の(かた)は?」


「それはまだ定かではない。

そうなるかどうかの最終的な判断は、相手に委ねているからな」


「確定ではないの?

普通、神様の仲間になれるなんて言われたら、飛びつきそうなものだけど・・」


「長い人生にはいろいろなことがある。

あまり無理強いをして、その者達の未来を縛るようなことをしたくはないのだ」


「奥さん達は縛ってもいいの?」


「・・1人を除いては、自分に愛想が尽きた時、いつでも傍を離れることができるようにしてある。

君も、もしそうなったなら、遠慮なく言って欲しい。

その時には、眷族化を解き、輪廻の輪に加われるようにすることを約束しよう」


「・・御免なさい。

本気で言ったわけではないの。

少しだけ、他の奥さん達に嫉妬してしまっただけなの。

あなたのことだから、きっと沢山の愛情を注がれて、幸せに暮らしているのだろうなって。

・・ねえ、もう待てないの。

シャワーを浴びてきてもいい?」


「・・ああ」


もう1度、深く唇を合わせた有紗が、ゆっくりとバスルームに消えていく。

それを見届けた和也は、ホテルのある場所へと転移した。



 「すっかり遅くなっちゃった。

皐月(さつき)、きっとお腹空かせてるわよね」


先程まで、このホテルのフロント業務をこなしていた女性は、家に1人で待っている娘のことを思い、従業員専用通路から、足早に外へと出たところで、1人の男に声をかけられた。


「少しいいかな」


「はい?

私ですか?」


「ああ。

先程は有難う。

お陰で助かった」


よく見ると、少し前に、凄い美人さんとロイヤルスイートに部屋をとった男性だった。


「私、何かお礼を申されるようなことを致しましたでしょうか?」


今はオフの時間だが、最上級の部屋に現金で泊まるような上得意客に、めったな口は利けない。


「部屋の便宜を図ってくれただろう?

あの部屋は、本来なら事前予約が必要なはず。

その手続きを、君がこっそりやってくれたから、自分は彼女の前で恥をかかずに済んだ」


「・・ご存知でしたか」


女性がにっこりと微笑む。


「今日はイヴですから、あのお時間ですと、なかなか他のホテルでもお部屋が空いていないと思いまして。

喜んでいただけたなら幸いです」


「・・いきなりで不躾かもしれないと思ったが、せめてものお礼としてこれを用意した。

このホテルのレストランに特別に頼んで作ってもらった料理だ。

家であなたの帰りを待っている人と、是非、食べて欲しい」


そう言って、男が大きな紙袋を差し出してくる。

ホテルのロゴが入った紙袋に、まだ温かい、出来立ての料理が詰めてある。


「・・お客様、困ります」


このホテルでは、スタッフが、客個人から謝礼を貰うことは、基本的には禁じられている。


「大丈夫だ。

これはあなたにではなく、あなたを待っている人にあげるものだ。

もし何かあれば、自分がきちんとホテル側に説明しよう。

あそこにタクシーを待たせてある。

料金は既に支払ってあるから、急いで帰ってあげるといい」


そちらを振り向くと、1台のタクシーが停まっていた。


「・・有難うございます。

本当は、凄く助かります。

娘がお腹を空かせて私を待っているでしょうから」


「こちらはデザートだ。

ホールケーキはなかったので、いろいろな種類を詰めておいた」


タクシーの傍まで共に歩いて、手にしていたもう1つの袋まで手渡してくれる。


「ではな」


男が離れていく。


「本当に有難うございます」


ドアが閉まる前、かろうじてそれだけを言えた女性であった。




 「ただいま」


いつもの電車ではなく、タクシーなので、家のすぐ手前まで運んでくれる。


「お帰りなさい」


元気な声と共に、娘が奥の部屋から顔を見せる。


「ご飯炊いておいたよ。

洗濯も済ませて、アイロンもかけておいた」


「いつも有難う。

でもね、今日はご馳走があるの。

折角だから、今夜はそれを食べましょう」


そう言って、両手に下げた紙袋を見せる。


「わ、大きな袋。

どうしたの、それ?」


「お客様に頂いたのよ。

あなたと食べて欲しいって」


「お母さん、何かしたの?」


「ええ。

たいしたことではないのだけれど、凄く喜んでくれたみたいなの。

まだ温かいから、すぐに食べましょ」


「嬉しい。

もうお腹ペコペコだよ」


自分が着替えている間、娘が台所のテーブルに、頂いた料理を並べてくれる。


「・・お母さん、一体何したの?

かなり凄いよ、これ」


自分が手を洗ってから台所へ行くと、4人がけのテーブルに載りきれない程の料理が並んでいる。


「え?

