紫桜編その20
「・・・紫桜様、あのお方はどなたでしょうか?」
あまりの展開に、呆然自失となっていた役人達を代表して、上役の男が尋ねる。
いきなり彼らの視界に現れ、規格外の魔法を操り、精鋭達を勝利へと導いたかのように見える少年。
黒髪黒目は我が国の特徴だが、黒一色の服装は明らかに洋装で、本国の者ではないことが分かる。
もしかして、あのお方が?
紫桜が、男の予想を肯定する返事をする。
「彼は御剣和也さん。
わたくしの後ろ盾であり、婚姻の相手です」
彼が・・。
側にいた女官も、興味深く和也を注視する。
まだ若いにもかかわらず、この場にいる誰よりも、威厳と風格を備えた彼は、見かけによらず、歴戦の戦士とも、堂々とした王とも感じられる。
何より、ここまで届くその力の波動が、油断すると、跪いて首を垂れそうなくらいに自分を圧迫してくる。
とてもあのお茶目な立て札を立てた人物とは思えない。
「・・随分、お若いですね。
纏っている魔力も、尋常ではないご様子」
「ええ。
素敵でしょう?」
男が驚く。
『まさか、紫桜様からそのようなお言葉が出るとは・・』
「はい。
恐れながら、紫桜様と、よくお似合いかと存じます」
「有難う」
本当に嬉しそうに微笑む紫桜。
その笑顔の威力に当てられながら、これは本国の出る幕など無いなと、密かに思う男であった。
森に火狐を狩りに行っていた源達が戻って来る。
「只今戻りましてございます」
6人が、和也の前で整列して膝を突く。
「ご報告がございます。
禍根を絶てとのお言葉でしたが、生まれたばかりの子供2体と、産後でろくに動けなかったその母親を、見逃して参りました。
全ては私の指示ですので、どうか罰は私1人に」
源がそう言って首を垂れる。
「詫びることはない。
言ったであろう。
己の信じる正義を貫けと。
それがおまえ達の正義に通じるのであれば、何も恥じることも、気に病むこともない。
偽りなき思いである限り、神兵の力は、その心に応えてくれる。
それに、残された火狐たちのことは、我に考えがある。
以前よりの考えを、実行に移す良い機会でもある」
それまでその場にじっと佇んでいた和也は、そう告げると、少し歩いて、彼らから僅かに距離をとる。
「おまえ達は十分に働いた。
今度は、我の番だな」
和也の足下に、光り輝く魔法陣が浮かび上がる。
腰の剣を逆手に持ち、トンとその中心を軽く突く和也。
すると、魔法陣が光輝き、彼の姿をその足下から変えてゆく。
眩い光の中で、白銀の鎧と純白のマントを身に付け、口元の見える白銀の兜を被った和也が、天を見上げる。
魔法陣が作る、黄金色の光の柱の中を、ゆっくりと上空へと昇っていく和也。
島全体を一望できる高さで止まり、赤い満月の妖しげな光を浴びて、夜風にマントをたなびかせながら、逆手に持った剣で、再度、魔法陣を突く。
先程の輝きとは比べものにならないくらいの激しい光がそこから生じ、派生した魔力が島全体にかけられた結界を粉々に砕くと、島の周囲を覆うように、新たに光の輪が生まれる。
その内側、和也の周りには、6色の魔法陣を備えた、光の曼荼羅ができあがる。
「約束の時は来た。
我が娘、我が世界の管理者達よ。
時空の扉を開きて、我が元に集うがいい。
・・光の令嬢、汝の名は、ファリーフラ」
曼荼羅の、黄金色に光る魔法陣が、一際強い輝きを放つ。
光を象徴する紋様が描かれたその場所が、扉のように開かれ、眩い光を身に纏う、純白のドレス姿の美少女が姿を現す。
以前の、金色の光が人型をなしていただけのものではなく、名を得たことで、より人に近い、見た目は人と変わらぬ容姿をもった少女。
違うのは、実体を持たぬという点だけだ。
「・・お父様、有難うございます。
こんなに早く、約束を守っていただけるとは思っていませんでしたわ。
嬉しい。
本当に嬉しいです」
品良く微笑み、喜びを表現する彼女を視界の端に捉えながら、和也は続ける。
「闇の貴婦人、汝の名は、エメワール」
曼荼羅の、漆黒の魔法陣が、赤い満月の光を反射して、妖しげに輝く。
闇を象徴した紋様の扉から姿を見せたのは、漆黒のロングドレスを身に纏った、妖艶な色気を放つ美女である。
「お父様、ご機嫌麗しゅう。
お声がかかるのを、待ち望んでおりましたのよ?」
内心の、弾けるような嬉しさを、気取った物言いで隠そうとしている彼女に苦笑いし、続けていく。
「不滅の灯火、汝の名は、レテルディア」
曼荼羅の、真紅の魔法陣が、火が付いたように燃え盛る。
扉が開き、姿を現したのは、赤い髪を肩口で切り揃えた、凛々しい美少女。
その真紅の瞳が、ワインレッドのドレスに負けない、鮮やかな輝きを放っている。
「この時を、誰よりも、何よりも、待ち望んでおりました。
