番外編、博愛の治癒士リサその2
キーネルが訪ねて来たのは、それから直ぐ、その次の日の夜であった。
余程困っていたのか、王族とは思えぬ程のフットワークの軽さに驚く。
わざわざ、療養所と浴場の営業時間が終わる20時過ぎに訪ねてくるあたり、確かに、昔の彼からは想像もつかない気配りを感じる。
以前の彼なら、こちらの都合などお構いなしに、自分の時間を優先し、営業中に訪れて、その間、こちらの仕事を中断させるくらいのことは平気でしたであろう。
1日の仕事を終え、夕食後に、そろそろ戸締りをしようと玄関へ向かう途中、控え目に扉を叩く音がした。
「夜分遅くにすみません。
ジルさんからご紹介いただきましたキーネルです。
今、お時間はよろしいでしょうか?」
最初、同名の別人かと思う程、彼の挨拶は丁寧だった。
曲がりなりにも王族が、それも、一応ではあるが皇太子が、下級貴族の自分に対してこんな丁寧な言葉を述べるなんて有り得ないことだ。
「初めまして、殿下。
ロッシュと申します。
お話はジルさんから伺っております。
こちらへどうぞ」
内心の驚きを面に出さず、キーネルを応接室に通す。
玄関先での遣り取りが聞こえたのか、リサが慌ててお茶の用意をしに行くのが見えた。
ソファーを勧めると、それに座る前に、自分に向かって頭を下げた。
「この度は、お忙しい中、自分のために時間を作って下さり、有難うございます」
再度、驚かされる。
王族が、下級貴族の自分に頭を下げた。
「いえ、ほんの少しでもお役に立てればと。
どうぞ、お楽になさってください」
再び勧めたソファーに、漸く腰を下ろした彼は、徐に用件を切り出そうとして、お茶の用意をしてきた妻が、ノックをして、私の許可を得て入室すると、また直ぐに立ち上がって妻を迎えた。
これにはもう言葉もない。
本来なら、彼のこういう対応は、目上の者に対して行うものだ。
上下関係にうるさい貴族社会を抜きにしても、せいぜい、自分と同格の者と認める相手にしか、普通はしない。
現に、された方の妻がびっくりしている。
大国の皇太子が、今は貴族の端くれとはいえ、平民出身の彼女に対して行ったのだから無理もない。
普通の上級貴族なら、ソファーに踏ん反り返って、妻の顔を品定めするくらいが関の山だ。
予想外の対応をされて、固まってしまった妻に、キーネルが声をかける。
「すみません。
何か失礼でもあったでしょうか?」
「いえ、逆ですよ、殿下。
下級貴族の私達に対して、あまりに丁寧な応対をされたので、戸惑っているのです」
「そうでしたか。
ですが、今は国を代表して人と接している訳ではありません。
私人として、知恵をお借りに来ているのです。
礼を尽くすのは当たり前の事だと思いますが」
「殿下、失礼を承知でお尋ねします。
今のあなたは、以前我々が噂を耳にしていたあなたとは、まるで違います。
先の敗戦後の、殿下に対する処遇ことは存じておりますが、それだけが原因とは思えないのです。
その理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「・・時々、他の方からも尋ねられる事ですが、あの敗戦の折、私は神によって助けられたのです」
妻に目配せする。
リサは、お茶のトレーをテーブルの上に置くと、殿下に対して『少し失礼致します』と声をかけ、部屋から出て行く。
そして直ぐに、1つの額縁を手にして戻って来た。
あの時、妻と共に涙を流しながら食べたパンの包装紙。
一体何処の店のパンなのか、もしくは、神が自らお作りになられたパンなのか、それすらも分からない私達は、いつか同じものを見つけた際に確認できるように、高価な額縁に入れて、この包装紙を大切に保管していた。
もし仮に、彼が本当に我々と同じ様に神に助けられたのであれば、この包装紙を見た時に、何らかの反応を示すかもしれない。
そう考えて、予め、妻に用意してもらっていたのだ。
果たして彼が示した反応は、我々の予想通りのものであった。
「これは、我が家の家宝です」
リサが、大切なものを扱うように、殿下にお見せする。
高価な額縁に入れられているとはいえ、それが何か分からない者からすれば、只の紙にしか見えない。
だが、キーネルの示した反応は劇的なものであった。
「それは!!」
彼が我々の顔を見る。
「もしかして、あなた方も?」
この時点で、彼が本当の事を話している事が判明した。
「ええ。
・・試すような事をして、本当に申し訳ありません。
私達があなたに力をお貸しする上で、どうしても必要な事だったのです。
・・神に頂いた妻の力は、少し常識はずれな程強大なものです。
使い方次第では、国の大きな戦力にさえなります。
でも、私達は、その力を戦争に役立てようとは考えておりません。
人々を助けるために用いたいのです。
ですから、失礼ながら、殿下がどういうお方なのかを正確に把握してからでないと、妻の力がどのようなものであるかを打ち明ける事はできませんでした」
「奥方の力ですか?
ジルさんから、凄い魔力量だとは聞いておりますが、他にも何か秘密が?」
「魔力量も大魔法士の何倍ものものがあると思いますが、その回復の早さも人並み外れています。
只でさえ、ヒールウェイブを何発も打てる魔力量がありながら、次の日にはそれが全回復していると言えば、お分かりいただけるでしょうか」
「ヒールウェイブを何発も?」
以前、大軍を指揮していた彼には、その凄さが分かる。
今は減少傾向にあるとはいえ、一時は30万にも及ぶ兵力を抱えていた超大国、エルクレール。
そこに所属している最高クラスの治癒術士の中でも、最上位の治癒魔法と呼ばれるヒールウェイブを使える者は数人しかいない。
しかも、1度使えば数日は行使できない。
それを何回も使用できる上、翌日には全回復しているなど、戦略史を塗り替えかねない。
自分達司令官は、ここぞという時にしか使用できないその魔法を温存するために、前線で奮闘している兵士を何人も見殺しにせねばならなかった。
ヒールウェイブを使える術士の魔力を、徒に減らすような事をして、もしもの時に使用できなかったら目も当てられないからだ。
最高の術士を、使うかどうかも分からない魔法のために温存せねばならない矛盾を抱え、自分達は戦ってきた。
いや、自分はまだ、魔導船という切り札があっただけ増しだ。
歩兵部隊を主力とする国々からすれば、彼女は喉から手が出るほど欲しいに違い無い。
おいそれとは口に出せないのも無理はない。
自分が彼女の立場であったとしても、話はしなかったであろう。
そう考えると、伝えてくれただけでも、彼らの自分に対する誠意の程が分かる。
「教えていただき有難うございます。
この事は、自分の胸だけに終っておきます」
「お心遣い、有難うございます。
・・話が逸れてしまいましたが、本日お尋ねいただいたご用件について、詳しいお話をお聞きしましょう」
「そうでした。
実は・・・」
キーネルの話を聞きながら、ロッシュは少し感心していた。
人に教えを乞おうとする者には、えてして2つのタイプがある。
1つは、予め自分で調べられる事は調べて、自分なりの考えをまとめた上で、質問の要点を的確に尋ねてくる者。
もう1つは、自分では全く何もせず、全てを相手から得ようとする者だ。
後者は、自分が楽したその分を、質問する相手が負担するという事に気付いていないか、気付いていても、それを理解した上でやっているかの2つに分かれる。
リサの療養所が軌道に乗るまでの2か月程、ロッシュは、裕福な商人の息子の家庭教師をしていたが、その息子が後者の、それも、たちの悪い方であった。
自分では全く予習などをせず、些細な事でも尋ねてくる。
その度に、その説明のため授業が中断されて、その日計画していた場所まで進まない。
金を払っているのだから、教えて当たり前だと思っている。
確かにその通りではあるが、それは、その者に十分な金額を払っている場合にのみ、許される。
そして、そういう者に限って、支払う金額をケチったりするのだ。
人の持つ知識に対して、敬意を払っていない証拠である。
教える者の中には、ロッシュのように、お金の為だけにやっている訳ではない者もいる。
その者の将来に少しでもプラスになるように、利益を度外視して指導してくれる者もいるのだ。
教える側の、そういう気持ちを考えられない者に対して、幾ら時間を割いたところで、無駄にしかならないという事を、彼は学んでいた。
その点、キーネルはよく勉強してきている。
専門外のことでありながら、彼なりに考え、分からない箇所では幾つかの選択肢を作って、尋ねたいことの要点を絞っている。
こちらに無駄な時間を使わせまいという、彼なりの配慮が見える。