そんなにあったの?」


頂いた時は、失礼にならないように、あまりじろじろと中身を見なかった。

テーブルの上の料理は、あのホテルでも人気の高いレストランのものだ。

色とりどりのオードブルや、サラダ、ローストビーフの塊、牛テールの赤ワイン煮、鶏の骨付きもも肉など、1度では食べきれない程の量がある。

それに加えて、数種類のケーキやフルーツの盛り合わせなど、デザートもふんだんにあった。


「それから、こんなものも入ってた」


娘が神妙な顔で、ホテル備え付けの封筒を差し出してくる。

中を開くと、現金が5万円と、夢の国として名高い、とあるテーマパークのワンデイチケットが2枚、入っている。

メモが一緒に入れられていた。


『頑張っている人に、その優しさを人に分け与えてやれる素敵なあなたに、サンタからクリスマスプレゼント』


涙が溢れて、暫く食事にならなかった。




 「寝ちゃってないわよね?」


シャワーのつもりが、広い浴槽を見たら少し湯に浸かりたくなってしまって、その上、何度も何度も身体を磨いている内に、結構な時間が経ってしまった。

物心ついて以来、女性以外に晒したことのない身体は、日頃の節制のせいか、余分な肉の一切ない、張りのある、引き締まったラインを保っている。

ただ、なぜか胸だけは大きく育ってしまい、学生の頃は、気に入ったブラには自分のサイズがなくて、値段との折り合いもあり、地味なものばかりを着けていた。

広い部屋の中を、和也が待つであろうベットルームまで、静かに歩いていく。

素肌の上には、ホテル備え付けの、白いバスローブ以外は何も身に着けていない。

和也は、ベットルームではなく、ドリンクバーのある部屋で、窓から見える夜景を眺めていた。

来る時僅かに降っていた雪は今は止み、眼下に映し出される夜景は、その明かりの1つ1つが煌めいて、イヴの夜に華を添える。


「素敵ね」


有紗が部屋の照明を消し、和也の傍にやってくる。


「光は綺麗なものだけを抽出し、闇はそうでないものを覆い隠す。

遠くから眺めるだけなら美しいこの世界も、間近で見れば、いろいろと嫌な側面を曝け出す。

自分はこれから、君と共に、少しずつでも負の側面を消していきたい」


「・・付いていくわ。

何時までも、何処までも。

だから、嵐の日でも、霧の夜でも、あなたを決して見失わないように、私に目印を頂戴」


有紗が背後から和也を抱き締める。


「・・自分は結構容赦ないらしいぞ」


「壊れるくらいに抱いて。

・・でも、初めてだから、最初だけは優しくお願い」


イヴの夜が更けていく。

有紗は、今までの人生で失ってきたものを取り戻すかのように、何度意識を飛ばされても、和也を求め続けるのであった。




 「・・おはよう」


珈琲の良い香りに目覚めを誘われ、身を起こした有紗は、隣に寝ていたはずの和也の姿を探して、素肌にバスローブを羽織り、ベットルームから出る。

珈琲メーカーから蒸気が漏れているリビングにもおらず、顔を洗おうと向かった洗面所に面したバスルームで、シャワーを浴びている彼を見つける。

明け方近くまで繰り返し行われた行為にもかかわらず、身体に疲労感は一切なく、むしろ細胞の1つ1つに至るまで、全身に活力が漲っている気がする。

少し悪戯心を起こして、ローブを脱ぎ捨て、そっと浴室の扉を開くと、後ろから彼に抱き付く。


「よく眠れたか?」


まるで自分がそうするのが分かっていたかのように、動揺も見せずに言葉を紡ぐ彼。


「お陰様でね。

夢を見るどころか、自分が眠ったことにさえ気が付かなかったわ」


彼から離れて浴槽に湯を張る。


「今後のことを少し聴いておきたいから、一緒にお風呂に入らない?」


「ああ」


シャワーを終えた彼と交代で、今度は自分が浴び始める。

浴槽に移った彼が、じっと自分のことを見つめている。


「・・どうしたの?」


「いや、綺麗な身体だと考えていただけだ」


「有難う。

でも、ほんの数時間前まで、散々堪能していたでしょう?」


「あの時は、理性のタガを少し外していたからな。

こうして朝日の中で改めて眺めると、その美しさがよく分かる」


「フフフ、運動は得意だけど学生時代はプールにも入らなかったから、この身体をじっくり眺めることができた男性は、あなただけよ」


「・・それは光栄だが、入りたいと思わなかったのか?」


「ええ。

はっきりとは言えないんだけど、何となく、嫌だったのよね。

番台に男性が座る可能性がある銭湯も無理だったから、その分家賃が高くなるけど、学生の時からずっとお風呂のある部屋を借りてたし・・。

バイト生活の身には、結構きつかったわ」


「今はむしろ、銭湯に行く方が高くつくのではないか?」


「借りる場所と物件にもよるわね。

私は女性の一人暮らしだったから、防犯の意味もあって、しっかりとした建物の部屋を借りていたから。

学業との両立だったし、週6日、1日6時間働いても、毎月の家賃を払うと、手元には7万残ればいい方だった。

祝日や長期休暇の稼ぎ時がなければ、奨学金を貰っていても、ほとんど何もできなかったわね」


(後日、レストランで飲んだワインの値段を聞いて、私の給料の20倍以上なんてと絶句する有紗である)


「学費が高かったのか?」


「それもあるけど、高校までは参考書や制服代なんかもあったし、女子には他に、いろいろとお金がかかるのよ。

でも、まだ私なんかいい方よ。

高校までは公立だし、大学も国立だったからね」


「どこの大学だ?」


「〇京大学」


「・・それは凄い大学なのか?」


「・・就職試験を断られる会社はないくらいには・・ね」


シャワーを終えた有紗が、和也の待つ浴槽に身を沈めてくる。


「・・それで、私はこれからどうすればいいのかしら?」


「どうとは?」


「あなたはずっとこの国にいるわけではないのでしょう?

今まで通り、普通に暮らしていて、あなたからの指示を待っていればいいの?」


「そうだな。

基本はそうなるな。

ただ、引っ越しはしてもらうし、自分とは何時(いつ)でも自由にやり取りできるから、不自由はしないはずだ。

時間ができれば、月に数日くらいは、君の部屋に泊まりに行くこともあると思う」


「意外ね。

あなた、携帯持ってるの?」


「携帯?