お父様のお役に立つことこそ、我が喜び、我が願い。
何なりとお申し付けください」
見かけによらず、相変わらずの堅物ぶり。
だが、そんな不器用な好意が、嬉しくもある。
「母なる海、癒しの雨、汝の名は、メルメール」
曼荼羅の、青い魔法陣に、波が寄せるように水が満ちる。
開かれた扉から姿を見せたのは、おっとりとした雰囲気の、豊かな胸を持った、若き貴婦人。
水色のロングドレスに、青みがかった金髪と、サファイア色の優しげな瞳が、よく似合っている。
「嬉しいですわ、お父様。
時々水鏡で、お父様のお姿を拝見しておりますのよ。
お風呂がお好きなようですが、お父様のためなら、何時でも、何処でも、最高の水をご用意致しますわ」
妻達を抱く時以外は、透視や遠視の類に関する対策を採っていなかったが、今後は入浴中も気をつけようと、内心で苦笑いする。
「流転と変化をもたらす気高き風、汝の名は、ヴェニトリア」
曼荼羅の、黄緑色の魔法陣に緩やかな気流が生まれ、その扉が内側からの風に押されるように開かれる。
現れたのは、新緑のレディスーツに身を包み、緑色の長い髪をポニーテールにした、生真面目そうな少女。
喜びを素直に表現するのを我慢し、あくまで落ち着いた女性を演出しようとするも、その口元が微妙に震えている。
「お父様、有難うございます。
ご恩に報いるため、さらなる働きをお約束致します。
ご期待ください」
今でも十分頑張ってくれているが、努力した成果を親に褒めてもらいたい、子供のような彼女の甘え方を、その気持ちごと、有難く受け入れる。
「恵みと安寧の大地、汝の名は、ディムニーサ」
曼荼羅の、茶色の魔法陣が、激しい振動を起こして開かれる。
姿を見せたのは、一見無表情に見える、まだ10代半ばくらいの無口な少女。
赤茶色の綺麗な髪を、ある星の西洋人形のようにカールさせ、髪と同じ色の、可愛いドレスを身に着けている。
「お父様、大好き」
端的に自分の言いたいことしか言わない彼女に、他の者が抗議する。
「ちょっとあなた、ずるいですわよ!
わたくしだってそう言いたいのを我慢して、よりエレガントに、遠回しにお伝えしたのに」
エメワールが文句を言う。
「ここは私利私欲を捨て、いかにお父様のお役に立つかの決意表明の場だろう」
レテルディアが、真面目な顔で窘める。
「まあまあ、よいではありませんか。
彼女なりの、思いの凝縮した一言なのですから」
メルメールが優しい瞳をディムニーサへと向ける。
向けられた当の彼女は、相変わらずの無表情だ。
「またおまえ達の力を借りようと思う。
・・先ず、エメワールよ、おまえに頼みたいことがあると、我が言ったことを覚えているか?」
6人の様子を穏やかに眺めていた和也は、まだ少しむくれている彼女に呼びかける。
「勿論ですわ。
一日千秋の思いでお待ち致しておりましたのよ」
自分だけに声をかけてもらえたことで、すぐに機嫌を直す彼女。
「我は今ここに、新たな世界を創造する。
その世界の管理を、おまえに委ねる。
頼むぞ」
「はい、お父様。
お任せください。
精一杯力を尽くしますわ!」
あまりの喜びに、態度を取り繕う余裕もなく、子供のような満面の笑顔を見せるエメワール。
この世界の闇の精霊が、その感情に共鳴して、一段と夜の闇が深まり、赤い満月の光が際立つ。
姿勢を正した和也は、逆手に持っていた剣から右手を放し、その掌に魔力を込めていく。
「世界よ!
喜ぶがいい。
遥か悠久の時を経て、今ここに、おまえ達に新たな仲間を与えよう。
闇に生まれ、人に疎まれ、生きるために争わざるを得なかったもの達の安住の地。
殺戮の本能から解放され、深き思慮と気高き意志を身につけ得る瞑想の地。
我は命ずる。
顕現せよ、その名は、魔獣界!!」
掌に込められた凄まじい魔力がテニスボール程度に凝縮し、深い闇の中でさえ、はっきりとその形が解る漆黒の塊になる。
それは和也の手からゆっくりと宙へと浮いて行き、明滅を繰り返しながら、上空で数倍にまで膨張すると、夜空に溶けるように消滅した。
「生きるために必要な食事は、無限に自生する果物や植物、絶滅することのない魚介類だけで事足りる。
住人同士は互いに傷つけ合うことができず、唯一その攻撃が有効な存在は、人界などから絶えず流れてくる、人の憎悪や妬み、怒りといった、声なき負の感情の塊のみ。
そしてそれらを浄化する度に、身体の内に潜む魔の要素が薄れていき、やがては神獣や神兵として生まれ変わって、我が居城のある世界で、光を浴びて穏やかに暮らすもよし、輪廻の輪に加わって、人として転生する道を選んでもよし。
むろん、闇の世界で何もせず、まどろみの中で安住するもよし。
生まれを選べないのは、何も人のみにあらず。
そのもの達とて、穏やかに、静かに暮らす権利はある。