かの商人の息子に教えている間のストレスを、ソナで解消していたロッシュは、久しぶりに彼女以外の教え甲斐のある者に出会って喜んだ。
熱心に教えるあまり、23時を過ぎてしまい、リサが夜食を差し入れる程であった。
「有難うございます。
お陰で納得のいく仕事ができて、依頼者に満足してもらえそうです。
夜分遅くまで、本当にすみませんでした」
キーネルが玄関先で、2人に頭を下げる。
「こちらこそ、有意義な時間を過ごせました。
正直、上級貴族の方々には、あまりいい思い出がありません。
ですが、神に認められたあなたならば、信用できます。
また何か、人々のお役に立てる時がきたら、精一杯お手伝いさせていただきます」
「助かります。
では、失礼致します」
そい言って、キーネルは、こんな時間にもかかわらず、供の1人も連れずに歩いていく。
「人の噂なんて、当てにならないものね。
とても好感の持てる、素晴らしい方だわ」
「・・そうだな。
神に認められる程の人物だ。
これからが楽しみだ」
そう話すロッシュの顔は、得難い友を手に入れた時のように、晴れやかな表情に満ちていた。
余談ではあるが、ロッシュが教えた商人の息子は、自分の代になって店を潰すことになる。
近隣諸国に誕生した、意欲ある生産者を手厚く保護し、その成長と共に急速に店舗数を増やしてきた、とある商会に、客のほとんどを取られたせいである。
「先日は、有難うございました」
2日後の夜、風呂に入りに訪れたジルに、改めて礼を言われる。
「お陰様で殿下に対する評判も良く、妻同様、ほっと致しております」
「いえ、こちらこそ、素晴らしい方をご紹介下さり、感謝しております。
また何かありましたら、遠慮なく仰ってください」
そう応えると、彼は本当に嬉しそうな顔をする。
心底、キーネルの事が好きなんだな。
きっと、嫁に行った娘さんも、大切にされているのだろう。
愛妻家でもあるロッシュは、また少しキーネルへの評価を高めるのであった。
何もかもが順調に運び始めた矢先、1つの事件が起こる。
帝国と国境線を隔てた隣国、ドガ王国が攻めて来たのだ。
昼前の、これから食事にありつこうとする人々で溢れる大通りを、砦からの早馬が、王宮に向かって駆け抜けて行く。
まもなく、王宮のバルコニーから、音の増幅魔法で拡大されたキーネルの声が響き渡った。
どうやら、砦に援軍に行くための、志願兵を募集しているようだ。
先のセレーニアとの戦争以来、帝国は、軍備縮小を掲げて、主に歩兵を中心とした兵数削減に取り組んできた。
魔導船を全て失った今、逆ではないかと一部の軍属から批判を受けたが、普段はあまり官僚達の立てた政策に口を挿まない皇帝が、珍しく強硬に主張し、押し通した。
噂では、キーネルが、もっと人々の暮らしを大切にすべきだと、父である皇帝に直訴したためだとも言われている。
そのため、帝国の衰退の原因を作った者が何を言うと、有力諸侯や軍の一部から猛反発を受け、表立っては反抗しないものの、自分達の兵を領地に引き上げる有力諸侯や上級貴族が跡を絶たず、帝都には、往時の半分も戦力が常駐していなかった。
キーネルの演説を、ロッシュは妻と2人で、食後のお茶を飲みながら聞いていた。
演説の内容は、極ありふれた、平凡なものでしかない。
だが、王族が、国民の前で自身の失敗を詫び、反省して、その責任を取ろうとしている点を、高く評価した。
ティーカップをテーブルに置き、妻の顔を見る。
リサは、当然のように頷いた。
「彼を無駄に死なせてはならない。
今はその輝きが弱くても、磨き抜かれた彼は、この国にとって、是非とも必要な人物になるから」
「そうね。
・・やっぱり、私の上位魔法には意味があったわね」
リサが可笑しそうに微笑む。
「でもいいの?
戦争には参加したくないんじゃない?」
「人を無闇に傷つけるだけの戦争ならそうさ。
でも、大切な人を守るためなら戦える。
そうしないと守れないなら、命を懸けてでも戦える。
君が病で臥せっている時、僕には為す術がなかった。
でも、今回は違う。
ほんの少しの勇気と、人並みに動く手足があれば、少なくとも、大事な人を守る盾くらいにはなれる」
「私だって、あの時とは違うわ。
いつまでもあなたに守られてばかりの存在じゃない。
あなたの命は、私が必ず守ってみせるわ」
「有難う。
・・では、行こうか。
彼の驚く顔を見に」
「ええ。
どんなお顔をなさるかしらね」
案の定、王宮広場には、ほとんど人がいなかった。
少年のような、まだ明らかに戦うには早い者達を除けば、200人くらいしかいないだろう。
その者達と握手を交わしているキーネルを見つけ、近づいていく。
「私達も、参加させてください」
自分が声をかけると、キーネルが驚いて振り向く。
「え?
・・有難いですが、よろしいのですか?」
彼が何に対してそう尋ねているか分かっているので、頷いてみせる。
今度は彼が、妻の方を見た。
自分に対するものとは異なる意味で見ている事を理解した妻も、同様に頷く。
「有難うございます。
ご自身の信念を曲げてまで助けていただける事、本当に感謝致します」
「この戦いは、力の誇示や欲望のためではありません。
人を守るためのものです。
私の流儀に反するものではありませんよ」
「でも、奥様のお力は・・・」
「なるべくなら、使わせたくはありませんが、大勢の人の命には代えられません」
「分かりました。
もしどうしても必要になった時は、お願いします。
・・では、急ぎましょう。
砦では、我々の到着を今か今かと待っているはずですから。
馬を1頭お回しします。
奥様とお二人でお使いください」
人数が少ないのが幸いし、本来なら3日かかる行程を2日弱で移動し、砦に辿り着く。
敵の魔法攻撃を何発も受け、粗末な城壁はボロボロで、既に矢を避ける程度の効果くらいしかない。
キーネルは、今まで辺境の砦に視察に赴いた事はなかったが、こんなに粗末な造りだとは思いもしなかった。
つくづく帝国は、魔導船ばかりに依存していたのだと呆れてしまう。
この砦は、辺境とはいえ、帝都に1番近い場所にある。
そんな重要な位置にある砦さえ、この有様なのだ。
自分にも大いに責任があるが、早急に何とかしなければ。
これでは兵士に死ねと言っているようなものだ。
直ぐに障壁魔法士2人を呼ぶ。
軍にとってかなり貴重な存在だが、集まった志願兵の数を見た父が、心配して、こっそり志願兵の中に紛れ込ませてくれたのだ。
「よろしくお願いします。
2~3日もすれば、有力諸侯達が援軍の兵を差し向けてくれるはずです。
それまで、申し訳ありませんが、お二人で騙し騙し魔法を使用して耐えてください。
生き延びた暁には、十分なお礼を差し上げます。
ここにいる皆の命は、あなた方お二人の働きに懸かっています。
どうか、お力をお貸しください」
そう言って、キーネルは深々と頭を下げた。
「お任せください。
できる限り耐えてみせます」
魔法士の1人が言う。
「私も。
今の殿下なら、喜んでお手伝いします」
もう1人も直ぐにそう告げる。
彼女らは、王宮広場に集まってからずっと、キーネルの行動を見ていた。
兵士仲間の何人かが、最近のキーネルは人が変わったようだと噂しているのを聞き、少なからず興味を持っていたのだ。
2人は、コゼットの小さい頃からの友人達であった。
彼女が学生時代にいじめを受けていた際は、彼女と同じ平民の自分達では何もできずに、心苦しく思いながらも、只見ているしかできなかった。
その彼女を助けてくれて、途中、エリカ姫に心を奪われ、コゼットを蔑ろにした事には腹を立てていたが、結婚してきちんと責任を取った上、今はとても大事にされていると、本人から喜びの手紙を貰ったばかりだ。
その彼を、本当に変われたのか、外面だけではないのか見極めようとして、行軍中、目を離さなかった。
果たして彼は、噂通りの人物だった。
移動に際しては、徒歩の兵士の速度に合わせ、無理をさせなかった。
指揮官の中には、自身が馬に乗って移動しているせいか、重い装備を背負って歩く歩兵の疲れに無頓着な者も多い。
また、食事の配給では、1番最後に受け取り、その間、人々の様子を見て回っては、何の異常もないか気にかけていた。
野営地などでは、配給係の腕が悪いと、皆に食事が均等に行き渡らず、えてして最後に受け取る者は、その量が他と比べて少なかったりする。
なので、幹部クラスの兵は、一般兵と別の物を食べるか、同じ物なら最初に受け取るのが当たり前になっている。
当然のように、彼は1番最後に受け取り、皆と同じ物を食べていた。
砦に着いた時、彼が真っ先にした事は、それまで戦っていた兵士達に感謝の言葉を述べる事と、その治療である。
前線で戦う兵士を尻目に、行軍での疲れを癒すため、作戦会議と称して、己の身体を休める司令官が多い中、彼は、ここまで行軍してきた兵を先ず休ませると共に、治癒士にお願いして、傷ついた兵達を治療した。