いや、持っていないが」


「じゃあどうやって、あなたと連絡を取るの?

パソコン?」


「いや、念話だ」


「念話?

テレパシーのようなもの?」


「そうだな。

自分とその眷族の間では、口に出さずとも、心で念じるだけで会話ができる。

同じ眷族間でも、自分(かずや)以外との念話はできないが、妻達の間では可能にしてあるし、いろいろと不便だろうから、その眷族と結びつきの強い眷族同士では、可能にしようとも考えている」


「それは便利ね。

寂しくなくていいわ」


「・・この後、君を自分の眷族にするが、そうすれば他にも様々な能力が手に入る。

不老不死は勿論、万能言語能力、魔力の泉、肉体の強化などが主だが、瞬間転移もあるから、寂しい時は何時でも会いに来れるぞ」


「本当!!

嬉しいわ。

・・でも、魔力の泉って一体何?」


「魔法を使っても、魔力が枯れないように、使った分だけ体内に満ちる泉のようなものだな」


「私も魔法が使えるようになるの!?」


「当たり前だ。

他の世界に行った時、使えないと不便極まりないぞ。

それとも、この世界限定の妻にでもなるつもりか?

確かそういう者を、現地妻というのだったか」


「馬鹿。

・・分かってはいたつもりだけど、神様のお嫁さんになるって、かなり大変なことなのね」


「・・今からでも止めることにするか?」


「ぶつわよ。

私を抱いた以上、きちんと責任取って、ずっと可愛がってくれないと嫌よ?

・・ねえ、眷族化したら、今の私の姿から変わるかもしれないのよね?」


「そうだな。

今が人生で最も美しい時でないならな」


「まだチェックアウトの時間まで、2時間くらいあるわよね?

・・ベットルームは2つあったし、折角だから、もう1つの方も試してみない?」


「・・・」


「何よ。

あんなに気持ちのいいことを教えられたら、仕方のないことでしょう?

それにあなただって、この姿のままの私を、もう少し抱いてみたくはないの?」


正面から抱き付き、和也の耳元で、そう囁いてくる。

悲しいことに、その魅力に抗うことはできない和也であった。




 「最初に、私の家に寄ってもらってもいい?」


結局、あの後2時間では終わらずに、和也がフロントに延長の電話をかけて、昼近くまで、部屋で共に過ごしていた。

服の替えを持っていない有紗は、恥ずかしそうに和也にそう頼み、ホテルからタクシーに乗って、彼女の家に直行する。

この世界で初めて入る女性の部屋は、狭いながらもきれいに片付いていて、浴室の、つけっぱなしの換気扇付近では、器具に吊るされた色とりどりの下着が揺らめいている。


「恥ずかしいから、あまり見ないでね」


そう告げて、浴室のドアを閉め、中で着替える有紗。

紫桜もそうだったが、裸身を平気で晒しておいて、妙なところで恥ずかしがるこの(あたり)の感覚が、和也には今一つ理解できない。

2Kの部屋には、余分なものは何もなく、その暮らしぶりが少し豊かになったことを示すようなものは見当たらない。

あの後も、きっと慎ましい生活を続けていたのであろう。

クリスマスの、人で賑わうホテルのロビーで、自分がチェックアウトの手続きをしていた極僅かな時間でさえも、有紗は、他人の羨望の視線を集めまくっていた。

自分の精を何度も受けて、細胞が活性化し、全身から生気が溢れていることだけが、その理由ではないであろう。

競馬場で初めて会った彼女は、あの時も美しくはあったが、まるで大輪の花を咲かせる前の、蕾のようであった。

その花を開かせるためには何かが必要で、そして今、彼女はその何かを手に入れたように見える。

そのことを素直に喜んでいると、浴室のドアが開き、下着姿の有紗が出てくる。

生まれたままの姿も素敵だが、女性とは、何故こうも下着が美しく映える存在なのであろうか。

女性のビキニ姿が好きな和也は、そう思わずにはいられなかった。


「まるで、憧れのお姉さんの下着姿を垣間見た、男子高校生のような眼をしているわよ」


有紗に笑顔でからかわれ、気まずげに視線を逸らせる和也。


「準備ができたら行動しよう。

今日はやることが沢山ある」


強引に話題を変えて、その場から離れていく。

着替えた有紗に身分証と通帳、印鑑を持つように指示すると、慌ただしく彼女の部屋を後にした。




 「この部屋を買いたい」


タクシーで向かった大手不動産会社で、応対に出た社員に、都心の億ションを買いたいと告げると、別室に通され、何件かの物件の映像を見せられる。

その中から、あまり派手ではなく、有紗の反応の良かった物件を示し、即決する和也。


「有難うございます。

この物件は、まだ建てたばかりなので、即日入居が可能でございます。

お振込みを確認次第、お部屋の明け渡しが可能でございますが、いつ頃をご希望でいらっしゃいますか?」


「今日だ」


「・・そう致しますと、14時までに当社指定の金融機関にお振込みいただかねばなりませんが」


和也が部屋の時計を見る。

あと40分くらいしかない。


「分かった。

今から振り込んでくるから、そちらは書類の方の手続きを頼む」


有紗を連れて、またも慌ただしく店を出るが、今度はタクシーに乗らず、すぐに人気のない場所に行く。

そこで有紗の手を握り、不動産会社の社員に渡された書類に書いてある、とある金融機関のビルの、その階段の踊り場に瞬間移動する和也。

面倒なので、監視カメラなどの映像は全て魔法でごまかし、時間がないので、受付の順番と、本来なら次に呼ばれるはずの者の記憶と札の番号とを書き換えて、すぐに自分達の番号が呼ばれるようにした。