深き思慮を得たその先に、新たな生を得る道が必要だ。
・・エメワールよ。
おまえの仕事は、ただ見守ること。
その闇で、彼らを優しく包んでやること。
負の感情の塊が飽和せぬよう、必要に応じて闇に吸収すること。
この3点だ。
住人となるべき魔獣や魔人は、我が必要と考えるもの達を随時送ろう。
よろしくな」
兜の下から彼女に微笑みかけるその口元が、優しげに歪む。
そして、森に残された火狐の親子3体を、できたばかりの魔獣界へと送り込む。
それを見たエメワールは、色白の肌をうっすらと紅色に上気させながら、うっとりとした表情で答える。
「お父様が、わたくし”だけ”に微笑んでくださった。
今のお顔を思い出すだけで、あと1万年は寂しくないですわ。
新たな世界は、わたくしとお父様”2人だけ”の絆。
大切に育てて参りますわ」
「・・今のは微笑みではなく、愛想笑い」
ディムニーサが、面白くなさそうに、ぽつりと洩らす。
「確かに。
わたくしの所持しているお父様コレクションの中にも、あのような微笑みはありませんわ。
あれは、愛想笑いと認定致します」
メルメールまでが、大人気無くそう口にする。
「・・あなた達、喧嘩を売ってますの?」
エメワールが2人を威嚇するも、当の本人達は何処吹く風だ。
「あなた方、そこまでにしておきなさいな。
お父様の前で、醜い争いをなさってはいけませんよ。
今はお父様のお力になる時です」
ファリーフラの言葉で、とりあえず矛を収めた彼女達を、愛しい娘を見るような眼差しで眺めた後、和也は告げる。
「この島には、辛い思い出、悲しい歴史が染み付いている。
血で汚れ、怨嗟で穢れ、結界で閉じられていたこの島は、歪な生態系を育み、大地は疲弊しつつある。
雨は大地を潤し、湯となりて人に一時の癒しをもたらすも、未だ人に心からの笑みは戻らず。
我は思う。
苦しみと喜びの天秤は、等しく釣り合うべきではないかと。
我は願う。
苦難に耐えたその先に、それに見合った幸せがあることを。
艱難辛苦は世の常なれど、弱き者、老いた者が、心安らかに過ごせる場所があってもいい」
和也の言葉に、厳粛な響きが混じる。
「・・・我は命じる。
この島は、これより我が所有とする。
強者に迫害され、他者との争いを拒み、他人との競争に疲れた者達に与える安寧の地。
邪悪な者、邪な思いを抱く者には決して入れぬ、永遠の楽園。
四季の移ろいに、己の人生を重ねて、自然と共に穏やかに生を過ごす場所。
・・我が娘達よ。
新たに我がものとなったこの島に、祝福を授けてはくれぬか。
1人1つずつでよい。
おまえ達の、我に対する想いの一部を、できればこの島にも、分けてやってくれ」
曼荼羅を通して、彼女達に伝わってくる和也の想い、言葉に込められたその優しさ。
長い時の中で、人の営みを見続けてきた和也が、何をどう感じてきたのか、どこでどう考えたのか、その断片が、パズルのピースのように、彼女達の心に降りてくる。
『『『お父様・・・』』』
その数々の記憶は、場面は、6人の心を大きく揺さぶる。
寂しそうな横顔、悲しそうな眼差し、喜びに沸き立つ笑顔、羨ましそうな表情。
名を得たことで、より人に近い容姿を身に着けた彼女達に、今新たな感情が芽生える。
”愛”。
思慕や好意、肉親への愛情などとは明確に異なる、より強い感情の渦。
数多の世界を管理し、多くの営みを見てきた彼女達が、今ひとつ理解できずにいた、唯一の気持ち。
それが今、和也の心に直に触れたことで花開く。
6人の精霊王達の瞳に宿る、新たな輝き、初めての色。
最も人間らしい感情の1つでもあるその気持ちが、6人に、人の心の機微を解する力を与える。
そしてそれは、この島の素晴らしい未来が、決定した瞬間でもあった。
「・・愛しい。
お父様はわたくしの父であり、心を捧げる唯一の存在でもある、最愛のお方。
そのお父様のために、わたくしからは、この島に『光の輪廻』を授けましょう。
生まれ変わるその度に、前世の境遇を少しずつ良くしていく、希望に溢れた転生。
この島で永久の眠りにつく者に、幸あれ」
光の魔方陣が闇夜に美しい輝きを放ち、胸の前で手を組んで祈るファリーフラから膨大な魔力が迸る。
島の周囲を金色の光が包み込み、島全体がポオッと穏やかに光る。
すると、その大地から、次第に小さな光の玉がいくつも浮かび上がり、ふわふわと揺れ動きながら、ゆっくりと天へと登っていく。
観戦所の全員が、言葉もなく、一連の出来事をただ呆然と眺めている。
精鋭達を助けたところまでは、驚きはしたものの、まだぎりぎり理解できる範疇であったが、今のこの光景は、まさに常軌を逸している。
これではまるで、神ではないか。
いや、彼を神と呼ばずして、一体誰をそう呼ぶというのか?