自分はその間、片時も休まずに、砦を走り回って、状況の把握に努めていた。
陛下が内密に私達障壁魔法士をお集めになり、彼と共に向かってくれる者はおるかとお尋ねになられた際、自分達以外には誰も手を挙げなかった。
ここで手を挙げておけば、陛下の覚えも良くなるのが分かっていたにもかかわらずだ。
あの時は、コゼットに悲しい思いをさせたくないと2人で手を挙げたが、今は、申し出た自分達を誇りに思う。
さあ、自分達の力の見せ所だ。
存分に働いて生き残り、殿下には、この国をもっと良くしてもらいたい。
一部の貴族だけでなく、皆が笑って暮らせる社会を作って欲しい。
敵の魔法部隊が攻撃を仕掛けてきた。
2人で障壁を全開にして、はったりをかまさなければ。
3日が経った。
なのに、援軍が来る様子は微塵もない。
最初の盛大なはったりのお陰で、それからの敵は、集中砲火を避け、時々、思い出したように単発攻撃をしてくるだけだ。
恐らく、こちらの魔力がまだ残っているか試しているのだろう。
申し訳ないが、弓の攻撃などの物理攻撃はスルーさせてもらっている。
あくまで、直撃すれば被害の大きい魔法攻撃のみに対処していたが、大魔法士でもない2人では、それにも限度がある。
もう、ほとんど魔力がなかった。
交代で仮眠を取ってはいるが、お風呂どころか身体を拭いてさえいないので、大分、女の子としてのレベルが落ちた気がする。
こうしている間も、砦に近づこうとしてくる敵の重装歩兵に向けて、味方の魔法士が攻撃を加えているが、その手数も明らかに減ってきている。
歩兵だけは、殿下のお知り合いだという治癒士のお陰で、ほぼ万全の状態で臨めるが、いかんせん敵と数が違い過ぎる。
砦全体に不安が広がりつつあった。
「私が1人で捕虜として投降しよう。
それと引き換えに、皆の安全を保障してくれるよう頼んでみる」
暫く何かを考えていた殿下が、徐にそういった。
「いきなり何を言うかと思えば・・。
私は反対です。
力で押し通せば勝てる相手に、敵が譲歩するとは思えません」
「私も反対します。
私にはまだ魔力が十分残っています。
前線で戦われる皆さんの手当てなら、幾らでもできます」
殿下のご友人らしき夫妻が強硬に反対する。
これまで殿下と共に過ごされてきた他の志願兵の方々も、口々に反対を表明した。
「有難う。
みんなの気持ちは本当に嬉しい。
・・でも、これしか皆を無事に帰せる案が浮かばないんだ。
諸侯の援軍を当てにして、安易に皆を巻き込んでしまった責任が、私にはある。
指揮官として、砦を守ってくれた兵達を、家族の元に帰す役目がある。
幸いにも、私は王族だ。
生かして捕虜にすれば、多額の賠償金が取れる。
その首に剣でも当てながら、皆が撤退するまでの時間は作れるかもしれない」
この言葉には、皆唖然とするしかなかった。
自分達の命を心配してくれるのは嬉しいが、ならば、自身の命も大切にしろと言いたい。
あなただって、結婚してからまだ1年も経ってないだろうと。
ここにいる志願兵の多くは、キーネルが街を駆け回り、知り合った者達だ。
ジルの紹介で知り合った者も多い。
当然、コゼットの事もよく知っている。
彼女を泣かす気かと、誰かが口にしようとした、まさにその時、蒼き風が強風となって、大地を吹き抜けていく。
怒りを孕んだようなその風に、思わず髪を押さえる。
風が止み、再び目を開けたその先には、安堵に顔を僅かに緩ませた殿下達がいた。
「また、助けていただいたようだね」
「ええ。
あの時は、裁きを受ける側でしたが、味方としてなら、こんなに心強い事はありませんね」
「あなた、もしかして、この風・・・?」
妻の問い掛けに、その男性は、軽く頷いただけであった。
セレーニア王国唯一の将軍にして最強の武将、マリー将軍。
前回の侵略戦争には当然参加していない私でも、その名前くらいは聞いた事がある。
強大な魔力だけではなく、その美しさにおいても、近隣諸国に名が知れ渡っている。
かの国の姫は、『セレーニアといえばエリカ姫』と子供が条件反射で答えるくらい、その美しさは他に類を見ない。
その陰に隠れて、彼女と一緒にいるとあまり目立たなかったかもしれないが、マリー将軍がもし1人で道を歩いていれば、誰もが振り返るであろう事は想像に難くない。
実際、初めて目にしたそのお姿は、美しさと生気に溢れ、そして、”女”特有の艶があった。
エリカ姫の時といい、これ程の女性のお相手が一体誰なのかと噂にならないところをみると、多分、そういう事なのだろう。
そうであれば、この一方的な戦闘にも説明がつく。
いや、戦闘と言うより、蹂躙と言った方が正しいかもしれない。
一体他に誰が、こんな事ができるであろうか?
6000の兵士を、僅か10分足らずで壊滅させてしまった。
しかも、どうやら手加減していたらしい。
彼女の呟きを聞いた殿下が、真っ青になっている。
慌てて彼女にお礼を言いに走る殿下を尻目に、私は夫に声をかける。
「殿下がお一人で投降すると仰った時には、どうなる事かと思ったけれど、とりあえず、みんな無事でよかったわ。
これだけの規模の戦争で、1人も犠牲者が出ないなんて、考えられないもの」
「そうだね。
・・ただ、殿下にはもう少しご自分を大切にしていただかないと。
・・先程の蒼い風、僕の気のせいでなければ、神様は少しお怒りだったんじゃないかな」
帝都に戻った私達は、市民の方々からの大きな歓声によって迎えられた。
ただでさえ、兵力が10倍以上も違う敵に対して、しかも、先のセレーニア戦において大敗を喫したキーネル殿下が指揮をとるというので、あまり期待されていなかったせいもあり、戦死者を1人も出さなかったという異例の結果に、皆驚き、そして、喜んでいた。
セレーニア戦においても、そして今回の戦争でも、人の力ではどうする事もできないお力の介入によって、その結果が出ている。
前回は、こちらに運が無かった。
今回は、相手の運が悪かった。
ただ、それだけの事でしかないはずなのに、人々の反応はこうも違う。
勝てば官軍。
本当に、その通りだわ。
その戦いの中で、誰がどれ程頑張ったかなんて、参加しない人には、分かりはしないもの。
マリー将軍が助けてくれなかったら、あんなに頑張って障壁を張り続けてくれた彼女達も、ずっとみんなのために駆け回っていた殿下も、評価などされない。
そう考えると、なんだか少し切なかった。
それから6年が過ぎた。
日々があっという間に過ぎていく。
ロッシュは、ソナさんへの個人授業が終わり、手が少し空いたところに、キーネル殿下からのご相談が増えて、その忙しさはあまり変わらない。
夜も遅くまで自室に籠もって沢山の書物に目を通し、殿下からのご質問に備えている。
ソナさんは、それまでアルバイトとして家で働いていたが、成人を機に、月に金貨1枚で正式な従業員として働いてもらう事にした。
ロッシュが浴場の番台に座れない日も多くなり、代わりにソナさんがフルタイムで働いてくれ、食事の用意までしてくれるようになっている。
家で働く事で、十分なお金が貯まっていたソナさんに、彼女が17になった時、高等学校に通いたいか尋ねてみたけれど、彼女は、できればこのままロッシュに教わりたいと望み、ロッシュも、魔法以外なら、もう3年かけて通う必要もないだろうと言って、そのまま教えていた。
それも、その1年後には、もう基本的な学問では教えることはないと彼に言わせる程になり、座学はやめ、その時間を、料理や裁縫、魔法の習得、経理などに充ててもらっていた。
特に魔法は、私が暇な時に治癒魔法を教え込み、普通のヒールなら、患者相手に使用できるまでになっている。
成人になり、すっかり大人びたソナさんには、浴場の利用客にもファンが大勢いて、わざわざ彼女目当てに毎日通ってくる人もいる。
彼女の母親やその友人達もずっと家で働いてくれている。
勿論、皆、正式な従業員だ。
ただ、こちらは浴場のみの仕事をしてもらっているので、家事や私の仕事の手伝いまでしてもらっているソナさんとは、若干賃金に差をつけさせてもらっている。
それでも、単純な肉体労働で月に銀貨80枚というのは破格なので、皆大喜びで働いてくれている。
フルタイムで働ける人数が増え、街の治安も格段に良くなってきたので、浴場の営業時間をさらに22時までに延ばし、1日3回お湯を入れ替えるようになったが、相変わらず、次の日には魔力量が全回復していた。
なので、買い取った隣の屋敷の塀を撤去し、その庭に、かねてから要望のあった、貴族用の浴場を造った。
領地持ちの上級貴族でもない限り、その屋敷にある風呂はとても狭い。