その際、その者が取り立てて急いでいないことを確認し、お詫びとして、その人物の財布に、1万円札を忍ばせておいたことは言うまでもない。

物件の購入金額は、税込みで1億8360万円。

これも本来なら、そのお金の出所などの証明を必要とする場合もあるが、行員達の記憶を操作して、さっさと済ませる。

全ての手続きを終えて時計に目をやると、13時50分。

何とか間に合った。

不動産会社に戻る前に、有紗に新たな銀行口座を作らせ、そこに2億のお金を入れておく。

新たに始める、株の購入資金だ。

和也が手にしていた、あの時一緒に買った大きな旅行鞄から、後から後からお金が出てくることに、初めは驚いて見ていた有紗も、終いには、乾いた笑いしか示さなくなった。

入金確認の取れた不動産会社から、マンションの場所まで車で案内され、部屋の鍵を渡される。

残りの細かい手続きは後日にしてもらい、部屋の中に2人で入る。

部屋の数とその広さ、内装の豪華さに溜息をつく有紗を、リビングの中央に1人で立たせる。


「遅くなったが、今から君の眷族化を始める。

心の準備はいいか?」


「え?

ちょっと待って」


「どうした?」


「・・念のため、1つだけ確認しておきたいのだけど、眷族化した私が、たとえどんな姿になったとしても、あなたは私を変わらずに愛してくれるよね?」


「勿論だ。

自分は、その者の全てを1つの存在として愛する。

容姿は外見を飾る美しい華だが、人の価値を決めるのは、決してそれだけではない。

君には、様々な美しさがある。

短い時間の中で、それらはどんどん花開いていき、自分を捉えて放さない。

もっと自分に自信を持つといい」


「・・有難う。

あなたにそう言ってもらえることが、何よりの励みになるわ。

・・じゃあ、お願いします」


頷く和也の瞳が、蒼く輝きだす。

目を閉じ、自然体の姿勢でその時を待つ有紗の胸の中心に、和也の瞳の色と同じ、蒼い光の玉が生じ、それはやがて形を失って、彼女の全身に広がってゆく。

蒼い光に包まれた彼女の外見に、ゆっくりと変化が起こり始める。

服を着ている状態であるにもかかわらず、和也の眼には、その変化の全てが見えている。

身長は変わらない。

だいたい165㎝程度だ。

体型には、若干の変化が見られる。

バストのトップとヒップの位置が、やや高くなっている。

最も変化の訪れた場所はその顔で、3~4歳程若返っているようだ。

この国の表現を用いれば、大学2~3年生くらいか。

整ったその美しい顔に、多少の幼さが同居している。

ただ、彼女が今の年齢だった当時とは、おそらく大分印象が違って見えるだろう。

それを受けた女性の美しさを引き立てる、和也の精と魔力で、彼女の瞳は光彩を放ち、髪は艶を帯びて流れ、その肌はしっとりとして、かつ、水を弾くような弾力に満ちている。

基礎代謝がなくなり、和也の体液以外は身体に取り込んだ瞬間に消滅してしまうその肉体からは、黒子(ほくろ)や産毛が消え去り、髪や眉、睫毛、陰毛以外の体毛が全て消失している。

手足の爪は美しいラインと輝きでもって、淡い桜色の体を成していた。


「終わったようだな」


和也の言葉に、有紗が目を開く。

そして真っ先に鞄から鏡を取り出して、自分を映し見た。


「これが私?

・・大学生くらいかしら。

制服を着て、あなたと一緒に高校に通うには、少し無理があるかしらね?」


「そんなことないのではないか?

それに、大学ならば、何の違和感もあるまい」


「・・そうね。

高校生活は人生で1番貴重な時間だと思っていたけれど、大学だって、あなたと通えば、きっとあの時の何倍も素敵に思えるわよね」


「・・まだ何十年も先の話だぞ?

前に説明した通り、君には以前の姿のままで、やってもらうことが沢山あるのだ」


「分かってます。

私が理事長になった学校に、あなたが生徒として入学してきたら、あなたにだけ、毎日理事長室に顔を出す義務と、異性交遊禁止令を出してあげる」


「職権乱用甚だしいな。

今の学校できちんと教師をしているのか心配だな」


「あら知らないの?

私、凄く生徒からの評判がいいのよ。

女子は勿論、男子からだって、卒業式の時、沢山の手紙を貰うんだから。

その中には、あんな内容の手紙も・・・」


わざと言葉をぼかして、和也の気を引こうとする有紗。


「・・そうか。

では、もう自分は君に必要ないかな?

妻の証のリングを渡そうかと思ったが、やめておこ・・」


「くれないと泣くわよ」


涙目で彼女に睨まれる。


「・・いや、勿論本気ではないぞ。

これは以前、自分が本で習得した、女性に対する高等テクニックなのだ。

成功率が半分以下のようなので、使いどころが難しい、ある意味奥義と呼ぶべき会話なのだが、まさかこんなに威力があるとはな」


苦笑しながら、有紗の左の薬指に、妻達と同じリングを作成する。

その変化は4段階目のプラチナで止まり、表面には、鈴蘭の花に止まる、クロアゲハの模様が刻まれる。


「・・プラチナリング?

