エリカ編その8
和也の温もりを十分に堪能したマリーは、そっとその身体を離し、身を寄せるように横に座ると、討伐依頼の報酬について再度和也に確認し、書類にサインするよう求めてきた。
和也がサインすると、後でエレナに報酬を渡しておく旨告げられ、女王に報告に行かねばならないマリーと共に兵舎を出た。
出口付近でいきなり腕を捕られ、柱の影に押し込まれて素早く頬にキスされたが、『お礼』と言って僅かに舌を出しながら微笑むマリーの笑顔に見惚れて何も言えなかった。
マリーと別れて和也が向かった先は、王宮を少し離れて囲むように建っている住民街であった。
組合や、療養所もその一角にあり、市場などもあって人口の割りにかなりの賑わいを見せている。
ただ、やはり人間族は珍しいのか、歩いているだけでよく視線を送られた。
市場で売られている物は野菜や果物、魚、日用品などが多く、肉類はあまり見かけない。
娯楽も少ないようだ。
試しに何か買おうにも、まだこの国の貨幣を持っていない和也は、仕方なく療養所に足を向ける。
国立だけあってその外観は立派であるが、患者は少ないようだ。
入り口から覗くと、職員らしい女性が2人、暇そうに椅子に座っていた。
和也が立ち去ろうとした時、奥の部屋の扉が開き、職員らしき男性に付き添われた1人の少女が出てきた。
どうやら目が見えないらしく、足取りもおぼつかない。
薄い茶色の髪をわずかに揺らしながら、ゆっくりゆっくり歩いてくる。
途中で、男性から少女に話しかける声が聞こえた。
「気を落とさないように。
今はまだ無理だが、その内きっと見えるようになる。
迎えが来るまでここで休んでいなさい」
今まで何度も同じようなことを言われているのか、少女はただ頷いて、案内された椅子に座る。
そのまま身動きもせず、虚ろな瞳を虚空に彷徨わせていた。
職員が去った後、和也はその少女に興味を覚えて、その隣に静かに座る。
少女は、誰かが隣に座ったのに気付き、目の見えない顔を向けてきた。
「誰?」
覇気の感じられない、か細い声で聞いてくる。
「通りすがりの旅人だ」
自分のセンスのなさに悲しくなりながら、和也は答える。
「何の用?」
「少し君と話がしたいと思った。
構わないか?」
少女は話すことなど何もないと思ったが、かけられた声の響きに一切の哀れみや気遣いがないことに意外さを感じ、少しくらいならと頷いた。
「何時から見えないんだ?」
「お母さんは生まれた時からだと言ってる。
自分では分からない。
初めから何も見えないから」
「普段は何をしている?」
「?
意味が分からない」
「目が見えないなら友達と遊んだりできないよな?」
「友達などいない。
お父さんもお母さんもあまり話さない。
だから、1人でいろいろ考えてる」
「どんなことを?」
普段なら絶対に人に話したりしないのに、なぜかこの時は話してもいいと思えた。
「もし目が見えたなら、私の周りにはどんな人達がいるだろう?
どんな友達がいるだろう?
もしかしたら、かっこいい男の子もいるかもしれない。
自分から誰かに話しかけることができるかもしれない。
毎日の出来事を、笑いながら、時には涙を流して語り合うことができるかもしれない。
その人の顔を見ることができれば、苦しい時、悲しい時、何か言葉をかけてあげられるかもしれない。
でも、今の私には何もできない。
1人だけ、遠くから、みんなの姿を想像しているだけ」
聞き終えた和也の瞳から、涙が溢れそうだった。
自分にはよく分かる。
どんなに人と話したくても、どんなに人と接したくてもそれが叶わず、遥か遠くから観ていることしかできなかった辛さが、苦しみが。
程度の差こそあれ、この少女もその苦しみを味わっている。
この時にはもう、和也は少女の眼を治すことに決めていた。
神である自分は、本来なら全ての人の願いや苦しみに耳を傾ける必要があるのかもしれない。
でも、自分は知っている。
悲しみや苦しみも人を成長させる大事な要素であることを。
全てを一律に取り除いたら、人は成長を止めてしまうだろうことを。
この少女1人を救ったところで自己満足に過ぎないのかもしれない。
でも、それでいい。
神は気まぐれなのだ。
自分に出会ったこの少女は、いわば宝くじに当たったようなものなのだ。
「少し眠るといい。
目が覚めた時、君を取り巻く世界の色が、君の願いを叶えてくれるだろう」
そう言うと、和也は少女の頭を撫で、眠らせる。
そして少女の目が見えない原因を探っていく。
なるほど、魔眼の一種か。
その力が強すぎて、魔素が眼に溜まりやすくなり、眼球が耐えられなかったようだ。
少し考えて、和也は魔眼の力を削るより、眼球を強化することを選んだ。
人の悲しみ、苦しみを学んだこの娘なら、その力を決して悪用したりはしないだろうから。
処置を終え、去り際にもう一度優しく頭を撫でてから、療養所を後にする。
入れ替わるように中に入って行ったのが母親だろう。
夕暮れの街並みを、王宮へと向かいながら、長い長い1日を振り返る和也であった。
少女が目を覚ましたのは、それからまもなく、母親に揺すられてからのことだった。
眠りに就く前に聞いた、優しい響きの言葉を思い出しながら顔を上げると、少し疲れた感じの母親と思しき人がこちらを見ている。
何か違和感を感じた。
なぜ、母親の顔が見える?
周囲をゆっくり見回すと、やはり、部屋の様子が見える。
一瞬で我に返った。
さっきまでの出来事は本当のことだったのだ。
今までどうしても治らなかった自分の目が見える。
自分を取り巻く世界に色が付いている。
慌てて先程の声の主を探したが、見当たらなかった。
ただ、彼のものと思しき目映いばかりの魔力の残滓が、自らの魔眼に映るのみであった。