たまには伸び伸びと手足を伸ばして湯に浸かりたい方々や、1人でも入れはするが、まだ親と一緒にお風呂に入りたい小さなお子さんのいらっしゃるご家庭に大変好評で、男女2つの、それぞれ5人程度が入れる大きさの物を造ったけれど、ほとんどの方はその内の1つを2時間程度貸切って、ご家族で楽しまれる。
料金も、個人なら銀貨1枚、貸切なら、1時間当たり銀貨3枚にしたことで、下級貴族の方々でも気兼ねなく利用できたのがよかったのであろう。
因みに、こちらは貸切の度にお湯を入れ替える。
通常の浴場の6分の1の大きさしかないので、そうする事で、より人気を博した。
ただ、これだけ頻繁にお湯を入れ替える作業があると、時間のかかる往診は、浴場の営業前にしか行けなくなり、命に関わるような急患以外は、午前中しか往診の予約を受けることができなくなってしまった。
これまでに、あらかた近隣の重症患者の治療は終えていたので、療養所で診るだけでも事足りたのが救いである。
自警団の方も、浴場の営業時間の延長に合わせて、23時まで自主的に見回りをしてくれた。
ドガ王国が攻めて来たことで、市民の間にも防衛に対する意識が高まり、参加希望者がより増えたお陰で、1日の見回り時間を半分に分けて、各自がより短い時間で済んだ事がそれを後押しした。
参加してくれた人には、新たに作った浴場の入浴券を渡し、当日か次の日に無料で入れるようにした事も、喜んでもらえたようだ。
新しい友人もできた。
6年前の戦争で、皆を守るためにずっと障壁を張り続けてくれていた2人の女性、ベニスとアニー。
彼女達とは、キーネル殿下を通して仲良くなった。
先の戦争における功績が評価され、また、殿下の奥様のご友人でもあった2人は、平民出身としては異例の、殿下本人の護衛任務を授かり、近衛とは別の、奥様を含めたご家族のみの護衛官として、独立任務に就いている。
頻繁に我が家に出入りする殿下のお供で、何度も館に来るうちに、殿下と夫の長い話し合いの待ち時間に入った浴場をひどく気に入り、仕事が休みの日も顔を見せるようになって、入浴後は、私やソナさんとお茶や食事を楽しんだ。
その際、王宮での殿下と奥様の遣り取りなどを話して下さることもあり、奥様をとても大切にされている殿下に、2人共、心底忠誠を尽くしているように見えた。
人々が、己の明日の命を心配することなく、日々楽しく暮らせるのは、世が平和であればこそ。
そんな、皆のささやかな願いを踏みにじるドガ王国の足音が、直ぐそこまで迫っていたと知るのは、それからまもなくの事であった。
「再びドガ王国が攻めて来た」
いつもは徒歩で家まで来る殿下が、珍しく馬を使って駆けて来たと思ったら、開口一番にそう告げられる。
「今度は敵も本気だ。
早馬の知らせでは、同盟国を巻き込んだその数は約10万だそうだ」
「10万?
・・微妙な数ですね。
あちらが本気なら、その倍は出せるはずですが」
「もしかしたら、後続部隊を用意しているのかもしれない。
何れにしても、今帝都にある戦力だけでも援軍に行かねば砦の兵は全滅する。
再び志願兵を募る事になるだろう。
できれば、君達にも参加して欲しい。
今回はリサさんの力が是非とも必要になる」
キーネルはそれだけ言うと、慌しく城へ戻っていった。
「聞いていた通りだ。
今回ばかりは流石に魔法の出し惜しみはできないだろう。
君の魔法がなければ、多くの人が死ぬ。
・・だが、それが分かっていても、心の中では君を参加させて命の危険に晒したくないという思いの方が強い。
前回は6000程度の兵で、援軍が来るとも考えていたから、少し楽観的に判断できた。
だが今回は、少なくとも10万いる。
戦いに絶対はなく、かなりの混戦が予想される場所に君を参加させて、もしもの事があったら、悔やんでも悔やみきれない。
・・人のために役に立ちたいと常々考えてはいても、大勢の人の命と君の命を秤にかけたら、躊躇いなく君の方をとる。
僕はそんな人間なんだ。
・・殿下には悪いが、無力な僕1人で行きたいと言ったら、君は笑うだろうか」
戦う力を持たない自分を情けなく思いながらも、もう2度と、愛する者の命の心配をしたくはない。
そんなロッシュの気持ちを正確に理解しながら、敢えてリサは言う。
「笑う訳ないじゃない。
私だって、皆が幸せになれればいいと、そう考えてはいても、もしそれと引き換えに、あなたを失うのだとしたら、多分、何もしないわ。
あなたと2人、静かに暮らす道を選ぶ。
私は神様ではないから、全てに最高の結果を出すことなんてできない。
だから先ず、自分が絶対に欲しいものだけは、最初に取っておくの。
その上で、他にもできる事があれば、そうしたいと思う。
・・・神様が私にくれた魔法の話をした時、あなた言ったわよね?
『神様が、君が戦争に参加するのをお喜びになるとは、とても思えない』って。
では何故、普通の暮らしには必要のない上位の回復魔法までお授けになったのか。
前回の戦争から、時々考えてきたの。
・・私なりの結論を言うとね、きっと、私達2人だけでは、心から笑えないからだと思うわ。
・・皆と知り合う前の2人なら、お互いに相手さえいてくれたら、それで満足したかもしれない。
お互いの肌の温もりだけで、きっと幸せだと思えた。
・・でもね、私達は知り合ってしまったの。
殿下と。
ソナさんと。
ベニスやアニーと。
この街に住む、大勢の人達と。
・・彼らを見殺しにして、自分達の事だけを大事にしても、彼らのことを思い出す度に、お互いに笑いあった日々を思い浮かべる度に、心が少しずつ悲鳴をあげていく。
そんな傷ついた心では、好きな人の前でも、本当の笑顔を見せられない。
だから、それを案じて下さった神様が、この魔法を授けてくれた。
・・そう思うの。
・・お互いの命を心配するのは、最後の最後、本当に他に何もできなくなった時でいい。
それまでは、できる限り、他の人達のためにも足掻いてみたいの。
駄目かしら?」
リサは、あくまで穏やかに、自分の考えを淡々とロッシュに告げる。
彼の判断に、最終的には従うつもりなのだろう。
彼女の問いに答える前に、ロッシュは長い溜息をついた。
「神様が君に魔法を授けた理由が分かるよ。
僕なんか比べ物にならないくらい、器が大きい。
君の前では、自分が駄々を捏ねる子供のようにすら思えてくる。
・・正直、君の話を聞いた今でも、僕は自分の考えを間違っているとは思わない。
今の僕が生きるための原動力となっているのは、間違いなく、君だからだ。
でも、君がそう言うなら、その意志を尊重しよう。
君には何時でも、心から笑っていて欲しいから。
そのくらいしか、僕にはできないから」
そう言って、寂しげに笑うロッシュ。
「支度をしよう。
集合に遅れる訳にはいかない」
自分の部屋に行こうとするロッシュに、リサは少し後悔しているような声で告げる。
「有難う。
でも忘れないで。
私だって、あなたが何より大切なの。
それだけは、どんな事があっても、決して変わらないから」
6年前が嘘のように、王宮広場は人で埋め尽くされていた。
数万の志願兵が、殿下のお言葉に耳を傾けている。
それぞれの人が、自分だけの思いを抱いてここに来ている。
子供に未来を作るため。
愛する人の命を守るため。
故郷の思い出を失わないため。
戦う理由は人によって違っても、今の暮らしを守りたいというその願いは同じ。
大丈夫。
今回も、きっと皆で帰って来れるわ。
以前と同じ場所とは思えない程に整備された砦に着くと、直ぐ様殿下が指示を飛ばしていく。
「ロッシュ、君には今回軍師として参加してもらいたい。
防衛戦とはいえ、事態は刻々と変化していく。
戦場全体を見渡し、臨機応変に指示を出してくれ。
専属の、音の増幅魔法士をつける。
それから、これを渡しておく。
リサさんもどうぞ」
キーネルはそう言うと、彼らに眼鏡を渡す。
「それには遠視の魔法が込められている。
また、魔導船の技術を応用して、日の光などを遮断する機能も付いている。
暗い場所では、レンズに微弱な光が集まる事で、昼間同様とはいかないが、ある程度までは見える」
「リサさんは、砦から皆の治癒を頼みます。
治癒術士の部隊長には話を通してありますから、ご自分の判断で、自由に動いてください。
この戦いでは、あなたとカインの働きによるところが大きい。
期待しています」
そう言って、行軍途中の休憩の折に、他部隊から殿下ご自身が引き抜いてきた青年に目をやる。
自分達とは少し離れた場所にいるその青年は、静かに目を閉じ、何かを考えているように見えた。
「では、私も持ち場に戻ります。
・・お互い、無事に帰りましょう。
”私達の”リベラに」
断続的な敵の魔法攻撃を受け続ける中、殿下の声が響く。
「・・・開門!!」
それを待っていたかのように、蒼い風が吹いた。
「重装歩兵隊、中央、突出し過ぎるな!