可愛くて素敵な柄だけど、少し変わっているわね」


もう彼女は、和也が何をしても、いちいち驚くことはない。

その眷族となり、彼の力の計り知れない大きさを、身体が理解してしまっている。


「それは君の真の姿を現すものでもある。

リングの材質は全部で9段階あり、君の現在の力の大きさに従って、進化していく。

プラチナは4番目だな。

鈴蘭の花は君の本質を、クロアゲハは力の象徴を表現している。

そのリングには、他にも様々な機能があり、収納スペースも兼ねているので、必要なものは予めそこに入れておけば、何時でも、好きな時に取り出せる。

入れられるものの大きさや量に、制限はない。

時の魔法がかかっているので、食べ物や生ものを入れても、何時までも入れた時の状態で保存でき、決して腐ったり、傷んだりすることもない。

これがあれば、もう下着のシミを気にして、わざわざ家まで帰る必要はないぞ」


「馬鹿!!

女性の前で、何てこと言うのよ!

紳士失格よ。

私でなかったら、即フラれること間違いなしね。

妙な本を読んで、役に立たない奥義を習得するより、もっと大事なことを学びなさいな」


「・・すまない。

ちょっとした冗談のつもりであったのだが。

ウイットに富んでいなかったということだな」


「・・・あなた、本当に神様なのよね?」


「暫く星に帰ります」


『エリカに慰めてもらおう』


「もう、子供みたい」


有紗がクスクス笑っている。


「いろいろ忙しいんでしょう?

早くやることやって、ゆっくりしましょうよ」


「・・そうだな」


その後、元の姿に偽装した彼女と、何件かの店を回り、必要なものを買い揃えていく。

購入した複数のパソコンを使い、有紗の家で、ネット証券に口座を開いたり、とある農家のホームページに連絡先をメールしたり、彼女の引っ越しの手続きや、電気やガス、水道の手配など、必要なことを集中的にこなしていく。

会社の設立に必要な登記の手配や、その事務所となる物件の選定などを終えた頃には、既に辺りは暗くなり、街を彩るイルミネーションが、クリスマスの夜を一層引き立てていた。


「・・大体のことは、これで済んだな」


「そうね。

あとは必要に応じて、その時にやればいいわ。

・・この後はどうするの?」


「君にクリスマスプレゼントを用意してある。

ディナーショーに行かないか?」


「ホテルか何かの?」


「いや。

厳密には、音楽を聴きに行って、軽食を楽しむと言った方が正確かな。

どうだ?」


「嬉しい。

私、そういうの初めてだから」


「じゃあ、すぐに出かけよう」


「今、着替えてくるわね」


「そのままでいい」


「でも、これ普段着よ?」


「君は仕事用に着るスーツしか持っていないだろう?

この際だから、新しい服を買ってから行こう。

それもプレゼントだと思って欲しい」


「いいの?」


「勿論だ。

今日の自分は、サンタさんの代わりでもあるのだ」


「・・有難う。

私、これからはサンタさんも信じることにするね!」


泣き笑いの表情で、和也に抱き付いてくる有紗であった。



 イタリア発祥の超一流ブランドで、有紗の好みを聴いたプロの店員の意見を参考にしながら、コートやドレスを含めた複数の衣類を購入する。

身に着けていかないものは、後日、新しい住所まで配送してもらうようにお願いし、店先からタクシーに乗り込んで、お目当ての店まで移動する。

『ブル〇〇ート』

主にジャズミュージシャンに愛され、この地域の音楽シーンをリードしてきたこの店は、今宵も上質の音楽を求める客達で賑わっている。

ただ、ショーの時間になっても、ステージには肝心の歌手が現れない。

店のスタッフから、事故による車の渋滞で、到着が少し遅れるとの連絡が入る。

軽い食事を楽しみながら、思い思いに待つ客達。

そこで和也は有紗に一言告げて席を立ち、会場の隅に控える店員と、何やら話を始める。

少しのやり取りの後、頷いた店員に礼を告げ、自分の席まで戻った和也は、持参したバイオリンケースを開き、立ったまま、隣の有紗に向けて、静かな音色を奏で始めた。

『サイレントナイト』

クリスマスに相応しい名曲が、バイオリンの優しい音色に奏でられ、店内をゆるやかに満たしていく。

雑談に興じていた客達が、1人1人と耳を傾け始め、やがて、その音色以外の音が聞こえなくなる。

3ターン目に差し掛かる頃、姿を見せた女性歌手が、和也の奏でる音色にのって、美しい歌声を響かせ始める。

やがてその歌が終わりを告げると、満場の拍手が店内に響き渡った。

周囲に一礼して、和也が席に座ろうとした時、女性歌手が和也に向けて手招きをしてくる。

求めに応じて和也がステージまで出向くと、その女性はこう告げてくる。


「いい演奏だったわ。

ハートが籠ってる。

もう1曲、一緒にどうかしら。

私の十八番(おはこ)、エディット.ピ〇フのあれ、いける?」


「勿論」


頷いた和也が、そのイントロを弾き始める。


「あら素敵!」


満足した女性が、恋に焦がれた女性の想いを、熱く歌い始める。

そんな2人の姿を、有紗はとても嬉しそうに、とても誇らしげに見つめ続けるのであった。



 「とても素敵な演奏だったわ」


「そうだな。

素晴らしい歌声だった」


ショーが終わり、店を出た2人は、少し歩きたいという有紗の意見を実行に移し、夜の街を腕を組んで歩いている。


「違うわ。

あなたのことよ。

勿論、あの歌手の人も素晴らしかったけど、その前にあなたが弾いてくれた『サイレントナイト』、あれ、凄く素敵だった」


「そう言ってもらえると、大勢の前で恥をかいた甲斐がある」


「ううん。

恥なんて、とんでもないわ。

私、音楽にはそれ程精通しているつもりはないけど、あんなに心に響いた曲を、今まで聴いたことがないもの。

演奏技術は勿論必要だけれど、大切なのは、聴いてくれる人を想う心だと、私は思うの。

あなたが私を想って弾いてくれたあの曲が、私のこれまでの人生の中で、№1の曲だわ」


有紗が組んでいる腕に力が入る。


「ねえ、今夜も一緒にいられるよね?