神の子孫とされている、天帝からの自身への扱いに、その存在自体に懐疑的であった役人達も、これを見せられては信じるしかない。
その顔から、愛想笑いをする余裕すら消え失せている。
そんな中で、紫桜は、いつもと変わらぬはずの心音が、やけに耳障りに感じられつつも、そっと席を立ち、1人静かに観戦所を出て、闘技場の門の封印を解くと、その中に足を踏み入れる。
血で汚れた地面から、時折浮かんでくる光の玉を興味深げに眺めつつ、あやめ達が整列する場所まで辿り着く紫桜。
「・・皆、無事でよかったわ。
わたくしは、和也さんから事前にお聞きしていたから、皆の様子を見ていても、何とか堪えることができたけど、身体のほうは大丈夫?」
神兵の効果が切れて、通常の姿に戻った彼らに、確認するように声をかける。
「はい、姫様。
もうどこも痛くありませんし、身体中の傷が、きれいに消えているみたいです」
忍装束の腕をまくり、過去に付けた傷がないのを確かめながら、あやめがそう告げる。
それを聞いた源が、左目に付けた眼帯をずらしてみる。
すると、そこには傷跡が残ってはいるが、眼球は完全に復元され、目は普通に見えた。
「?
なんで俺の傷はそのままなんだ?
眼を治してくださりながら、傷跡だけをお残しになる意味が判らないが・・」
指先で傷跡をなぞりながら、不思議そうに首をかしげる源。
「・・たぶん、わたくしのせいね。
わたくしが、おじい様からお聞きした、皆を守るために戦ってできた傷は勲章なのだというお話を、前にあの方にしたことがあるから。
後で他の傷跡も見てごらんなさい。
きっと、残す価値のあるもの以外は、きれいに消えているはずよ」
自分との些細な会話の内容すら覚えていてくれる和也に、嬉しさを感じている紫桜の周りに、2つの光の玉がふわふわと近寄ってくる。
それらは、彼女の側を懐かしげに、愛おしげに漂っているように見える。
「・・おじい様、・・お父様?」
感じられた気配をそのまま声に出すと、2つの光はまるで喜ぶかのように明滅する。
その後、源やあやめ、志野達の方へと漂って行き、その苦労を労うかのように肩に触れていく。
「お、御屋形様・・?
御屋形様ーっ!!」
源が泣き出し、あやめが涙する。
「・・わたくしは、御屋形様のご恩に報いられたでしょうか?」
影鞆が、震える声でそう尋ね、志野は目を閉じ、嗚咽を懸命に耐えている。
心残りであった者達に、一通りの接触を終えた2つの光の玉は、やがて満足したように、ゆっくりと天へと消えて行った。
その様を眺めながら、紫桜が感謝の言葉を口にする。
「有難うございました。
大きな愛情と、溢れる慈しみの心で育てていただいたこと、わたくしは、決して忘れません。
お二人の、来世でのお幸せを、心からお祈りしています」
その瞳から流れた涙が、頬に美しい軌跡を残していく。
心に蟠っていた思いが消えて、同様に涙を流す源達と、かけがえのない時間をくれた和也を見上げる。
そこでは、新たな奇跡が起きようとしていた。
「・・妬ましい。
なぜお父様は、わたくしだけのものではないの?
2人だけで夜の闇に溶け込めたなら、他には何もいらないというのに。
・・赤い月。
まるで今のわたくしの、嫉妬に燃えた心の炎のよう。
見ていて、あまり気分の良いものではないわね。
・・わたくしからは、『青き月の夜』を授けましょう。
年に1度、青い満月が夜空に懸かる時、この島に住む者達の、心の闇や不安を取り除き、その後1年、安らかに眠れる夜を約束致しましょう」
夜の暗闇の中でも、はっきりとその存在を示す漆黒の魔方陣。
エメワールが、自身を抱きしめるような仕種をするのに反応し、その闇に鮮やかな艶が増す。
雲一つない夜空に輝く赤い満月。
それが、その端から、次第に闇に覆われていく。
皆既月食を思わせるその光景はすぐに新たな展開を迎え、今度は逆に、端から青く染まった月が顔を出し始める。
程なく、完全な姿を見せた満月は、その優しい青き光で、島全体を照らしてゆくのであった。
「・・熱い。
お父様をお慕いする私の心が、太陽よりも激しく燃え盛る。
私欲を捨て、ただそのお心のままにお仕えすることこそ我が願いのはずなのに、我が心は、最早それだけでは満足してくれない。
我が炎の糧となるのは、お父様の愛情のみ。
時には激しく燃える松明のように、時にはひっそりと灯る蝋燭のように、いつまでも2人で、この身を焦がしていきたい。
・・そのお父様のために、私がこの島に授ける恩恵は、『地熱の恵み』。
火山のマグマを操り、決して噴火させず、地底を流れるその道筋を変化させ、島のどこでも温泉が湧きでるようにしましょう。
その熱には、夏は暑さを吸収し、冬は寒さを和らげる他、土地の作物を冷害から守る役目も与えます。
幸運にも、お父様の島に住むことを許された、全てのものに幸あれ」
右手を上げ、掌を島へと向けたレテルディアから、火山目掛けて膨大な魔力が打ち込まれる。
少しして、大地が微かに揺れ動くも、すぐに治まり、元の静かな夜へと戻った。
「・・痛ましい。
この世界には、お父様のお心を乱すものが多すぎる。
全宇宙の創造主であられるお父様。
そのお力に限りはあらねど、救いを求めるもの数多あり、久しくお心の休まる時はなし。
私は、愛するお父様のため、この島に『破邪の風』を吹かそう。