ラインを崩さないで。
弓隊、左から来る魔法部隊を狙って!
歩兵隊は一旦砦近くまで退避。
敵の魔法攻撃に備えるんだ!」
ロッシュが休みなく指示を飛ばす。
「魔法部隊の方々は大規模魔法の準備を。
敵の攻城兵器を近づけないでください。
右側の弓隊に敵の魔法が被弾。
至急治癒を」
死なせん。
誰一人、死なせはしない。
今のロッシュの心には、その思いしか存在していない。
リサがああ言った以上、自分はそれを手伝うしかない。
剣で守れないなら、的確な判断を下して、皆が戦い易い状況を作るしかない。
最前線で敵の猛攻を耐え忍ぶ重装歩兵に、リサのラインヒールが連発される。
「重装歩兵隊、前2列は隊の最後尾まで下がって!
一旦身体を休めてください。
ベニス、アニー、敵の大規模魔法が来るぞ。
3、2、1、障壁発動!」
間一髪で張られた障壁に、渦巻く豪火がぶち当たり、周囲に微弱な炎を撒き散らす。
「弓隊、今だ。
発動直後の無防備な魔法部隊に一斉攻撃!」
リサ、どうか無事で。
生きて帰って、また一緒に貸切風呂にでも浸かろう。
リサはもう何回治癒魔法を発動したか分からない。
最初こそ個別のヒールで済んだが、1人、もの凄い強さで敵を倒していくカインという青年にリジェネレーションを付与した後は、全く歯が立たない彼を避けて、他の部隊を攻撃する敵が増え、1人1人回復していたのでは間に合わないと判断した彼女は、ラインヒールとヒールウェイブに切り替えた。
ラインヒール。
文字通り、横一列を1度に回復するこの魔法は、重装歩兵隊が列を作って敵の侵入を食い止めるのに非常に役立つ魔法である。
ヒールウェイブは、押し寄せる波のごとく集団を回復する、現時点での回復魔法の最上位であり、術者の魔力により、その効果と範囲が異なる。
通常なら、その効果の程は、各人の致命傷にならない程度の怪我や病気を治療するくらいで、範囲もせいぜい半径30mもあればいい方だ。
だが、リサの魔法は違う。
瞬時に致命傷まで回復させ、しかもその効果範囲は半径50m近くある。
さらに、それを連発できるのだ。
彼女が初めてその魔法を使用した時、それを目の当たりにした他の治癒術士達が、怯えながら、『ここは1人で大丈夫』と、皆何処かに散って行った程である。
しかし、そんな絶大な魔力量を誇る彼女にも、人の身であれば、やがて限界は訪れる。
膨大な魔力量を必要とするヒールウェイブの連発で、流石の彼女も、魔力が尽きかけていた。
「あれは、鍛冶屋の旦那さん。
何であなたがここに居るのよ。
ついこの間、子供が生まれたって喜んでいたじゃない!」
ヒール。
「あの人、昔私が仕事を掛け持ちして疲れていた時、美味しい物でも食べなって、心づけをくれた・・」
ラインヒール。
カインの活躍に怯えた敵兵達が、彼が自分達の本陣を落とす前に、何としてもこちらの砦を落としてしまおうと、必死の形相で攻撃を仕掛けてくる。
ヒールウェイブ。
不味いわ。
このままでは、あと1発くらいしかヒールウェイブが打てない。
皆どうか頑張って!
・・その時、彼女の視界に、砦の城壁から全体の指揮を執るロッシュ達目掛けて、敵の大規模魔法が飛んで行くのが映った。
寸前で障壁魔法が展開されたが、彼女達も、もうあまり魔力が残っていないのか、完全には防げず、彼が炎を浴びる。
「ロッシュ!!!」
彼女は直ぐ様ヒールウェイブを発動する。
もう、1発しか打てないことは分かっていた。
ここで使えば、あとはヒールを数発くらいしか使えないだろうという事も。
その結果、彼女の治癒を受けられなくなった、他の大勢の人達が死ぬかもしれないという事も。
・・それでも、彼女に迷いは全くなかった。
彼を失ってしまっては、私のしている事に、何の意味もなくなるから。
彼が側にいて初めて、私は前に進めるのだから。
「・・御免なさい」
そう呟いた彼女の目の端から、涙が細く流れ落ちていく。
前線を支える重装歩兵達に向け、魔法が連発されようとしている。
見ていられない彼女が、下を向こうとした、まさにその時・・周囲の空間が、蒼穹のごとく蒼く染まっていった。
「久しぶりだな。
そんな所で何をしている?」
驚いて周囲を見回す彼女に向けて、聞き覚えのある、優しい声がかけられる。
蒼く染まった空間に、自分以外、身動きする者はいない。
まるで、時が止まったかのように、びくともしない。
声の主の姿は見えないが、忘れることのできない、忘れるはずがないお方のものであるのは明白だ。
「何で泣いているんだ?
我は君に幸せになってもらうために魔法を授けたのだ。
こんな所で戦って、自分の無力を噛み締めるためではないぞ」
何も言えないリサに向かって、再び声がかけられる。
「神様、では何故上位の回復魔法まで下さったのですか?」
とても優しい、彼女の心を癒すようなその声色に、どうにか彼女はそれだけを口にする。
「別に深い意味などない。
あれば便利だろうと、ただそう思っただけだ」
「・・それだけ、なんですか?
私に大勢の人を救えというおつもりはなかったのですか?」
意外なことを言われ、驚きで声が高くなるリサ。
「そんな事を言った覚えはないぞ。
・・君達は、どうにも真面目過ぎる。
力を与えた者に、時として我の代わりに何かを頼む事はある。
だがそれは、あくまでその場限りのものでしかない。
人生は、1度きりの、その者だけが謳歌する権利を持った宝物だ。
それをどう使うかは、その者が自らの意思で決めること。
我は人の人生を、縛るような事はせん」
「でも、頂いたお力を、自分の幸せのために使えば使う程、心の輪が広がり、大切にしたい人達が増える。
そういう方々を、できる限り救いたいと思うのは、間違っているのでしょうか?」
「人を思いやり、その手助けをして、共により良い未来を歩もうとする者の、その志は尊い。
だが、そればかりを優先し、本来の目的であるはずの、自分の幸せが何だったかを忘れ、結果的にそれを蔑ろにする者を、我はあまり好きではない。
自身が幸福でない者に、他人を真に幸せにできるとは思えないからだ。
君は先程、彼を助けた。
自分が本当に大切なものを守るために、自身にとって正しい選択肢を選んだのだ。
それで良いではないか」
「・・・神様が私を助けて下さり、頂いたお力で、暮らしも豊かになりました。
人々の手助けをする度に、向けられた笑顔が、心を豊かにしてくれました。
お力を頂く前の、何もできない私なら、ロッシュさえいれば、彼だけしか幸せにできないから、何とも感じなかったかもしれません。
でも、そのお力で、彼らと関わってしまったから、彼らの思いを、笑顔を知ってしまったから、心が痛むのです。
助けられたかもしれないのに・・と。
・・以前より欲張りになってしまった私は、彼らを見捨てたら、きっと心から笑えない。
大切なロッシュに、本当の笑顔を見せられない。
・・お願いです、神様。
もう1度だけ、お力をお貸し下さいませんか?
