紫桜編その8
「ちょっと聴いてもいい?
あなたって、菊乃のことが好きなの?」
深夜、例によって風呂にやって来た紫桜は、いきなりそう尋ねてくる。
「随分唐突だな。
そうだと言ったらどうするつもりだ?」
目に見えて落ち込む彼女に対し、慌てて付け加える。
「冗談だ。
いろいろ辛い思いをしてきたようだから、気にかけているだけだ」
「意地悪して・・。
でも、・・よかった」
かけ湯をして、湯に入り、和也の隣に座った彼女は、ぴったりと身を寄せてきて、話し始めた。
「・・・彼女はここへ来た当初、随分酷い状態だった。
向こうで相当嫌な目にあったのでしょうね。
母親以外とはろくに話もせず、人に近づくことを極端に恐れていた。
ただ、訓練にはすごく熱心に参加していたわ。
母親が、あまり身体が丈夫ではないみたいで、その分も頑張るつもりだったのでしょうね。
きつい基礎訓練も、人の倍もこなして、初めの頃は皆で心配していたのよ。
潰れてしまうのではないかって。
でも、何がそこまで彼女の心を強くしたのかはわからないけれど、2年経つ頃には、既に十分戦力として数えられるまでになった。
どちらかというと近接戦闘向きの源さんや喜三郎さん、志野さんと違って、彼女は小さい身体をフルに活かして、遠距離からの投擲攻撃を得意としていた。
だから、皆のサポートをして戦うことができたのね。
去年の初陣では、新人としては異例の、1体を仕留めた。
それが自信につながったのか、最近の上達ぶりは目を見張るものがあるわ。
他の精鋭の皆も、人一倍頑張る彼女に好意的で、そのせいもあって、彼女は大分明るくなって、他の人ともよく話をするようになってきたの」
「そうか」
『入り口の門をくぐる時、生き残る以外の希望は捨てたはずなのに』
彼女が言っていた言葉を思い出す。
平和であっても、ろくに食べるものがなく、日々飢えと戦いながら生きる者。
食べる物には困らなくても、命の危険に晒されながら、毎日を過ごす者。
平和で豊かな世界でも、天災や不治の病、他人からの妬みや中傷にさえ、苦しむ者がいる。
この世には、まだまだ人を苦しめるものの方が断然多い。
世界がうまく回るように、人や動物達の数を適正に管理することをしない以上、ある程度は仕方のないことではあるが、少しやるせなさを感じていた和也の顔に、物理的な影が差す。
視界が少し陰るのに気が付いた和也の唇に、紫桜がそっと口づけてきた。
しっとりとした、柔らかい唇が、和也のそれを丁寧に包み込む。
目を見開いて、至近距離から見る紫桜の顔は、湯に浸かっているせいか、ほんのりと桜色に染まっていた。
「貢物と、今回のご馳走のお礼よ。
初めてだから、それなりの価値があると思うわ」
暫くして、ゆっくりと唇を放した彼女は、目線を僅かに逸らしながら、小声でそう言ってくる。
「料金にしては、大分多すぎる気がするが・・」
「そう?
じゃあ、お釣りを貰うわね」
そう言って、再度唇を重ねてくる紫桜であった。
朝早いこの地に合わせ、まだ薄暗い田舎道を和也は養鶏場まで歩く。
鶏だけあって早くから活動し始めた彼らに、餌となる粟や稗を撒いていく。
その後、養鶏場の看板の隣に立て札を建てる。
『君も、御剣養鶏場で、卵や野菜を貰って僕と握手』
立て札には、そう書いてある。
そして、参加者が来るまでの間、これからのことをぼんやりと考え始めた。
ここで紫桜達に必要なものを配るにしても、とある世界で若夫婦のために毎月野菜を購入するにしても、魔法で創るのでなければ、何をするにもその世界のお金が必要になる。
もともと、お金は魔法で創ることを戒めているが、食べ物やその他の物品も、できることなら魔法で創らず、人が生産したものを買った方が世のためになる。
あの夫婦のように、熱意をもって真面目に励んでも、必ずしもいい結果が出るとは限らない。
お金に困って、本当にやりたいことから仕方なく離れてしまう者は大勢いる。
ろくな努力もせず、行き当たりばったりの行動しかしない者まで助ける気は更々無いが、夢を叶えるために、自分の大切な何かを我慢してまで励む者には、時には少しばかりの手助けをしてもいいのではないか。
そのためには、なるべくなら、そういった者達に援助ができるように、お金をより沢山持っていた方がいい。
先日の競馬を思い出し、あの世界のお金を定期的に稼ぐためにも、月に何度かは足を運んで、現金をプールしておいた方がいいのかもしれないと考え始めた。
どういう理屈かは知らないが、ダンジョンでモンスターを倒せば、お金が出てくるわけではないのだから。
そこまで考えた時、前回と同じ視線を感じた。
振り向くと、果たして菊乃が不思議そうな顔をして、こちらを見ていた。
「何、しているのですか?」
突然出来上がっていた養鶏場と魚の養殖池にひどく驚きながらも、立て板の文言の意味が解らずに、尋ねてくる菊乃。
「村人と親睦を深めるための、イベントを催している」
「・・卵や野菜を配って、皆さんと仲良くなりたいのですか?」
「少し違うな。
この立て札の文言のポイントは、”僕と握手”にある。
べつに、自分がスターだとか言っているつもりはないぞ」
「スター?」
「有名人とか、輝いている特別な人くらいの意味だな」
「それなら、その通りじゃないですか。
私にとってのあなたは、とても輝いている特別な人です」
「・・言ってて恥ずかしくはないのか?」
「でも、本当のことですから。
私にも、このイベントの参加資格があるのでしょうか?」
「もちろんだ。
景品は1日1回しか渡してあげられないが、握手なら何回でもいいぞ」
「本当ですか?