あらゆる病の種を吹き飛ばし、島に入り込もうとする害虫や害獣の類を瞬殺する守護の風。
せめてこの島だけでも、お父様のお心を悩ます種を、取り除きたい」
ヴェニトリアの瞳が、エメラルドのように光を放つ。
その刹那、島のすぐ上空に台風の目のような気流が生まれ、何度か渦を巻くと、やがて消えていった。
「・・煩わしい。
お父様に可愛がってもらうのは、私だけの特権。
お父様に言い寄る者には・・・ダメだった。
それではお父様が悲しむ。
・・お父様を崇めるこの島の者には、『実りの大地』の加護を与える。
何度土を酷使しても、どんなに荒れた大地でも、お父様を崇める気持ちがある限り、連作障害の類が起こることはない。
不作に苦しむこともない。
皆でお父様を称えるがよい」
ディムニーサは無表情でそう言うと、カールのかかった髪をいじる。
それと同時に揺れ動いた大地は、すぐに元に戻り、地に立つ者達を安心させた。
「・・美しい。
この世に生きる、あまねく存在に気を配られ、美醜強弱の区別なく、等しくお包みになるそのお心。
争いに目を背けず、不条理を甘受し、老いや病で死に行く者達を見ては、自問せずにはいられない。
『こんな世界で満足だったか?』と。
数多の世界から、まるで細雪のように、お父様のお心に積もり続ける人の思い。
1人離れて眺めるその景色は、お父様に、こんなにも多彩なお気持ちを抱かせるのね。
・・愛しています、お父様。
愛しいお方のために、わたくしからこの島に授けられるものは、『慈愛の雨』。
この島に降る雨は、大地には栄養を、生物には活力を、水としては美容の効果を高めましょう。
飲むだけで力が湧き、浸かるだけで肌に様々な効果を与える神水のごとき恵み。
お父様の島に、幸あれ」
一筋の涙を流すメルメールの身体から、溢れ出す魔力の奔流。
それは空中で拡散し、時雨のように島に降り注ぐ。
程なく止んだその雨に、葉を濡らした島の草花は、青い月の光を照らし、独特の風情を醸し出していた。
闘技場に佇む紫桜達に、『慈愛の雨』が降り注ぐ。
不思議なことに、この雨は、人の身体を濡らしはしても、水分を留まらせずに、すぐに流れ落ちていく。
あらゆる汚れを弾く魔法が込められた紫桜の大振袖はともかく、源達の纏う忍装束ですら、その汚れを落とすだけに止まり、さらっとした状態を保っている。
「何となく解ってはいましたが、・・御剣様、神様なのですね」
菊乃が寂しそうに言葉を洩らす。
いくら自分が望んでも、相手が神様ではどうしようもない。
そう考えているのが丸分かりの表情だ。
「あら意外ね。
あなたの気持ちって、その程度のものだったの?
相手が自分の手の届かない人なら、諦めてしまえるの?
わたくしは違うわよ。
たとえ愛した人がどんな種族でも、どんな立場でも、決して諦めないわ。
その方が自分を認めてくださるまで、己を磨きながら、何年でも待つわ。
命尽きる、その最後の瞬間まで・・ね」
紫桜の言葉は、折れそうになった菊乃の心を励ますもの。
彼女にもそれが伝わったのか、菊乃の瞳に活力が戻る。
「・・そうですよね。
最初から、あの方は私なんかでは手の届かない、とても大きく広いお心を持った、素敵なお方でしたもの。
そんなの、今更ですよね。
たとえあの方に届かなくても、私が想い続けることは自由ですよね?
・・姫様、有難うございます。
お邪魔にならないように気を付けますから、あの方を好きでいること、お許しくださいね」
同じ人を好きでいるということが、紫桜に対する菊乃の遠慮を、良い意味で取り除いていく。
雲の上の人というイメージから、親しみの持てる、姉のように感じられた瞬間であった。
「・・頑張りなさい」
菊乃の言葉に満足して、紫桜は再び空を見上げる。
そこでは、一連の奇跡が終わり、6人の精霊王達が、和也に別れを告げるところであった。
「・・有難う。
おまえ達の気持ち、確と受け取った。
我からは、その働きに相応しいものを、なかなか与えてやれてはおらぬが、いつかまた、何らかのかたちで、応えてやれたらと思う。
寂しければ、いつでも我が許に顔を見せるがよい。
伝えたいことがあれば、好きなだけ語りかけるがよい。
おまえ達は我の大事な娘達。
何時でも、何処にいようと、その門は開かれているのだから。
それを、決して忘れるな」
「お父様、今のお言葉こそが、何よりも嬉しい贈り物ですわ。
今度是非、お言葉に甘えさせていただきますね」
ファリーフラが嬉しそうに目を細めながら、そう告げてくる。
「毎日お父様の所に行きたい」
ディムニーサが端的に願望を口にする。
「あなたはお仕事を頑張りなさいな」
先程の仕返しとばかりに、エメワールが攻撃する。
「フフッ、これからもっと、お父様コレクションが増えそう。
楽しみだわ」
メルメールが悪戯っ子のように笑う。
「あー、後で少し相談がある」
ヴェニトリアが、何かを頼みたいかのようにメルメールに声をかける。
「お父様は私の全て。
私の存在意義。
お父様こそ、私がいつもお側に控えていることを、絶対にお忘れにならないで」
レテルディアの熱い言葉が和也に届く。
「それでは皆さん、お仕事に戻りましょう。
お父様の世界の、明るい未来のために」
ファリーフラの言葉に、皆が名残惜しそうに帰って行く。
「また会おう」