私の部屋に行きましょう?

あの寂しい部屋にも、最後くらい、いい思い出をあげないとね」


「あそこはあまり、壁が厚くない気がするが・・」


「・・何を言いたいの?

私、そんなに声、大きくないわよ?

それに、後で聴こうと思っていたんだけど、・・鈴蘭の花は可愛らしいけど、毒があるわよね?

クロアゲハ?

黒い蝶も確か、人を惑わす表現に、よく使われるはずよね?

それらが私の本質とか力の象徴って、一体どういう意味かしら?」


そう尋ねる有紗の声は、外の寒さに負けないくらいに冷ややかだ。


「・・あれはリングを作成する際、勝手に浮き出てくるのだ。

自分が意図的に作り出しているものではない」


「ふーん。

じゃあ、その辺のことも含めて、今夜はじっくりと2人で話し合いましょう?

勿論、寒いからベットの中でね」


「・・・」



 こうして、運命とも呼べる出会いを経て、和也の妻の1人となった有紗は、その後、この世界の発展に多大な影響を及ぼしていく。

和也との約束通り、魔法により、その姿を人のように偽装しながら学校教育に携わり、和也が宣言通り学園経営を始めると、そこの理事長に納まり、優秀な人材を毎年数多く世に送り出した。

また、和也が日々株で儲け続ける莫大な資金を背景に、4つの超優良企業を創出し、そのCEOを兼務すると共に、世界中の有望な研究者達に援助して、巨額のお金を生み出す特許を独占し、世界経済を陰から支える存在となる。


 学園で理事長席に座っている彼女は、いつも温和で笑顔を絶やさなかったが、なぜか年齢の話だけには敏感で、ある時、取引先の相手がその美貌に見惚れて、『失礼ながら、いつお会いしても40代とは思えない程お若く、お美しい』とつい口にしてしまった時には、ピクっと片眉を動かして、『私、本当に若いんだから!』と意味不明の言葉を残し、家に帰ってしまったという伝説がある。

その際、教室で転寝(うたたね)をしていたとある男子が、まるで誰かに怒鳴られたように飛び起きて、慌ただしく早退していったと、当時のクラスメイトの1人が証言している。

そんな彼女には、表舞台には決して姿を現さない伴侶がいると噂され、本人も、それを否定していない。

だが、彼女は50歳を境に人前に姿を現さなくなり、代わりに、その娘であるという、1人の少女が世に出てくる。

その少女の履歴は謎に包まれ、有紗が亡くなったとされた後には(その最後を見たものは誰もおらず、葬儀も秘密裏に内輪だけで行われたため、人々は、提出された死亡診断書の書類だけでそう信じざるを得なかった)、その遺産の全てを受け継ぎ、グループ企業を引っ張っていく。


 御剣家。

それが、有紗やその少女、そしてその後も連綿と続く、世界屈指の名家の家名である。

有紗の苗字は香月であり、その後も改名してはいないが、おそらく、その伴侶の名前だと推測されている。

この家についてのあらゆる情報は完全に秘匿され、国家機密よりも、その取扱いが厳しい。

もし誰かが探りを入れようとしようものなら、国家によって直ちに処分された(勿論、命を取られるようなことはなく、所属先や勤務先に厳重注意された上、場合によっては拘置所に1日程度の勾留をされるくらい)。

なぜそこまでの扱いを受けるのか?

それは、この家と、グループ企業の特殊な形態にある。

その傘下には数百の1流企業が名を連ねるが、ほとんどは過半数の株を取得しているだけで、経営自体にはあまり口を出さない。

グループ収入の中核は様々な特許収入と持ち株からの配当で、御剣家が直接支配している企業は、製薬会社と、IT全般を取り仕切る企業、医療用や工業用ロボット生産を中心とする、2つの重工業の計4つだけである(この4つの企業に至っては非上場で、その株式の全てを御剣家が所有している)。

世界屈指の名家にもかかわらず、その本宅はありふれたマンションで(億ションの最上階をワンフロア所有し、地下駐車場からの直通エレベーターや、専用ヘリポートを備え、そのセキュリティーの高さも尋常ではないが)、グループ本部も、街外れの古い賃貸オフィスでしかない。

本部の社員は3名だけで、オフィスにはパソコンが3台と、お茶とお菓子を楽しむためのスペースがあるだけだ。

製薬会社とIT企業は、海上に浮かぶ巨大な人工島の上にあり、その島は非常にゆっくりとではあるが、移動可能な状態にある。

税というのは本来、その者が居住する国や地域、もしくは、経済活動で利益を得ている場所に払う。

もし御剣家の機嫌を損ねれば、本宅やグループ本部の場所を瞬時に別の国に移され、人工島も他の海域に移る。

そうなれば、その国は毎年得ている巨額の税金を失うことに繋がる。

今やこの家とグループ本部が納める税金は、国家収入の約2割を占め、もしそれを失えば、国や地域の運営に与える打撃は計り知れない。

しかも、この家とグループ本部は、節税というものを一切しない。

稼ぐだけ稼いだら、それに相当する税金を、しっかりと納めてくれるのである。

さらには、地域の音楽ホールや図書館などの公共施設、ボランティアが主催する慈善活動などに、積極的に寄付を出し、地域の活性化まで担っているが、お金は出しても自身の名前は表に出さず、広告活動もしない。