じゃあ、お願いします」
そう言って、握手のための手を差し出してくる菊乃。
和也は力強くその手を握り締め、頭を撫でてやる。
途端に、菊乃が目を大きく見開く。
どうやら、このイベントの真の意味に気が付いたようだ。
「・・もしかして、私達、”穢れし者”に、触れてくださるために?」
和也が微笑みながら、僅かに頷くと、彼女は我慢できずにボロボロと泣き出した。
そして、握手している手を振りほどいて、和也に抱き付いてくる。
「戦闘では大活躍したみたいだが、まだまだ泣き虫だな」
自由になった両手で、菊乃を優しく抱き締めてやる。
「知りません。
・・あなたが、いけないんです」
この地に来て、周囲の優しさに触れ、少しずつ以前の心を取り戻してきた菊乃。
泣ける時は、我慢せずに、思い切り泣くがいい。
その後に、少しでも心が晴れるなら、いくらでも泣くといい。
きっとその涙は、心の澱を洗い流すのに、なくてはならないものなのだから。
「御免なさい。
またご迷惑をおかけして」
暫く経ってから、やっと和也を放した菊乃は、和也の前で何度も泣いた自分が恥ずかしいのか、俯いて、照れたような声をだした。
「気にするな。
迷惑などではない。
それより、ほら、景品だ」
どこから出したのか、その手に卵とサツマイモを持っている。
「有難うございます。
・・そういえば、昨日のお礼もまだちゃんと言っていませんでした。
ご馳走様でした。
本当に美味しかったです。
お土産を頂いた母も、美味しい、美味しいって、大喜びで食べていました。
母の笑顔を見たのは、随分久しぶりです」
「嬉しいことを言ってくれるお客さんには、おまけしてやろう。
これも持っていけ」
卵をもう1つと、カボチャをつける。
「わあっ。
卵なんて、ここに来てから初めてです。
景品はもういりませんから、明日もまたここに来て、握手してもらってもいいですか?」
「もちろんいいが、景品はきちんと受け取るように。
これも大事なお仕事なのだ」
「・・あなたを見てると、本国でのことが、まるで夢のように思えてきます。
どちらも同じ人間なのに、・・不思議ですね」
「・・気をつけて帰れよ」
「子供じゃありませんよ、もう。
明日もまた、ここにいてくださいね」
そう言って、笑顔で帰って行く菊乃。
人一倍辛いことを経験してきたからこそ、時折見せるその笑顔が、より眩しく見える。
今日という日が、彼女にとってよい1日になることを、心から願う和也であった。
・・・おかしい。
なぜ、誰も来ない?
菊乃が来た後は、昼になっても誰も来なかった。
人一人通らない。
仕方がないので、領主屋敷まで出向き、紫桜と昼飯でも食べることにした。
あの後、恋愛経験値の不足から、満足に言葉もかけてやれない和也に対し、紫桜は、和也の首に両腕をまわし、その身体をしっかりと抱き締めながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「これからは、わたくしに会いに来る時でも、いちいち目通りの手続きを踏まなくていいわ。
普通に会いに来て。
あなたがわたくしに向かって、かしこまって頭を下げてくるの、なんだか他人行儀で嫌なんだもの。
そうしたとしても、あなたには、もう誰も文句を言う人はいないわ。
源さんも、あやめさんも、志野さんでさえ、あなたには一目も二目も置いている。
もっとも、菊乃だけは、違う意味であなたに懐いているみたいだけどね」
最後の言葉だけ、他とはトーンの異なる言い方をして、紫桜は和也を放す。
「・・ねえ、これからは、和也さんって呼んでもいい?」
「好きに呼んでくれていいぞ。
自分も君を呼び捨てにしているしな」
「嬉しい。
・・いつか、もっと別の呼び方ができるようになる日を、・・待ってるわ」
「?