和也は、最後の1人が戻って行くまで、ずっと曼荼羅から意識を離さなかった。
「さて、島の者達よ。
これでおまえ達は、長く苦しめられてきた戦いの楔から解き放たれた」
島の至る処から、自分を見上げて呆然としている村人達に、和也は語りかける。
闇夜に美しい輝きを放つ、黄金色の魔方陣の上に立ち、天上から、威厳をもって語られるその言葉に、村人達は自然に跪き、首を垂れた。
「おまえ達には自由がある。
我はおまえ達を縛りはしない。
この島に留まり、のんびりと暮らすもよし、他の場所へ移り住んで、そこで好きに過ごすもよし。
おまえ達を閉じ込めていた結界は既に存在しないので、自由にこの島から出られる。
ただし、我が新たに設けた結界がある。
心に疚しさを持つ者は、天秤の傾きで入島を裁かれ、人を害する意思のある者、人の道を踏み外した者には、この島に入る資格がない。
住人として暮らしていても、過失や正当な理由なく他者に深手を負わせたり、殺めたりした者は、その瞬間、この島から排除され、最寄の島に飛ばされる。
我が許せぬと感じた行いをした者には、相応の罰も与える。
以上のことを念頭に置き、どうするか、ゆっくりと決めるがよい」
村人達が、一斉に平伏する。
「今宵はもう休むがいい。
青き月は、おまえ達に穏やかな眠りを与えてくれる。
心残りがある者も、その原因は、明日の朝には解決しているであろう」
和也は、今度は観戦所にいる、本国の役人達に声をかける。
「我が声が聞こえているか?
本国の役人達よ」
突然声をかけられた4人は、飛び上がらんばかりに驚いたが、上下関係に厳しい国に住む者らしく、すぐに立ち上がって部屋から出ると、闘技場の中に駆け込むや否や、その場で膝を付いて平伏する。
「聞いての通り、この島は、これより我が所有とする故、本国とやらの支配からは脱する。
我の結界を通れれば、そちらの国からの移住希望者は受け入れるが、統治権は認めんし、課税も許さん。
ただ、おまえ達の顔も立て、今年分の年貢は差し出そう。
それを持って、天帝とやらに事の次第を伝えるがよい。
夜が明けるのを待って、速やかに兵と共にこの島から立ち去ること。
よいな?」
「「ははーっ」」
手ぶらで帰れば、自分達が罰せられるのは目に見えている。
だが、神に逆らうことなど到底できず、最悪、鉱山送りまで覚悟していただけに、この申し出は有難かった。
「青き月の光は、この島の港に浮かぶ船の中でも効果が及ぶ。
・・国でいろいろと、辛い仕打ちや粗雑な扱いに苦しんだようだが、せめて心を安らかにして、帰るがよい」
和也の優しい言葉に感激して、再度平伏する役人達を尻目に、最後に源達に声をかける。
「いろいろと隠し事をして、おまえ達を欺くような真似をしたことは詫びよう。
今までよく頑張ったな。
火狐の毒は完全に消し去ってある故、これからは、自分達の人生を楽しむがよい」
和也はそう言うと、森の中から源達が倒した火狐の骸を回収し、年貢として収める5体を役人達の側に積み、残りは、闘技場に横たわる火狐の王のものも含めて、一旦自分が預かった。
「明日の昼、紫桜から、今後のことについて話があるはずだな?
詳しい話はそこでしよう。
今はとりあえず、おまえ達も休め。
忌まわしい因縁の夜から、新しい安らぎの夜へと変化した、記念すべき夜を、穏やかな眠りと共に過ごすとよい」
魔方陣がゆっくりと消滅し、和也の姿も消え失せる。
紫桜と精鋭6人は、恭しく首を垂れながら、その様を静かに見送ったのだった。
兵達が船へと撤収し、村人達が各自の家で深き眠りに就いた真夜中。
紫桜は1人静かに露天風呂へと向かう。
晩秋の少し肌寒い夜風が、気持ちの高揚で火照った身体に心地よく、時折彼女を祝福するかのように、優しく髪をなびかせていく。
脱衣所に入ると、案の定、和也の衣服が置いてある。
薄暗い部屋の中で、ここに来るまでに内風呂で隅々まで磨き抜いた、己の身体をもう1度確認する。
和也に貰った高価な石鹸の香りに包まれたその身体は、我ながら、男を惹きつけるには十分な色香を放っていると思う。
心を落ち着けるため、薄暗い中で敢えて目を閉じて、その感覚を研ぎ澄ます。
そして徐に、浴場への扉を開いた。
「待たせてしまったかしら?」
2人の間に申し合わせはないが、この時間、ここに和也がいるのが当たり前のように、努めていつものような声を出す。
最早2人の間では日課のようになってしまった深夜の入浴。
だが今日だけは、それに特別な意味を持つ。
自分が初めて和也に抱かれる日。
ずっと焦がれてきたその想いが、やっと報われる日。
後にとある星で、エリカに勧められるまま、テレビゲームなるものをやる破目になる彼女だが、その中のヒロインが、僅か1か月足らずで主人公に永遠の愛を誓ったことには鼻で笑った紫桜も、自分のこの2週間にも満たない時間で育てた想いを、他人が否定することは決して許さないであろう。
「大丈夫だ。
自分も今来たばかりだ」
のんびりと湯に浸かり、青い月に雲がたなびく様を眺める和也からは、とてもそうは思えないが、女性に気を遣わせないための、ある種の”お約束”なのかもしれない。
かけ湯をして、お気に入りの体勢とは異なる、和也の正面に腰を下ろし、彼からの言葉を待つ紫桜。
その気配を察し、和也が月から彼女に視線を移す。
「心の準備はできたか?