どうか、彼らを助けてください」
姿の見えない存在に向かって、魂を搾り出すような声で、そう願うリサ。
その返答を得るまでに、僅かな間があった。
「病に苦しみ、大切な者を残して死んでいく者。
争いで命を奪われ、志半ばで土へと還る者。
それら全てを助けていたのでは、この世から、人の成長を促す、苦しみや痛み、悲しみや後悔といった負の要素が失われてしまい、人は退廃してしまう。
故に、我はそれら全てを助ける訳ではない。
また、一方に介入し、力を貸すという事は、別の見方をすれば、他方の可能性を潰すという事でもある。
我が必要と判断してそうするならともかく、他者の願いでそれをする以上、何か、我を納得させるだけの代償が必要だ。
君は一体、何を支払うのだ?」
それまでの、優しいだけの声音ではなく、そこには何かを審判するような厳しさも含まれていた。
「何も。
何もお支払い致しません。
”私が幸せに生きて”、周りの皆にもそれをおすそ分けして、神様がお創りになったこの世界を、より素晴らしいものにしていきます。
・・それでは、駄目ですか?」
「・・合格だ。
”人のために”働くとか尽くすとか、まだそんなことを言ったならば、願いは聞かなかった。
忘れるな。
それは結果であって、目的ではない。
自分のために生き、その幸せを追い求めた結果に過ぎぬのだ。
我は”君に”幸せになって欲しかった。
人の為に働いて欲しかったのではない。
・・叶えよう。
君の望みを。
ただし、我も忙しい身故、君に新たな力を授ける形で」
リサの右手の薬指にリングが生じる。
「この力は、人には過ぎた力だ。
本来なら、人に与えるべきものではない。
よって、君を我が眷族に迎え入れる事で、その能力の一部を先渡しするという形にしておく。
君が真にそう望んだ時、君の前に光輝く門が現れる。
それを潜れば、我が眷族の一員として、新たな道を歩む事になる。
眷族になる際、容姿はその者が最も美しく映える歳まで遡るので、焦る必要はない。
ロッシュと2人で来るがよい。
もし、もう十分生きたと思えるならば、リングは消滅し、門は現れない。
・・これからも、2人、仲良くな」
蒼穹のごとき空間が、次第に元に戻っていく。
「・・有難うございます。
あなた様は、最後までお優しかった。
きっと神様にも、大切なお方がいらっしゃるのですね」
そう口に出すリサの頭の中に、新たな回復魔法の術式が見える。
しかも、魔力が全回復し、今にも溢れ出しそうな感覚がある。
シールドヒールと魔力の泉。
新たに加わった、その能力を確認し終えた彼女の周囲の時間が戻る。
「シールドヒール」
口に出す必要のない術名を、思わず声に出してしまう程の効果。
今まさに魔法を浴びようとしていた重装歩兵隊の前に、不可視のシールドが張られる。
同時に何発もの魔法をくらったはずの兵達が、逆に勢いを盛り返して敵を攻撃し出す。
シールドヒール。
障壁魔法とヒールウェイブを合わせたような効果を持つこの魔法は、攻撃によってシールドに加えられた魔法力を、そのまま治癒魔法に変換して、後方の味方に流していくというもの。
相手の魔法力が強ければ強い程、より強力な回復魔法となって味方を癒す、魔法士達にとっては最悪の回復魔法である。
戦場全体を見渡す。
溢れる魔力を背景に、片っ端からシールドヒールとヒールウェイブを連発していく。
神様にああ言った以上、誰も死なせはしない。
皆で帰って、また楽しく暮らすんだ。
力の先渡しと仰ったけど、十分生きたと思えたら、眷族になる義務まで免除して下さった。
・・義務?
いや、違う。
断じて違う!!
それは栄誉だ。
この上ない名誉だ。
ロッシュと2人、晴れて神様にお会いするその日まで、頂いたお力に恥じない生を送ろう。
それは他でもない、この”私の為”だから。
「敵の圧力が急に弱まったな」
「ええ。
敵陣営に単独で切り込んだ彼が、どうやら敵の将の1人を討ち取ったようですね。
一部の兵達が敗走しています。
本陣が落ちるのも時間の問題でしょう」
「・・それはそうと、リサさん、本当に人間なのかい?」
少し前から、信じられない魔法を連発している彼女を見ながら、キーネルが、からかうように尋ねてくる。
「・・多分。
時々、自分でも疑わしく思うことはありますけど。
・・まあ、僕にとってはどうでもいい事ですけどね。
彼女は彼女ですから」
「相変わらず、仲が良いね。
羨ましいよ」
「殿下だって、奥様にぞっこんだと聞いてますよ?」
「・・あの2人か。
まあ、お互いに、仲が良いのは良いことだ。
国の政なんて、極端な話、家庭の延長のようなものだからね」
リサの魔法で、衰えを知らぬ自軍の兵達が、敵を圧倒していく。
もう直ぐ戦争が終わる。
さあ、帰ろう、我が街に。
いつもの暮らしが待っている。
光陰矢の如し。
4年の月日があっという間に過ぎていく。
殿下は、前皇帝である父君から皇位を譲り受け、晴れてキーネル1世として即位された。
即位式での市民の熱狂ぶりは凄まじく、3日にわたって帝都の街中がお祭り騒ぎだった。
もう1つ、王妃コゼットとの間に、ここ数百年、王家に生まれてこなかった女の子が生まれ、これには帝都中がその家々の扉を花で飾って、その誕生を祝った。
前皇帝である陛下の父君は、いたくお喜びになり、その誕生日を国民の祝日にしてしまった程である。
帝位に就かれた陛下は、以前にも増して国民のために精力的に働き、数々の難事業を成功させ、エルクレールにその後400年の春をもたらす礎を作る。
国民の暮らしがより豊かになり、人々の心にゆとりが生まれて、それに触発されたかのように、それまで以上に文化の華が開いていく。
絵画の中にも、それまではあまり見られなかった風景画を多く見かけるようになり、こんなところにも、平和を享受し、人の心にゆとりが生まれている証拠が垣間見える。
だが、文化史上、キーネルの最大の功績は何かと聞かれれば、国民のほとんどが、こう答えるだろう。
「それならこれしかないね。
2大音楽祭を作った事さ」
セレーニアで生まれた管弦楽と、私の妻が始めた孤児院に、その端を発する声楽。
この2つを大事に育て、専用の大ホールを国費で建設して、毎年その努力の成果を発表する場を設けた彼は、その内の1つ、声楽の祭典に、誕生したばかりの教団、「蒼き光」の初代教皇であるリセリーの名を冠した。
教団史のみならず、様々な分野において、賛辞と共に描かれている彼女の、声楽における功績は、ある有名なエピソードで語られる事が多い。
第2次ドガ戦争が終結し、その戦後処理が済んだ頃から、帝国内に多くの難民が流入するようになる。
敗戦国であるドガ王国とその同盟国は、帝国に莫大な賠償金の支払いを余儀なくされ、その国内はかなり疲弊していた。
その市民の中には、過酷な税の取立てで奴隷になる者も多く、そうでなくても、生活が立ち行かなくなった者や、親が戦死した子供などが、新たな暮らしを求めてさ迷い歩いた。
着の身着のままで帝国領内に何とか辿り着いた者達の中には、身寄りのない、小さな子供達も含まれ、お金もなく、働く手段も持たない彼らは、貧民街の片隅で、物乞いや、ゴミをあさって何とか生き延びていた。
皇帝として即位した後も、暇があれば民の暮らし振りを見て回っていたキーネルは、事の深刻さに心を痛め、宰相として側に控えていたロッシュに相談する。
彼はそれを、帰宅後に、妻であるリサに話した。
「私達で何とかしましょう」
子供達の惨状を聞いた彼女の第一声は、これだった。
第2次ドガ戦争は、リサの治癒士としての地位を不動のものにした。
上位の術士達が束になっても及びもしない魔力量と、その絶大な効果は、戦争に参加した者であれば誰もが知るところであり、彼女によって命を救われた者は数限りない。
人の命を秤に掛け、貧しい者を見殺しにしてきた当時の治癒士達の評判は当然悪く、人柄も良く、安価で最高の治療を施してくれるリサの療養所には、毎日大勢の人々が列を作った。
原則、貴族お断りの看板を掲げてはいるものの、同じ下級貴族の身で、礼儀と節度をわきまえた者には、友人として、こっそり治療を続けたのは言うまでもない。
時々、他の治癒士では手におえない病に侵された家族を連れて、上級貴族が訪れる事もあった。
そのほとんどは、使いの者を寄越し、多額の報酬をちらつかせて、横柄に命じる事が多かったが、それには彼女は見向きもしなかった。
その事にプライドを傷つけられた上級貴族が文句を言いに来ようものなら、逆にキーネルの逆鱗に触れ、最悪、領地の没収までされた事から、上級貴族といえど、本当に彼女の治癒が必要な者は、療養所に自ら赴いて、素直に頭を下げるしかなかった。
勿論、上級貴族の中にも、常識と節度を持った者はいる。
王宮での仕事を終えて、帰宅しようとするロッシュを待ち受け、丁寧に頭を下げて頼んでくる大貴族も中にはいる。