選挙においては、所属政党に拘らず、真に国や地域の未来を見据え、そのための仕事を惜しまない候補者に、グループ企業の総力をあげて協力し、必ず当選させるが、それ以後は決して政治に口を挟まず、応援した候補者に、自分達の利益に繋がるような政策を強要するなどの見返りを、絶対に求めない。

その圧倒的な存在感の割に、ほとんど一般市民に知られていないこの家が、国ぐるみでの保護を受けるだけの理由が、きちんと存在したのである。


 御剣家のもう1つの特徴は、その子孫達の先祖返りにある。

この家の家系は、代々必ず、数百年前の先祖の誰かと全く同じ容姿をした者が生まれる。

完全秘密主義のこの家は、その出産においても謎で、病院を通さないため、何時何処で誰が生まれたのかも、役所に提出される書類上でしか判断できない。

奇妙なことに、その父親が誰であるかは毎回記載されておらず、生まれたとされる子供も、代々決まって1人の女の子のみである。

そして、その子供の幼少期を知る者は誰もおらず、親が50歳になると、決まって姿を見せなくなる親の代わりに、その子供とされる少女が現れ、親の死亡がこれまた書類上で確認されると、その少女が全遺産を引き継ぐ。

延々と、まるで作業のように、それが繰り返されていく。

長く生きても100年と少しである人間には、その流れ作業全体を垣間見ることはできないが、もしそれが可能なら、きっと誰もが首を傾げたであろう。

御剣家とは、そんな家である。




 最後に、幾人かのその後を記しておきたい。


 和也によってワインコレクションの約3分の1を購入されたその店は、クリスマスの2日後から、1週間程店を閉めた。

店の内装は変えずに、メニューと価格を一新し、本格的なフランス料理から、より手軽なプリフィクススタイルへと変えて、若い人でも気軽に食事を楽しめるように、最も高いコース料金でさえ、4000円に設定する。

ドリンクメニューから1万円以上するワインは消え、地ビールやカクテルも取り入れ、シェフが作るその日の創作料理に合わせて、選べるように工夫した。

意欲と熱意に溢れ、日々研鑽をつんだこの店のシェフは、その後数年でこの店を予約の取りづらい名店へと押し上げ、今では1週間先まで予約で埋まっている。

1週間先までしか予約を受けないのは、店のオーナー夫婦の大事なこだわりだ。

この店は、1~2か月に1度、終日貸し切りになる。

和也や有紗が予約を入れると、店がその日は彼らだけに楽しんでもらうよう、自ら貸し切りにして、普段とは異なった、本格的な料理を出す。

シェフが日々研鑽を積むのは、彼らを心から満足させるため。

ソムリエがワインを厳選するのは、夫の作った料理とのマリアージュを完璧にし、彼らとの会話をより楽しむため。

毎回赤と白の2本のワインを用意するが、彼らは決まってそれらを3分の1ずつ残していく。

彼らが笑顔で店を去った後は、お決まりの、2人だけの時間。

その日の反省会をしながら、和也達が飲まずにおいてくれた、祖父のコレクションを共に味わう。

5年後、予め購入したワインの数が減ってくると、和也は、彼女の祖父のコレクションの残り全てを買い取り、その後もこの店と同様の付き合いを続ける。

まるで、オーナー夫婦が和也達のために、あの時残った700本のワインを売らずに、ずっと保管していたのを知っていたかのように。


 この店の地下には、通常店で出すワインの保管場所とは別に、特別なワインセラーがある。

そしてその棚には、こう書かれていた。

『御剣コレクション』




 クリスマス当日、その女性は出勤時間よりも少し早めに家を出た。

昨夜の、娘との楽しい時間をくれたあの男性に、お礼を言いたかったからだ。

ただ、贈り物の件は会社側には内緒なため、自分の勤務時間より大幅に早く出勤すれば、何事かと疑われる。

1時間前、それが精一杯であった。

親子づれや着飾った若者達が行き交う、都心の駅前通りを抜けて、仕事先のホテルに着いたのは午後1時。

フロントに立つ同僚にそれとなく確認すると、延長して、少し前にチェックアウトしたばかりだという。

落胆を顔に出さず、制服に着替えて仕事に励みながら、隙を見て昨夜の宿泊カードを見つけ、その名前だけを書き留める。


『香月有紗さん。

あの男性のことは分からずじまいだったけど、この女性のことを覚えておけば、いつかは分かるかしら』


チェックインの時間を過ぎ、クリスマスの夜をより素敵なものにしてくれる、このホテルの部屋を求めて、予約客が列を作る。

その応対に気を引き締めた彼女の思考は、そこで途切れた。


 4月。

桜舞い散る校庭を目の端に捉えながら、立花皐月は放課後、進路指導室に向けて足を運んでいた。

元々成績はかなり良かったが、お金のこともあり、私立高校は諦めていたところに、降って涌いたように、自治体が私学の授業料も支給してくれることが決まり、母親の勧めもあって、この高校に入学できた。