これからの問いに、嘘や迷いは許さん。
1度決めたら、”人”とは違う道を歩むことになる」
「大丈夫です。
仰ってください」
「では尋ねる。
・・・我と果て無き道を行く覚悟はあるか?」
いつもの和也とは比べ物にならないくらい、発せられる言葉の1つ1つに、もの凄い重みがある。
まるで魔力でも込められているような錯覚さえ覚える。
そんな和也の問いかけに、紫桜は躊躇うことなく即答した。
「はい。
この身果て、魂のみで漂うことになろうとも、決してお側から離れず、いつまでも愛し続けることを誓います」
「永遠に続く生とは、決して良いことばかりではない。
愛するものたちと別れ、寿命あるものの苦しみに慣れ、時には信じていたものからも裏切られる痛みに耐え続けなくてはならない。
人やものに固執しすぎて、徒に手を貸すことも戒めなくてはならない。
・・それでもか?」
「・・和也さん、あなたには解りますか?
今のわたくしの喜びの大きさが。
聞こえていますか?
希望に震える心の鼓動が。
今わたくしの中にある思いは、これからもずっと、あなたを愛していけるという喜びだけ。
自分1人で生きてゆくのでなければ、1人では味わうことのない、様々な思いに晒されるのは当たり前のこと。
それはまるで天候のように、気まぐれに、突然に、訪れる。
1人でいたなら、耐えられないこともあるかもしれません。
でもこれからのわたくしには、和也さん、あなたが側にいてくれる。
辛いこと、悲しいことだと思えた出来事も、2人で見つめれば、感じ方が変わるかもしれない。
たとえそうはならなくても、あなたという、大きく優しい木陰の下でなら、やり過ごしていける。
辛く苦しいことを引きずるより、楽しいこと、嬉しいことを数えて過ごしていきませんか?
わたくしのこの考えは、楽観的過ぎるでしょうか?」
「2人で風呂に入り始めた頃の、べそを掻いていた者の言葉とは思えんな」
苦笑いしながらそう告げる和也に、紫桜は笑顔で応える。
「女は恋をして前を向き、愛を知って強くなることもあるんですよ。
知りませんでした?」
湯船から立ち上がり、その裸身を惜しみなく和也の前に晒しながら、紫桜が和也に向かって右手を伸ばす。
「さあ、約束を守ってください。
わたくしを抱いてください。
わたくしを、あなたの妻にしてください」
その揺るぎ無い眼差しに、和也は問う。
「ここでか?」
「・・いえ。
初めては、お布団の上がいいです」
急に恥じらい、消え入りそうな声でそう告げる紫桜を両手で抱え上げ、彼女の部屋へと転移した和也は、濡れた身体を魔力で乾かし、予め紫桜が敷いて置いた布団に彼女を横たえる。
「こうなった以上は覚悟するんだな。
約束通り、自分の想いの丈を存分にぶつけるとしよう」
真面目な顔でそう言う和也に、身体の力を抜き、潤んだ眼差しを向ける紫桜。
この時の彼女は、まだ少し、和也を甘く見ていた。
「・・御免なさい。
まだ腰に力が入らなくて」
髪を撫でる和也の指先に、飛ばされていた意識を取り戻し、身を起こそうとして和也の上に崩れ落ちる紫桜。
あの後、何度も気を失い、何度許しを請うても叶わずに、延々と快楽の海を漂い続けた紫桜。
時折送られてくる和也の精に、否応なく体力を回復され、その魔力が、途中からは気絶することさえ許してくれない。
彼女に出来る唯一のことは、自我を保つために、和也の逞しい背中に、全身でしがみつくことだけであった。
もう少しで夜が明けようとする頃に、やっと落ち着いた和也によって休むことを許され、意識を手放すかのごとく、深い眠りに就いた紫桜。
指先が髪を梳くその心地良さに意識を呼び戻された彼女が、枕にしていた和也の胸から顔を上げ、傍らの水差しに手を伸ばそうとして失敗する。
「謝るのは自分の方だ。
人の身の、しかも初めての女性に対してすることではなかった。
手綱を握られた理性が、危うく暴走しかけるくらい、おまえに溺れてしまっていた。
すまない」
崩れ落ちる紫桜の身体に衝撃を吸収する魔法をかけ、優しく抱き止めながら、そう告げる和也。
そのまま身を起こし、湯飲みに水を入れて渡してやりながら、改めて、明かり窓から漏れる早朝の緩やかな日差しを身に浴びて、淡く輝く彼女を見つめる。
「そんなにじっと見ないでください。
今は、あなたに見つめてもらう程の状態ではありませんから」
そう言いながら、ほつれた髪や、汗や体液で汚れた身体を気にする紫桜。
だが、紫桜が、心と身体を許した自分だけに見せるそういう仕種が、和也にとって、嬉しくないはずがない。
水を飲み終えた彼女の肩を抱き、露天風呂へと転移する。
朝日を浴びて、慌てて身体を隠そうとする紫桜の下に、石鹸とタオルを転移させ、自分は素早くかけ湯をしてから、湯船に入って後ろを向く。
程無く、仕方がないわね、とでもいうような溜息をついた紫桜が、渋々身体を洗い始める。