その場合は、決して彼らを粗雑に扱う事はせず、礼儀には礼儀で応えて、平民と同じ銀貨3枚でどんな病でも一瞬で治し、彼らから、最大限の評価を得た。
キーネルが後に進める、貧しい人々にあてた医療費の補助には、こうして、貴族の中にも、リサの治療を求める者が増えた結果、それまで暴利を得ていた治癒士達の経営が立ち行かなくなり、治癒行為に対する相場が安定した事が、大きく貢献している。
浴場経営は、魔力量の心配のなくなったリサによって、さらに大規模なものになる。
以前、大図書館で写本のアルバイトを頼んでいた下級貴族の屋敷の庭を借り、そこに男女別の、各30名がゆったり入れる浴場を建て、毎日2度、お湯を入れ替えた。
この施設のための人員も派遣するようにしたため、新たにソナの友人から従業員を3名雇い、ベテランの友人達の方をそこに向かわせて、賃金を各自、月に金貨1枚に引き上げて、管理してもらった。
営業時間を14時から20時までと、自宅の浴場より短く設定したが、以前より魔力そのものが強化されたリサが、お湯の入れ替え作業にほとんど時間がかからなくなったため、時間のロスなく営業できるようになり、この浴場だけでも月に金貨14枚以上を稼ぎ出す。
その半分を土地代として支払われた当主の男は、感激し、前にも増してロッシュ達に傾倒するようになり、その能力も優秀であった事から、後に彼の部下として、王宮の重要な地位に就くことになる。
キーネルとロッシュは、国の重要なポストを上級貴族が世襲で独占していた弊害をなくすため、このように、自分達が知り合った者の中から、意欲と能力ある人材を探しては、少しずつ、その地位を分け与え、上級貴族といえど無能な者から、その地位を奪っていった。
当然、その事に反発する者もいるにはいたが、ある大貴族が反乱を起こした際、友好国としてキーネル側についたセレーニアから派遣されたマリー将軍の前に、何もできずに敗れ、領地を全て取り上げられたのを見せつけられて、文句を言える者はいなくなった。
ロッシュの浴場経営の成功は、地方の貴族達の知るところとなり、リサのような人材はいなくても、侵略戦争を放棄し、教団が誕生して、その剣として活躍したカインなどのお陰で治安が良くなった結果、抱えている魔法士達の魔力をそれに充てることが可能となって、小規模ながら、同様に浴場経営に乗り出す者が出始める。
それは、キーネルが興した上下水道の建設事業と相俟って、やがて、国による公衆浴場の普及へと進んでいく。
神より返却された風の魔結晶は、新造した魔導船に取り付けられ、それは戦ではなく、近隣諸国に航路をもつ移動手段として用いられた。
最初は、魔導砲を備えた船が領空を通過する事に各国が反対したが、和也がエレナを通して深緑竜に話をつけ、空の安全を確保した事がセレーニアからエルクレールに間接的に伝わると、キーネルは、直ぐ様魔導砲を取り外し、各国の了解を得た。
セレーニアとは毎日往復2便、それ以外とは、毎日往復1便の空の定期航路が生まれた結果、盗賊の心配をせずに荷物のやり取りができるようになり、貿易業をはじめとした商業が非常に盛んになる。
また、暮らしの豊かさを反映して、魔導船に乗って他国に観光旅行をする者も増え、航路開拓と共に、それまで以上に諸外国に門戸を開いたベルニアのお陰で、セレーニアは、一大観光国として栄えていく。
そんな、かの国との距離が一段と近づいた頃、孤児院開設に向けて慌しく準備をしていた私達の下に、誕生してまだ間もない教団である「蒼き光」の教皇、リセリーが訪ねてきた。
「私にもお手伝いさせてください」
何でも、神が、ここで子供達に声楽を教えるようにと彼女に告げたという。
「大変有難いお話ですが、私共は音楽にはあまり縁がなくて・・。
何もかもお任せする事になってしまいますが、それでもよろしいでしょうか?」
神の御意思と言われれば、私達に断るという選択肢はない。
ただ、妻共々忙しい身ゆえ、全く経験のない事にまで、これ以上時間を割けなかった。
「勿論です。
こちらの場所をお貸しいただいて、週に2回、各2時間くらい子供達を私に預けていただければ、それだけで結構です」
「それならば、何の問題もありません。
よろしくお願い致します」
こうして、以前買い取った屋敷を改装して、丸ごと孤児院として使い、初等教育と子供達の基本的な世話はソナさんに、声楽はリセリーさんにお任せして、何とか孤児院としてもスタートを切ったのである。
「リセリーさん、少しご相談が・・」
いつものように授業に向かおうとした彼女を、ソナが呼び止める。
「何でしょう?」
「実は、つい最近ここに連れて来られた子なんですが、時々、どうしようもなく暴れだして、手に負えなくて困っているんです。
その子も声楽の授業に参加させてもよろしいでしょうか?」
「ええ、勿論。
・・ただ、その前に1度その子に会わせてもらえますか?」
「分かりました。
直ぐに連れて来ます」
彼女に連れられてきたのは、まだ9歳くらいの少年だった。
「今日は。
私はリセリー。
あなたのお名前は?」
「・・・ダニエル」
「ダニエル。
私の眼を見て」
下を向いていた少年が、彼女の眼を見た途端、その身体が少し揺れて、そのまま動かなくなる。
リセリーの瞳が蒼く輝き、彼女の魔眼が少年の心と記憶を読んでいく。
それは、和也が使うジャッジメントには到底及ばないが、その心に蟠る思いや、強く残っている記憶を垣間見ることくらいはできた。
暫くして、彼女が少年の頭を撫でると、少年は何もなかったかのように、動きを取り戻した。
「今日はいい物を持ってきてるの。
少しお話しましょう」
心配そうに見つめるソナに目配せして、2人だけにしてもらう。
「はい」
彼女は鞄から、良い匂いのするパンを取り出して、少年に渡す。
「美味しいわよ。
遠慮しないで食べて」
戸惑う少年に、笑いかけながら、自分も同じパンを取り出して食べ始める。
「うん。
相変わらず、アンリのパンは絶品ね」
本当に美味しそうに食べる彼女を見て、ダニエルもそのパンにかぶりつく。
『美味い。
何だこれ、めちゃ美味い!!』
思わず声に出しそうになって、慌てて口を閉じる。
食べながら、彼女が話しかけてきた。
「人を殴って、それで気が晴れるの?」
「・・・」
説教されるのかと思って、何も答えない少年に向け、彼女は話続ける。
「こんな時代だもの、生きていれば、辛い事や悲しい事は、幾らでもあるわ。
それを黙って耐えていれば、いずれ心がその重みに耐え切れなくなって、はけ口を求めるようになる」
彼女の顔を見れずに、黙々とパンを食べるしかできない少年。
「人に危害を加えて、その痛みを他人に移すことで、一時的にはすっきりするかもしれない。
・・でもね、それでは本当には解決できないの。
暴力を振るって解消しようとしても、心に少しずつ溜まっていく澱は、また直ぐに別の相手を欲しがるわ。
・・だから、そういう時は、皆で歌を歌うの。
悲しい時、苦しい時は、皆と歌を歌って乗り切りなさい。
・・大丈夫、共に歌ってくれる皆が、君の気持ちを軽くしてくれる。
皆でその気持ちを分かち合ってくれるわ。
そうして流すその涙が、荒んだ心を奇麗に洗い流してくれる」
「・・・でも、俺、泣けなかったんだ。
・・母さんが、あいつらに殺されていくのを見ても、涙が出なかった。
悲しかったのに、悔しかったのに、泣く事ができなかったんだ。
そんな俺が、今更泣いてもいいのかな。
それじゃあ、母さんが浮かばれないんじゃ」
先程魔眼で見た、その場面の壮絶な光景を思い出す。
正直、彼女でも吐き気がする程の、あまりに酷いその光景。
まだ幾らも生きていない子供が、耐えられただけでも驚きだ。
強いショックを受けて、泣けなくなるくらい当たり前の事だと思う。
「そんな事ない。
お母さんは、きっとあなたが無事に生きている事を喜んでいるわ。
泣いて、怒って、喜んでいるあなたを見て、きっと安心してる。
・・だから、そんなに自分を責めちゃ駄目」
「・・うん。
分かった」
「さあ、音楽の時間よ。
皆で心のお洗濯をしましょう」
未だ納得しきれていない少年を連れ、音楽室へと向かった。
「今日は皆で新しい歌を歌いましょう」
ダニエルを連れてやって来たリセリーは、そう言って、新たな楽譜を子供達に渡す。
エルフの職人が気合を入れて製作したグランドピアノに座った彼女が、穏やかな、優しい音色の曲を弾き始める。
それに暫く耳を傾けていた子供達が、少しずつ音に合わせて歌い始めた。
次第に数が増え、大きくなっていく歌声。
歌う者の心に、それぞれの思いを映し出すその音色は、ダニエルの固く閉ざされた心をも、ゆっくりと癒していく。
不意に、彼の心に母の声が浮かんでくる。
『お腹一杯になった?