だが、授業料はただでも、当然、他にもお金がかかることは多い。

季節ごとの制服代だけで10万円以上かかり、教材費や修学旅行の積立金などで、毎月数万円が消えていく。

母は気にするなと言ってくれるが、非正規雇用の身で、生活費の他にそれだけのお金を稼ぐには、かなり無理をしなければならない。

亡くなった父を悲しむ間もなく、生活のために、すぐに仕事に出なければならなかった母。

毎日疲れて帰ってくるのに、日曜や祝日も、残業代や割り増し手当のために、ほとんど出勤している母。

最近まで中学生だった自分は、まだアルバイトもできず、せめて家事をこなすくらいしかできなかったが、これからはアルバイトで家にお金を入れられる。

ただ、この高校は、生徒のアルバイトには許可が必要で、今、その理由を説明しに行かねばならない。

正当な理由があれば、許可が下りないことはないと聞かされてはいるが、少し緊張していた。


「失礼します」


指導室の扉を開けると、ちょっとびっくりするくらいの綺麗な人が座っている。


「立花皐月さんね?

どうぞ、そこに座って」


「はい」


その先生は、自分のデータと思われる資料を見ながら、にこやかに話しかけてくれる。


「それで、どういう理由でアルバイトをしたいのかしら?」


「はい。

実は・・・」


自分の家の状況を丁寧に説明し、理解してもらえるように努める。


「もう働く場所とかを決めているのかしら?」


「いいえ。

それはまだですが、できれば週に5日くらい働けるところがいいです」


「そんなに?

それで勉強の方は大丈夫なの?」


「頑張ります。

母だって、週に6日は働いてます」


「大人はそれが仕事だからね」


「でも、母だって1人の人間です。

やりたいこともあるだろうし、疲れて休みたい時だってあるはずです。

それなのに、私のためにいろいろと無理をしてくれているんです。

先生、どうかお願いします。

成績を下げないように精一杯頑張りますから、アルバイトを認めてください。

・・このままでは、いつか母も身体を壊してしまう。

私だけが、安穏としているわけにはいかないんです!」


むきになって話す私を、先生が静かに眺めている。

だが、その瞳は優しげで、世間知らずの子供を見るような、軽蔑や侮蔑の色は微塵もない。


「働く先をまだ決めていないと言ったわね?

・・これは内緒の話だけど、いい所があるの。

極限られた人にしか紹介しないのだけど、あなたならいいわ。

合格。

週に3回、1日4時間で月給制。

仕事は簡単で、パソコンに送られてくるメールの識別と電話番、あとは宅配便の引き取りだけ。

電話はいつも同じ人しかかけてこないわ。

暇な時は何をしていてもいい。

宿題なんかもね。

それで月に15万円。

どうかしら?」


「・・先生、それ、まともな仕事ですか?

お聞きしていると、何だか振り込め詐欺の仕事のようにも思えますが・・」


「ますますいいわね。

そういう警戒心は必要よ。

ただ、仕事はまともなものだし、働いてもらう条件に偽りはないわ」


「そんなにいい条件の仕事なら、何で堂々と募集しないのですか?

いくらでもやりたい人はいるでしょう?」


「これはあの人の趣味みたいなものだから。

頑張っている真面目な子に、手を差し延べるのが好きなのよ。

だから、誰でもいいという訳にはいかないの。

いろいろと、条件があるのよ。

・・それにね、私も他人事(ひとごと)には思えないの。

私も学生時代はバイトばかりで、折角の貴重な時間に、他に何もできなかった。

高校時代は本当に大切な時間よ。

あなたには、バイト以外にも、いろんなことを体験して欲しい。

友達を作って、その子達と寄り道したり、お喋りに花を咲かせたり、・・素敵な誰かと、恋をしてみたりね」


「・・あの人って、どなたのことですか?」


「それは秘密。

今ここで決めなくてもいいから、お家でお母さんとよく相談して、明日またここで、答えを聞かせてくれる?」


「分かりました」


「あ、勿論、この話を断ったからといって、アルバイトを禁止したりはしないわ。

アルバイト自体は認めます。

だから、遠慮なく答えを言ってね」


「はい」


アルバイト自体は認められ、大分心が軽くなる。

部屋を出る時、まだ先生のお名前を伺っていなかったことを思い出し、尋ねてみる。


「先生のお名前を伺ってもよろしいですか?」


「私?

香月有紗よ」


容姿に違わぬ、とても綺麗な声でそう教えてくれた。



 「今、何て言った?」


家に帰り、夜遅く帰宅した母に、今日の出来事を手短に説明する。

見知らぬ先生に、指導室で紹介された仕事についての話を聞いていた母は、自分と同じように、少し胡散臭さを感じていたようであるが、最後に告げたその先生の名前に、ひどく驚いて聞き返してきた。


「ん?

先生の名前?

香月先生よ。

香月有紗先生。

凄く綺麗な先生で、初めて見た時びっくりしちゃった」


「・・その先生に、お母さんも会えないかな?

会ってお礼が言いたいの」


「え?

何で?

何かしてもらったの?」


「それはね・・・」


後に皐月は御剣グループの1つに入り、有紗の秘書的な役割を担うことになる。


有紗は最初、妻ではなく眷族の1人として、和也のこの世界でのサポート役にするつもりでおりました。

ですが、複数の読者の方々からの嬉しい励ましのお言葉を得て、思い切って妻の立場に変更することに致しました。

お楽しみいただければ幸いです。

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