エリカ編その18
和也がその羽音に気が付いたのは、王宮へ帰る道を歩き出してまもなく、樹人にもらった実の1つをいじりながら、エリカに連絡を取ろうとしている矢先のことだった。
隠密の魔法を掛けてはいるが、匂いまではごまかせないようで、樹人のくれた実が放つ、かぐわしい香りに惹かれて寄ってきたようだ。
和也が羽音のする方向へ目を向けると、緑色の幼竜がゆっくりとこちらへ向かって来るところだった。
どうやらこの実が好物のようで、物欲しそうな目をこちらに向けながら、多少の警戒心があるのか、和也の3m程頭上で停止した。
竜といってもまだ生まれて間もないのか、体長1mくらいしかないが、その身を覆う鮮やかな鱗はまるで質の良いエメラルドのようで、時折、月の光を反射して淡く輝き、顔つきはまだあどけないながらも、知性を感じさせる品のよいものだ。
おそらく、この幼竜がエレナから受けた依頼の竜だろう。
本来ならすぐ捕獲してエレナに渡すべきだろうが、和也が予想していたよりも遥かに理知的で、かわいらしい容貌のこの幼竜を、どこかの国の王族のペットにするために捕まえる気は、和也にはすでになかった。
こちらが何の動きも見せないことにじれたのか、頭上をゆっくり旋回し始めた幼竜に、1つくらいならと、樹人の実を差し出してみる。
見知らぬ相手に近づく危険と樹人の実を秤にかけたのか、幼竜はしばらく躊躇うように頭上を回っていたが、やがて、食欲に負けて和也の差し出した手のひらに近づき、恐る恐る実を咥えてまた少し距離をとり、空中でゆっくり咀嚼し始めた。
美の収集家を自負する和也にとって、その光景は美しいというより可愛らしいものでしかなかったが、妙に心和むものがあり、つい収納スペースからもう1つの樹人の実を取り出し、差し出してしまった。
実はこの行為が、後に重大な事件の引き金になるのだが、幼竜の幸せそうに実を食べる姿を見れば、誰も和也を責められはしないだろう。
好物の実を堪能し、心のたがが少し緩んでいたところに、すかさず次の実を差し出された幼竜は、すっかり和也に気を許し、今度は実を咥えても離れたりせず、和也のすぐ近くに留まって食べ始めた。
つい最近までボッチだった和也は、生き物をペットとして飼うこともなかったが、この心和む幼竜に対しては、王宮へ帰るまでの連れとして、もう少し一緒にいたい衝動に駆られ、わからないだろうとは思いつつ、声をかけてみる。
「この森を抜ける少し手前まで、よかったら散歩に付き合わないか?」
半分冗談で言ってみたが、驚いたことに、幼竜はこちらの顔をしばらく眺めた後、地に足を下ろし、その身体を和也にこすり付けてきた。
「よろしくな」
その行為を同意と受け止めた和也は、幼竜の身体を楽々と抱え上げ、行きよりもさらにゆっくりな歩調で、腕の中でじゃれてくる幼竜と戯れながら帰路へとついた。
その途中で、エレナから渡された液体を律儀に降りかけていったことは言うまでもない。
ただ、その液体を一定間隔で振りまいている際、片腕で抱えていた幼竜が、不思議そうな顔で和也を見るのが気にはなったが。
魔の森の一角に、今は活動を停止した火山があった。
その火口を降りていった所には大きな空洞があり、この森の主として深緑の鱗を持つ巨大な竜が棲みついていた。
竜種はもともと子供ができにくいが、その竜はそれに輪を掛けて子供に恵まれず、最近になってやっと産まれた幼竜をまさに溺愛していた。
竜種もこの世界の人間族同様、雌の方が力が強く、子供をつくる際以外は雄とは同居せず、単体で暮らしているせいもあり、人間族よりもむしろ子供に対する執着が強かった。
その日、いつものように外に遊びに出た幼竜が、なかなか帰ってこないことを心配に思ったが、深緑竜はもともと気性が穏やかで思慮深く、また、この森で自分に刃向かう存在など皆無だったため、もう少し帰りを待とうとしていた。
風に乗って流れてくる、あの忌まわしい匂いを嗅ぐまでは。
ダークエルフが魔獣を操る時、低位の魔獣ならともかく、高位の存在には自己の能力だけでは足りず、ある薬品を使用する。
その薬は、ある惑星の、猫という動物に対してマタタビを用いたような効果をもたらすもので、命令を受け入れ易くするために魔獣に対して一種の酩酊状態を作り出す働きがある。
さすがに最高位に位置する魔獣である竜種には効かないものの、術者の腕次第ではかなり高位の魔獣まで操ることが出来る、ダークエルフ秘伝の薬である。
魔の森に深緑竜が棲みついてより3000年、この匂いをかぐのはこれで4度目である。
過去3回はいずれも200年以上前のことで、1度目は薬の効果を試すため、2度目と3度目はダークエルフの術者が、セレーニア王国のエルフに復讐するために用いたが、全て深緑竜の怒りに触れて術者が殺されている。
この森の食物連鎖の頂点に立つものとして、自らが生きるために最小限の狩はするが、ただ己の野望や復讐のために、いたずらに魔獣を操り、敵と同士討ちさせるがごとき振る舞いで自分の縄張りにいる魔獣たちを無駄死にさせる行為は、この森の主としてとても許せるものではなかった。
セレーニア王国が必要以上に街の周囲を結界で囲むのも、過去に数百もの魔獣に一斉に襲われた教訓からきている。
今の女王の代になって、ダークエルフに対する差別がかなりなくなってきたこと、薬を使えばほぼ確実に深緑竜に殺されることから、ダークエルフの中でもこの薬はタブー扱いされ、その作り方も忘れ去られたはずであった。
エレナが、過去にこの薬を使った者の子孫でさえなければ・・・。
そんな、ある意味深緑竜の逆鱗に触れるに等しい薬の匂いをかがされ、我が子の帰りが遅いことを心配していた竜が真っ先に考えたこと、それは性懲りもなく、愚かなダークエルフ族が薬を使ったということ、そしてこともあろうに我が子をその薬で連れ去ったということである。
普段の冷静な深緑竜なら、自分たち竜種にあの薬が効かないことは当然わかっている。
だが、最愛の我が子を連れ去ったと思い込んだ今の竜にはそんな分別はなく、ただ怒りに我を忘れた凶暴な魔獣がそこにいるだけであった。