足りなかったら、母さんのを分けてあげる』
父さんに死なれ、代わりに一生懸命働いてくれた母さんは、少ないご飯をいつも自分に分けてくれた。
子供達が歌う。
『寒いの?
じゃあ、母さんが温めてあげる』
すきま風が差し込む粗末な家で、寒さに震える夜は、そう言って、いつも母さんが温めてくれた。
『かあ・・さん』
子供達が歌う。
『心配しないで。
母さんは、あなたさえいてくれたら、それだけで幸せよ』
遅くまで働いて、疲れている母さんを心配して言葉をかけても、いつも笑ってそう言ってくれた母さん。
『かあ、さん』
子供達が歌う。
『・・逃げて!
あなたは生きて、しあわ、せ、に・・なっ・て』
盗賊に村を襲われ、家に入り込んで来た男に抱きついて、何度も刺されながらも、自分が逃げるまで男を放さず、時間を稼いでくれた母さん。
『母さん!』
少年の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「かあ・・さん、かあ、さん、・・母さん!」
長く閉ざされていた心の扉が、軋みをあげて、今、開かれる。
共に歌う子供達も、ここに連れて来られるまでの辛い記憶を思い出し、涙をその歌声に乗せて、響かせる。
『母さん、有難う。
俺を産んでくれて、愛してくれて、そして、助けてくれて。
・・俺、母さんの分まで頑張って生きるから。
精一杯、生きるから。
・・だから、安心して、眠ってください』
その日の音楽室は、窓から差し込む日差しがいつもより、少しだけ、暖かかった。
指導を終えたリセリーが、1人、足早に、彼女の控え室まで向かっている。
部屋に入るなり、自分の右手のリングから、1冊の本を取り出す彼女。
その本の題名には、こう書かれていた。
『リセリーの日記』
平凡極まりないその題名は、和也が付けたものだ。
以前、教団を立ち上げた彼女の下に、僅かな時間、和也が姿を現した事がある。
飛んで来て抱きついた彼女を、優しく抱き返しながら、お祝いに何か贈ろうと言う和也に、彼女は言った。
『交換日記がしてみたい』と。
【知識の部屋】で、様々な本を濫読した中に、ある星の高等学校に通う男女の恋物語があり、そこに描写された交換日記を自分でもしてみたくなったようだ。
渋る和也を、言うことを聞いてくれるまでは放さないと駄々をこねて、寂しい思いをさせているという自責の念にかられた和也が妥協した結果、生まれた産物である。
一方通行ではあるが、彼女の思いは和也に届き、時々は、何らかの反応を返してくれるので、リセリーも一応は満足している。
そこの新しいページに、彼女はこう書いた。
『許せない』
書いた直後、その文字が、赤い炎で焼かれたように消えていく。
リセリーは、それに満足すると、そっと本を閉じた。
同じ頃、帝都の辺境の山にある洞窟の中で、盗賊達が下卑た笑を響かせていた。
「ぎゃははは、聞いたかおい、あの男、『殺さないで』、だって。
無理に決まってんだろうに。
馬鹿じゃねえの」
「今日はいい女が1人もいなかったからよ。
皆殺しに決まってんだろ、なあ?」
他の者達も、酒を飲みながら、皆口々に殺した者を貶めている。
そこに、一陣の風が吹いた。
風が止んだその後には、全身黒ずくめの、1人の男が立っている。
それに気付いても、盗賊達は何も口に出さない。
その男が発する怒りのオーラに気圧されて、口が利けないのだ。
男の眼が、爛々と真紅に輝いている。
「汝らに、我が世界で生きる資格なし」
死を間近に感じた男が、必死に声を出そうとする。
『こ、殺さないで』
その瞬間、核爆発でも起こしたように洞窟内が豪炎に包まれる。
直前に、和也が周囲に障壁を張り巡らしていなければ、国ごと消滅したかもしれない。
それ程の、爆発であった。
親をなくし、夢と希望を失って、辛い放浪の末、なんとか辿り着いた平和な国、エルクレール。
そこでも、生きる事にしがみ付かなければ、明日の日差しを浴びる事さえ難しかった、そんな子供達。
リサの開いた孤児院は、そんな彼らにとって、最後の砦であり、楽園でもあった。
誰もが初等教育まで無料で受けられ、毎日3度の十分な食事に、清潔な部屋と新しい服。
何より、週に2度、美味しいパンを山ほど持ってやって来る、美しい音楽の先生に、皆、心を奪われた。
大人になり、生きる力を十分に蓄えた者達は、ある者はロッシュの下で国のために働き、ある者は音楽の道に進んで、プロとなって貴族のサロンや諸国の行事で歌や楽器の演奏を披露した。
キーネルが作った2大音楽祭。
その声楽部門であるリセリアでは、毎年多くの孤児院出身者が集まり、彼女の為だけに、歌を歌いあげた。
孤児院出身で、そのリセリアで何度も金賞に輝いた男性声楽家、ダニエル。
彼は後に多くの後進を育て、様々な人々から、歌を上手く歌うコツを尋ねられる。
その時、彼は決まってこう答えたという。
「技術に頼り過ぎない事です。
上手に歌う事は、ある程度練習すれば、誰でもできるようになります。
大切なのは、心で歌う事。
その歌を歌う、皆の力を借りて、思いを表現する事。
聴いていただく人の心に、その歌を通して、思い思いの景色を映し出す事。
歌は、魔法なのです。
・・幸運にも、私はその事を、リセリー先生から学ばせていただきました」
「ねえ、あなたが持ってる『呟きの書』、その写本を売ってくれないかしら。
金貨100枚を教団に寄付するわよ」
リサは、リセリーとソナの3人でお茶を飲んでいた時、そう彼女に頼んだことがある。
ソナは、忙しいリサの代わりに孤児院の院長代理になり、毎月金貨3枚で働いてもらっていて、もう、ほとんど家族も同然だ。
「うーん、まあ、貴方ならいいけど、暫く時間がかかると思うわよ?
なにせ、既に予約が2件も入っているから。
・・彼女達からも、早く頂戴って催促されてるしね」
「「ックシュン」」
「・・危ない、もう少しで手元が狂うところだった」
大聖堂の装飾事業に取り掛かり始めたミューズが呟く。
「やだもう、粉まみれだわ。
よりによって、小麦粉をいじっている時にクシャミなんて。
誰よ、噂してるのは」
アンリが顔を真っ白にして愚痴をこぼす。
「あなた、お茶のご用意ができましたわ」
「旦那様、お待たせ致しました」
森の木陰で、頭の後ろに両手をまわし、大木に寄りかかりながら、遠くを見つめていた和也。
その彼を、エリカと紫桜が呼びに来る。
「また何処かの世界でもご覧になっていたのですか?
何かおもしろいものでもありまして?」
「いや、いつも通りさ」
「すべて世は事もなし。
旦那様のお陰ですね」
紫桜が、たおやかに微笑む。
「人々が、日々を大切にしているからさ。
お前達のようにな」
そう言って、2人の下に歩いて行く和也。
木々の間から差し込む朝日が、今日も素晴らしい1日になる事を、彼らに告げていた。