今じゃ駄目なのか?」
「・・ええ。
その様子だと、もう少し時間がかかるかしらね」
少し呆れたように言ってくる紫桜。
それからは、お互いに何もしゃべらず、湯の流れる音だけを聞きながら、2人、寄り添っていた。
「頼もう」
「どうれ」
「・・・」
そう言いながら奥から出てきたあやめに、和也は言葉が出ない。
「何だい、何かお言いよ。
相手してあげた私が馬鹿みたいじゃないか」
「・・いや、まさか本当に言ってくるとは思わなかった。
言ってて恥ずかしくないのか?」
「あ・ん・た・ねえ。
もしかして、私を馬鹿にして遊んでいたのかい?」
あやめの口元がひくひく動いている。
「そんなことはない。
自分の知っている挨拶の言葉を使って、相手がどういう反応をするか、観察していただけだ」
「それを遊んでいると言うんだよ!」
「・・何を玄関先でわめいているの?
奥まで聞こえてくるわよ?」
紫桜が奥から出てくる。
「姫様、いけません。
こんなところまで出ていらしては。
何かあったらどうなさるおつもりですか」
「何もないわよ。
だいたい、和也さんがその気なら、どこにいたって同じでしょう?」
「・・和也さん?
なんで名前でお呼びに?」
「和也さんはこの島の恩人ですもの。
べつにそれくらいかまわないでしょう?」
「・・そうですね。
まあ、姫様がそう仰るなら」
「それで、どんなご用件かしら?」
紫桜が尋ねてくる。
「ちょっと相談がある。
昼飯でも食べながら、話を聞いてくれないか?
卵焼きと焼き魚でどうだ?」
「卵ですか?
それは嬉しいですね。
是非ご一緒させてください。
さ、奥へどうぞ」
「君も食べるだろう?
他にも人がいれば、呼んでいいぞ」
あやめにも、そう声をかける。
「では、遠慮なく。
志野も呼んで参ります」
そう言って、玄関から出て行くあやめを見送り、紫桜と2人で広間で待つ。
「話って何なの?」
「実は、今日の朝からずっと、借りた土地に作った養鶏場で人が来るのを待っていたのだが、早朝に菊乃が来た以外は、昼まで誰も通らなかったのだ。
もしかして、自分は避けられているのだろうか?」
「養鶏場?
あの川原に?
1日で造ったの?」
「ああ。
そこで、村人を対象にしたイベントをやっているのだが、菊乃以外、誰も来なくてな。
なぜなのか理由を知りたいのだ」
「時間が悪いんですよ」
そこへ、あやめと志野がやって来る。
「時間?」
志野の言葉に聞き返す和也。
「ええ。
村の西側にある川原までは結構な距離があるうえ、あの辺りには共同浴場くらいしかありません。
村人達は、午後の4時くらいまで畑仕事や地下住居の作業に従事していますから、浴場を使うのは夕方以降です。
菊乃は、体力づくりのために、毎朝あの辺りまで走っているそうですから」
「なるほど。
確かに1番近い畑まで1km近くあるな。
でも、ここの住人は朝の散歩すらしないのか?」
「皆が皆、あなたのように暇ではないのです」
「失礼な。
自分だってやることは沢山あるのだ」
「どんな?」
「散歩、昼寝、食事、風呂、あとは、・・考えることくらいだな」
「「「・・・」」」
「・・め、飯にしよう」
部屋全体を浄化で包み、テーブルの、皆が座る場所の前に木製の食器を並べ、料理を盛り付けていく。
ご飯、味噌汁、卵焼き、ヤマメの塩焼き、海苔、キュウリの浅漬け。
「昨晩も思いましたが、あなたがいると、さぞ、家事が楽でしょうね。
上げ膳、据え膳、料理を作る手間すらいらないのですから。
一体どうなっているのでしょうね?」
「細かいことは気にするな。
さあ、腹一杯食べてくれ」
「とっても美味しそう。
では、いただきましょう」
紫桜の一声で、和やかな食事が始まるのであった。
昼食後、気を取り直して養鶏場まで戻って来る。
夕方までの間の時間つぶしに、再び思考に沈む和也。
競馬もいいが、それだけでは不十分だな。
効率よく稼ぐためには、競馬は中央競馬に限る。
地方競馬は観客数も馬券自体の購入金額もかなり中央競馬に劣るうえ、何度も高額の馬券を換金すれば、かなり目立つ。
中央競馬のように、全国に馬券売り場があれば、各地を転々とするだけで、あまり目立つことはない。
券売機では換金できない高額的中馬券も、窓口で直接換金すれば、ネットで購入し、銀行振り込みで配当を受け取る場合のような、足が付くこともない(国税局には大変申し訳ないが)。
だが、基本的に土、日しかやっていないため、回数が限られるうえ、いつも土、日に時間が空いているとも限らない。
やはり、もう1つくらいは、お金を稼ぐ手段を作っておいた方がいい。
・・ただ、自分が考えている手段を用いるには、どうしても、実存する人間の戸籍が必要になる。
どうしたものかな。
魚の養殖池に時折魔法で餌を撒き、池の底に産卵に適した水草などを整えながら、いろいろと考えていた和也のもとに、待望の参加者がやって来たのは、それからまもなくのことであった。