そういえば、身体を洗うところを見られるのは、恥ずかしいのだったな。
まあ、後ろを向いて景色を眺めているのだから、構わないだろう。
今日という日だけは、特別なのだから。
見上げた空に、数羽の鳥たちが、悠々と飛んでいく。
まるで、長きに渡り結界に閉ざされていたこの島の、新たな門出を象徴するかのように。
忘れずに、正門の文句も変えておこう。
彫られた文字を魔力で修正する。
『我が島にようこそ。この門をくぐる者達に、安らぎと希望あれ』
入浴を終え、再び紫桜の部屋へと戻った2人。
行為後の余韻を残す部屋全体を浄化し、天窓を開けて、清浄な空気に入れ替える。
普段の黒い振袖に着替えた彼女に、和也は最終確認する。
「これより、我が妻、我が眷属として迎え入れるため、おまえには人であることを止めてもらう。
・・覚悟はいいか?」
「はい」
ここに至っては、余計な言葉など必要ない。
ただ、全てを受け入れるのみ。
紫桜の目が、そう語っている。
何かを準備するように、一旦目を閉じた和也の瞳が、ゆっくりと見開かれる。
どこまでも蒼い、空のように輝く瞳が彼女を捉え、その胸の中心に、蒼い光の珠を宿す。
それは波紋のように徐々に全身に広がり、やがて紫桜の身体を全て包み込むと、淡雪が解けるように消え去った。
「気分はどうだ?」
和也の力を受け入れ、目を閉じてその変化を感じていた紫桜は、その言葉に徐に瞼を開かせると、にっこりと微笑んだ。
「世界が変わったみたいです」
「?」
「身体中に漲る魔力。
どんなことでもできそうな、絶え間なく湧き出る活力。
心と身体が、不安や痛み、疲労といった、あらゆる負の要素から解き放たれ、ただ真っ直ぐに、あなただけを見ていられる。
幸せです。
本当に幸せです。
これからの、果て無き旅路のお供を、どうかよろしくお願い致します」
流れるように美しい動作でお辞儀する彼女の、その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
泣き笑いで袖を濡らす紫桜の左手を、優しく手に取った和也は、右手の掌に生じさせたリングを、その薬指にはめる。
興味深げに眺める彼女の前で、それは次々と色と材質を変え、やがてミスリル製となって落ち着いた。
次いで、その表面に、魔力で絵柄が刻み込まれていく。
満開の花びらを散らす桜の下で、羽を休める1羽の鳳凰。
思った通りだ。
和也は何となく予想できたので表情を変えなかったが、紫桜は、その精密な絵柄の見事さと、自分と縁が深い取り合わせに驚いている。
「これはどういう意味があるのですか?」
彼女の問いに、端的に答える和也。
「リングの材質は、現段階でのおまえの力量を表している。
我が眷属になることで、その者には様々な基本能力が備わるが、勿論、その者本来の能力も劇的に向上する。
そしてそれは、様々な経験を積むことで上昇し、能力が1段階上がるごとにリングの材質が変化していく。
全部で9段階あるが、おまえのは、その5番目だな。
絵柄は、その者の性質と、力の象徴を表している。
予め我が決めているわけではないので、その絵柄は、おまえ自身の本質だ。
ついでに、リング自体の説明もしておく。
このリングは、おまえが我の許を離れたいと切に願うまで、決して外すことはできない。
見えなくすることはできるがな。
そして、いろいろと便利な機能が備わっている。
1番使い勝手の良い機能は、収納スペースだな。
リングに仕舞いたいと思うものに手を差し向け、念じるだけで済むし、入れた物を出したい場合には、出す場所に向けて、それを思い浮かべればよい。
何時まで入れておこうが決して傷むことも腐ることもないし、収納限度がないから、幾らでも入る。
あとの機能は、・・まあ、追い追い使いながら覚えるとよい。
他に何か、聞きたいことはあるか?」
「いえ、とりあえずは大丈夫です」
「ならば皆に会う前に、少し早いが昼飯にでもしないか?
別に何も食べずとも生きていけるのだが、食事は、我の数少ない楽しみの内の1つだからな」
神様なのに、真面目な顔をして、子供みたいなことを言う和也。
出会い、惹かれ、愛し、そして抱かれたその相手は、見た目と同じ、永遠の少年のよう。
そんな和也を、時には妻として、時には姉のように、支え、包み、そして時には助けられて、これからの長い時間を生きていく。
既に広間に向かって歩き出している、和也の広い背中に、紫桜は、心の中で声をかける。
『愛しています。
本当に、心から・・』
「知っている」
『!!』
振り向きもせず、いつもの平坦な声色でそう言う和也の顔は見えないが、たとえ見えなくとも、どんな表情をしているかくらいは想像がつく。
『馬鹿』
照れ隠しに少し早足になった、彼のその腕にしがみつくために、わたくしは走り出す。
こんな時くらい、少しお行儀が悪くても、きっと許してくれるよね?
ね、旦那様。




